八王の乱の終わり
十一月夜、西晋の恵帝・司馬衷が䴵(餅。小麦を練って作った食物。蒸䴵、湯䴵等がある)を食べて毒に中り、そのまま恵帝は顕陽殿で死んだ。享年・四十八歳であった。
あるいは司馬越が鴆毒を盛ったとも言われているが不明である。
恵帝が帝位に居るようになると、政令は群下から出され、綱紀が大いに崩壊し、賄賂が公に行われ、勢位の家が尊貴な地位を利用して人々を虐げ、忠賢の路が絶たれ、讒邪が志を得て互いに薦挙しあうようになり、天下はこれを「互市(交易・売買)」と称したという。
高平の人・王沈が『釋時論』を著し、南陽の人・魯褒が『銭神論』を著し、廬江の人・杜嵩が『任子春秋』を著したが、全て時世を嫌って書かれたものである。
皇后・羊献容はこのことを知った時の反応はこうである。
「そうですか……」
彼女自身、恵帝への思いなど無いのである。そのため彼が死んでも特になんとも思わなかった。
そんな彼女に綠珠はこう言った。
「そのままだとあんた死ぬわよ」
「なんでですか?」
「全く、あんたあれほど面倒ごとに巻き込まれている割に鈍いわねぇ。いいからあなたは清河王を擁立しようとしなさい」
清河王とは元皇太子の司馬覃である。
「理由は皇太后にさせてくれないからということで良いでしょう。さあ、やりなさい」
彼女の言葉は理解できていなかったものの、羊献容はこれに従ったが、案の定、侍中・華混が諫めた。
「太弟は東宮にいて既に久しく(司馬熾は304年に皇太弟になっている)、民間における声望がかねてから定まっています。今日、どうして換えることができるでしょう」
と言い、露版(封をしていない文書)を送って急いで太傅・司馬越を召し、太弟を招いて入宮させた。
「やっぱり無理ですよぉ」
羊献容がそう言うが、綠珠は、
「ぐずぐずせずに清河王を呼びなさい」
と、強制したため羊献容は司馬覃を招いて入宮するように催促した。しかし司馬覃は尚書閤に至った時、変事を疑い、病を口実にして引き返した。
結果、そのまま太弟・司馬熾が皇帝の位に即いた。これを西晋の懐帝という。
「ほらあ」
羊献容はそう言ってから慌てた。自分の行為によって自分の首を絞めたのではないのかと思ったのである。
「大丈夫よ。これで」
一方、 綠珠はあっけらかんとそう言った。
懐帝は大赦を行い、皇后・羊献容を尊んで恵皇后とし、弘訓宮に住ませることにし、実母の王才人(名)を媛姫というが、出生については不明。武帝の宮に入って「中才人」になったが、早死した)を追尊して皇太后(懐王皇太后)とし、妃・梁氏を皇后に立てた。
「皇太后というわけではなく、遠ざけられただけですよね。これ」
羊献容としては皇太后の地位になど、興味は無いが結果として自分の信用が落ちただけではないかと思ったのである。
「これでいいのよ」
綠珠は呆れながらそう言った。
「遠すぎず、近すぎず。それが生き残るということよ」
彼女は最後にそう言った。
司馬熾は字を豊度といい、穏やかな性格であり、学問を好んだという。
290年に豫章郡王に封じられた。
恵帝の時代になり、混乱が起きている中、司馬熾は純朴で自分の節度を守り、賓客・游士を謝絶して、世事と交わることなく、専ら史籍を観賞したため、当時の世において声誉があった。
司馬熾は、初めは散騎常侍に任命されたが、趙王・司馬倫が帝位を簒奪した際に捕えられた。司馬倫が敗れると、射声校尉になり、昇格を重ねて車騎大将軍・都督青州諸軍事になったが、鎮には赴かなかった。
304年に改めて鎮北大将軍・都督鄴城守諸軍事の官職を授かり、その十二月、司馬熾は皇太弟に立てられたが、本来は清河王・司馬覃が太子だったため、懼れて受け入れようとしなかった。
典書令・廬陵の人・脩粛が司馬熾に言った。
「二相(司馬越と司馬顒)が王室を経営しており、社稷の安寧を志しているので、儲貳の重(跡継ぎの重任)は時望(当世において人望を得ている者)に帰すべきです。親賢の挙(賢才を愛して推挙すること。または皇帝と関係が近くて賢才がある者を推挙すること)において、大王の他に誰がおられるでしょうか。清河は幼弱で、衆心に符合していなかったので、太子になったのに、清河王に戻って藩国を治めることになったのです。今は皇帝が流亡して二宮が久しく空になっているので、氐羌が涇川で馬に水を飲ませ、螘衆(蟻衆。蟻のように群がる兵衆)が霸水で弓を引くことを常に恐れています。吉日に及んだら、すぐ儲副(後継者の地位)に登り、上は大駕を助けて早く東京を安寧にさせ、下は民衆の喁喁の望(切実な期待、願望。「喁喁」は仰望する様子)に応じるべきです」
司馬熾は、
「汝は私の宋昌である」
と言って進言に従った。宋昌は前漢時代、呂后の乱の後、文帝に即位を勧めた人物である。
懐帝は旧制を遵守するようにして、東堂(太極殿東堂)で聴政した。宴会の度に群官と諸政務について論じ、経籍について考察した。
黄門侍郎・傅宣が感嘆して、
「今日、また武帝の世を見ることができた」
と言った。
太傅・司馬越が詔書によって河間王・司馬顒を召還し、司徒に任命した。司馬顒は召還に応じた。
しかし南陽王・司馬模(司馬越の弟)がその将・梁臣を派遣して新安で迎えさせ、車上で司馬顒を絞殺した。司馬顒の三子も併せて殺された。
この司馬顒の死によって「八王の乱」が終わった。八王のうち七王(司馬亮、司馬瑋、司馬倫、司馬冏、司馬乂、司馬穎、司馬顒)が死に、司馬越が政権を掌握して長い内戦が終息したが、晋の政治は混乱を極めており、この後、失墜した権威を取り戻すことはできず、分裂の時代を迎えることになる。
中書監・温羨を左光禄大夫・領司徒に、尚書左僕射・王衍を司空にした。
并州刺史・劉琨が上党に至った。東燕王・司馬騰はすぐに井陘から東下した。
当時の并州は饑饉に襲われ、しかもしばしば胡寇(劉淵の党を指す)の略奪を受けていたため、郡県は自分を守ることができなくなっていた。
そこで、并州諸将の田甄、田甄の弟・田蘭、任祉、祁済、李惲、薄盛らおよび吏民一万余人が司馬騰に従って冀州で穀物を求め、「乞活」と号した。并州に残った戸数は二万も満たさず、しかも寇賊が縦横して道路が遮断されていた。
劉琨は上党で兵を募って五百人を得てから、転戦しながら前に進み、晋陽に至った。
官舎は焼毀されており、城市と郊野は寂寞とした様子であったが、劉琨が撫循労徠(「撫循」は安撫・慰問、「労徠」は慰労して帰順を促すこと)したおかげで、流民が少しずつ集まった。




