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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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晋帝奪還と成漢成立

 四月、司空・司馬越しばえつは兵を率いて温に駐屯した。


 太宰・司馬顒しばぎょうは、張方を殺したことで、東方の兵は必ず解散すると思っていた。ところが暫くすると、東方の兵が張方の死を聞いて、逆に争って入関しようとした。何せ張方は猛将として知られており、彼の強さは有名であった。その彼が死んだとなれば、もはや司馬顒の軍に脅威となる者はいない。


 司馬顒は後悔して郅輔しんほを斬り、弘農太守・彭隨ほうずいと北地太守・刁默ちょうもくを派遣して、兵を率いて湖(地名)で祁弘きこうらを拒ませた。


「張方以下の連中なんぞに負けるものか」


 祁弘らは士気が高いこともあり、彭隨と刁默を撃破し、西に向かって関に入り、更に司馬顒の将・馬瞻ばせん郭偉かくいを霸水で敗った。


 司馬顒は単馬で逃走して太白山に入った。


 祁弘らが長安に入り、統率していた鮮卑がそこで大略奪して二万余人を殺した。百官は奔走して山中に入り、橡実どんぐりを拾って食糧にする有様であった。


 祁弘らは太弟太保・梁柳りょうりょうを鎮西将軍に任命して関中を守らせ、自分たちは西晋の恵帝・司馬衷しばちゅうを奉じ、牛車に乗せて東に還った。行宮(皇帝が外出した時の宮室)では草を敷いて布団とし、公卿も困難な旅を続けた。

 

 六月、恵帝は長安から洛陽に至り、旧殿に登った。その際、彼は哀感して涙を流した。その後、太廟を拝謁した。


 その後、皇后・羊献容ようけんようの地位が恢復された。


 その頃、馬瞻らが長安に入り、梁柳を殺した。


 馬瞻らは始平太守・梁邁りょうぐうと共に南山から太宰・司馬顒を迎えた。


 しかし、弘農太守・裴廙はいよく、秦国内史・賈龕かせん、安定太守・賈疋かひつらが挙兵して司馬顒を撃ち、馬瞻と梁邁を斬った。


 この中の賈疋は字を彦度といい、魏の名臣・賈詡の曽孫である。幼い頃より深い見識と遠い見通しを持っており、器量・名望はみな常人を超越していた。彼に付き従う者は数多く、特に武人から尊敬され、みな彼の為に命を捧げて尽くしたという。


 始め公府(三公の官署)に仕え、重要な役職を歴任した後、しばらくして安定郡太守に昇進した人物である。

 

 司空・司馬越は督護・麋晃ひこうを派遣し、兵を率いて司馬顒を撃たせた。麋晃が鄭に至った時、司馬顒が平北将軍・牽秀けんしょうを馮翊に駐屯させた。


 しかし、司馬顒の長史・楊騰ようとうが司馬顒の命と偽って牽秀に兵を解かせ、更に牽秀を殺した。関中が全て司馬越に服し、司馬顒は長安を保つだけになった。











 范長生はんちょうせいが青城山から成都を訪ねた。


 成都王・李雄りゆうは門前で出迎え、笏を持って(正式な儀礼を表す)彼を丞相に任命し、尊んで「范賢」と呼ぶことにした。


 その范長生は李雄に尊号を称するよう勧めた。成都王・李雄はそれを受け入れ、皇帝の位に即いた。諡号は武帝で、後世では成漢の武帝と呼ばれることになる。


 以後、彼のことを成漢の武帝と呼ぶことにする。


 武帝は大赦して建興三年から晏平元年に改元し、国号を「大成」にした。


 父・李特を追尊して景皇帝とし、廟号を始祖にした。王太后・羅氏を尊んで皇太后にした。


 范長生を天地太師にした。范長生の部曲は全て徴税を免除するとされた。


 諸将が恩(諸将の武帝に対する恩、自分が立てた功績。または武帝による恩寵)に頼って官位を争ったため、尚書令・閻式えんしきが上書し、漢・晋の故事を参考にして百官の制度を立てるように進言した。


 武帝はこれに従い、制度を為した。










 八月、晋が司空・司馬越を太傅にして尚書の政務を総領させ)、驃騎将軍・范陽王・司馬虓しばこうを司空に任命して鄴を鎮守させた


 平昌公・司馬模しばもを鎮東大将軍にして許昌を鎮守させ、王浚おうしゅんを驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事・領幽州刺史にした。


 司馬越は吏部郎・庾敳ゆがいを軍諮祭酒に、前太弟中庶子・胡母輔之こぼほしを従事中郎に、黄門侍郎・郭象かくしょうを主簿に、鴻臚丞・阮脩げんしゅうを行参軍に、謝鯤しゃこんを掾にした。


 胡母輔之が楽安の人・光逸こういつ(戦国時代の燕人・田光の子孫)を司馬越に推薦し、司馬越は光逸を招聘した。


 庾敳らは皆、虚玄(虚空玄妙。道家の思想)を貴び、世務に関心を持たず、ほしいままに酒を飲んで放誕(行動が放縦で言葉が荒唐なこと)であった。


 また、庾敳は殖貨(財を集めること)に厭きることなく、郭象は薄行(品行が軽薄なこと)で招権(権力を集めて弄ぶこと)を好んだ。しかし、司馬越は彼らの名が世に重んじられていたため、招いて任用した。


 祁弘が関に入った時、成都王・司馬穎が武関から新野に奔り、そのまま成都に向かおうとした。


 これを新城公・劉弘りゅうこうが阻んだ。


 司馬越が恵帝を奪還すると、劉弘は参軍・劉盤りゅうはんを督護として恵帝の護衛を命じ、諸軍を率いさせて合流させた。


 八月、劉盤が役割を果たして帰還すると、劉弘は老齢を理由に刺史と校尉の官職を返上し、適切に所部へ分けて授けるよう朝廷に書を奉った。


 だが、朝廷に到着する前に彼は襄陽にて亡くなった。荊州の士女は皆非常に悲しみ、それは肉親を失ったかのようであったという。


 朝廷は劉弘を新城郡公に封じ、元公という諡号を贈った。


 そんな尊敬された彼の死を受け、司馬・郭勱かくばいは乱を為して司馬穎を迎え入れ、主に立てようとした。


 しかし、郭舒かくじょが劉弘の子・劉璠りゅうはんを奉じ、郭勱を討って斬った。


 恵帝が詔を発して南中郎将・劉陶りゅうとうに司馬穎を逮捕するよう命じた。


 司馬穎は北に向かい、渡河して朝歌に奔ってから、かつての将士を集めて数百人を得た。その後、自分のために反乱を起こした公師藩こうしはんを訪ねようとした。


 九月、頓丘太守・馮嵩ふうすうが司馬穎を捕えて鄴に送った。范陽王・司馬虓は司馬穎を殺すのが忍びなかったため、幽囚した。


 公師藩は白馬から南に渡河したが、兗州刺史・苟晞こうきが公師藩を討って斬った。


 十月、司空・范陽王・司馬虓が死んだ。急死である。

 

 かねてから鄴人が成都王・司馬穎に帰附していたため、司馬虓の長史・劉輿りゅうよは司馬虓の死を隠して喪を発せず、部下に朝廷の使者のふりをさせて、詔と称させると、夜の間に司馬穎に死を賜らせた。


 その夜、司馬穎は守衛の田徽でんびに、


「范陽王は亡くなったのか」


 と問うた。田徽は「知りません」と答えた。


 さらに司馬穎は


「汝は幾つかね」


 と聞くと、田徽は「五十です」と答えた。


 また司馬穎が、


「天命とは何か分かるかね」


 と、田徽に問いかけると、彼は「知りません」と返した。すると司馬穎は嘆息して、


「私の死後、天下は安定するかそれとも乱れたままなのか。私が放逐されて三年が経過したが、身体や手足を全く洗沐していない。湯水を数斗持って来たまえ」


 と叫んだ。それを聞いた司馬穎の二人の子が号泣すると、司馬穎は人を遣って子供だけでも逃がそうとしたが、失敗して殺された。


 司馬穎は髪を解き、頭を東に向けて横になると、田徽に首を絞められて殺された。享年二十八であった。彼の死を知った鄴城に人々は哀しんだという。


 こうして八人の王の内、六人目の王として司馬穎は死んだ。彼は若いながらも河北の人々の心を掴むなど、決して無能ではなかったが、朝廷の高位の魔力に当てられたのか、傲慢となった故に死を招くことになった。


 司馬穎の官属はこれ以前に皆、逃散していたが、盧志ろしだけは隨従しており、司馬穎の死に至っても怠ることなく、死体を引き取って納棺した。


 太傅・司馬越は盧志を召して軍諮祭酒にした。


 司馬越が劉輿を召そうとしましたが、ある人がこう言った。


「劉輿は膩(垢や汚れ)のようなものなので、近づけたら人を汚すことになります」


 嫉妬故の讒言なのか。それともそう言うほどの汚名が劉輿にあったのか。もしかすると司馬虓を死に追いやったのは彼なのか?


 後に劉輿が来たが、司馬越は疎遠にした。


 劉輿は秘かに天下の兵簿および倉庫、牛馬、器械の状況や水陸の形を視て、全て暗記した。


 当時、軍政・国政ともに多事で、会議の度に、長史・潘滔はんとう以下、どう対処すればいいか分かる者がいなかった。そんな中において劉輿は機に応じて進言を行った。その結果、司馬越は劉輿に膝を近づけて応対するようになり、すぐ左長史に任命して、軍国の任務を悉く委ねた。


 讒言を受けて遠ざけられたにも関わらず、実力で信頼をもぎ取ってみせたのである。


 その後、司馬越は劉輿の進言を全て記録するようになり、劉輿は上佐となった。


 劉輿の下を訪れる賓客はいつも満席であり、文案は机に満ち溢れていたという。


 遠近から彼の元へ学びに来る者は数千人に及んだが、劉輿はこれを煙たがらず、ある時は夜を徹して知識を教示した。


 皆、これに喜び、劉輿に従わない者はいなかった。また、その議論は流れる如く流暢で、人と応対するときは誠意が備わっていた。そのため時の人は劉輿の才能に服し、前漢の陳遵と並び称賛し、こう言った、


『司馬越府には三才があり、潘滔は大才、劉輿は長才、裴邈はんばくは清才である』


 十月、劉輿は司馬越を説得し、自分の弟・劉琨りゅうこんを派遣して并州を鎮守させることで、北面の重鎮にしようとした。


 司馬越は上表して劉琨を并州刺史とし、東燕王・司馬騰しばとうを車騎将軍・都督鄴城諸軍事にして鄴を鎮守させた。




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― 新着の感想 ―
[一言] 本来比較的意味も良くランクも高いはずなのに歴史上いまひとつなんだかなぁの人に使われている「景」が含まれてるのが、李特らしいんですよね。
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