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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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寧州の戦女神

 306年


 正月、太弟中庶子・蘭陵の人・繆播りょうはんは東海王・司空・司馬越しばえつに寵信されており、繆播の従弟に当たる右衛率・繆胤りょういんは太宰・司馬顒しばぎょうの前妃の弟であった。


 司馬越が挙兵した時、司馬越は繆播と繆胤を長安に派遣して司馬顒を説得し、帝を奉じて洛陽に還らせ、司馬顒と陝で天下を分けて伯にすることを約束した。


 司馬顒はかねてから繆播兄弟を信用して重んじていたため、これに従おうとした。しかし張方ちょうほうが、自分の罪(洛陽で略奪を行ったことと、恵帝に強制して遷都させたこと)が重いため誅首(誅殺されるべき主犯)にされることを恐れて、司馬顒にこう言った。


「今は形勝の地を占拠しており、国が富裕で兵が強く、天子を奉じて号令しているので、誰が敢えて従わないでしょうか。それにも関わらず、あなた様は拱手して人の制御を受けるのですか?」


 司馬顒はこの意見を聞いて繆播兄弟の説得に従わないことにした。


 やがて劉喬りゅうきょうが敗れると、司馬顒は大いに懼れ、撤兵して司馬越と和解しようとした。しかし張方が従わないことを恐れ、躊躇してなかなか決断できないでいた。


 張方は以前から長安の富人・郅輔しんほと親善な関係にあり、帳下督に任命していた。


 張方が山東から来たばかりの頃は微賎であったが、郅輔は彼を評価して厚く物資を供給してくれたのである。そのため、張方は自分が高貴になってから、郅輔との関係を親密にしていた。


 司馬顒の参軍・河間の人・畢垣ひつたんは、かつて張方から侮辱されたことがあった。そのためこれを機に彼を陥れようと司馬顒に言った。


「張方は久しく霸上に駐屯していますが、山東の兵が盛んだと聞いて、逗留して進もうとしません」


 司馬顒は張方と呂朗りょろうを派遣し、劉喬と合流して許を攻めるように命じていた。しかし張方は霸上に駐屯したまま進まず、その間に劉喬が敗れたのである。


「変事が生まれる前に防ぐべきです。彼の親信(信任している者)・郅輔がその謀を詳しく知っています」


 繆播と繆胤もまた司馬顒を説得して、


「急いで張方を斬ることで天下に謝すべきです。そうすれば、山東も労せずして安定させることができましょう」


 と言った。


 そこで司馬顒は人を送って郅輔を招いた


 畢垣が郅輔を迎えてこう問うた。


「張方が造反を欲しており、人々は汝がその事を知っていると言っている。王がもし汝に問うたら、どう答えるつもりだ?」


 郅輔が驚いた。そんなことは聞いたことは無いのである。


「誠に張方の謀反は聞いたことがありません。どうするべきでしょうか?」


 畢垣はこう言った。


「王がもし汝に問うたら、ただ『爾爾(はい、はい)』と言うことだ。そうしなければ、必ず禍から免れられなくなるだろう」


 その言葉に恐怖した郅輔が入室すると、司馬顒が問うた。


「張方の謀反を汝は知っているか?」


 郅輔は言われたように「はい」と答えた。


 再び、司馬顒が問うた。


「汝を派遣して彼を取らせるのは可能だろうか?」


 郅輔はやはり「はい」と答えた。


 司馬顒は郅輔を派遣して張方に書を送り、それを機に張方を殺させることにした。


 郅輔は張方と親密だったため、刀を持って入っても、門を守る者に疑われることはなかった。これほどの信頼を張方は彼に寄せていたのだろう。


 張方に書を渡し、彼が灯火の下で書を開いた瞬間、郅輔は彼の首を斬った。


 張方はこの時代を代表する猛将であった。しかしながら残虐で暴虐であったため、己の破滅を招いた。


 郅輔が還って報告すると、司馬顒は郅輔を安定太守に任命した。


 その後、司馬顒は張方の首を司馬越に送って和を請うた。しかし司馬越は同意しなかった。当たり前である。

 


 宋冑そうちゅうらが河橋を襲い、司馬穎しばえいの将・樓褒ろうほうを破りました。樓褒は西に走ります。


 平昌公・司馬模しばぼくが前鋒督護・馮嵩ふうすうを派遣し、宋冑と合流して洛陽に迫らせた。


 成都王・司馬穎は西の長安に奔ろうとしたが、華陰に至った時、司馬顒が山東と和親したと聞き(実際には、司馬越は和親を拒否している)、留まって敢えて進もうとしなくなった。


 呂朗が滎陽に駐屯していたが、劉琨りゅうこんが張方の首を示すと、投降した。


 司空・司馬越は祁弘きこう、宋冑、司馬纂しばさんらを派遣し、西晋の恵帝・司馬衷しばちゅうを迎えるために、鮮卑を率いて西に向かわせ、周馥しゅうふくを司隸校尉・假節とし、諸軍を都督して澠池に駐屯させた。








 三月、東莱惤令・劉柏根りゅうはくこんが反した。劉柏根はその兵は万を数え、自ら惤公を称した。


 王彌おうびが家僮(家の奴僕)を率いて劉柏根に従った。劉柏根は王彌を長史に、王彌の従父弟(従弟)・王桑おうさんを東中郎将にした。


 王彌は字を子固といい、二千石の官僚を代々輩出する名門の家系に生まれで、若くして洛陽に遊学したことがあった。


 その際に、漢王・劉淵りゅうえんと出会い、非常に仲が良くなった。


 その仲の良さは洛陽で劉淵が唯一人本音で語り合える間柄だったということからわかる。


 後に王弥は洛陽から故郷の青州に帰る事となったが、その際には劉淵は九曲の川岸まで見送り、別れを惜しんだという。


 劉柏根が臨淄を襲った。


 青州都督・高密王・司馬略しばりゃく劉暾りゅうとんに兵を率いて拒ませたが、劉暾は兵が敗れて洛陽に奔り、司馬略は逃走して聊城を守った。


 王浚おうしゅんが将を派遣して劉柏根を討たせ、これを斬った。


 王彌は逃亡して長広山に入り、群盗になり、大きな勢力を築くことになる。














 連年、寧州を疫病が襲い、死者が十万を数えるようになった。また、五苓夷が強盛になり、州兵がしばしば敗れた。


 そんな状況の寧州から交州に流入する吏民が甚だしく増えたため、五苓夷が寧州の州城を包囲した。


 寧州刺史・李毅りきは疾病を患い、救援の路も絶たれたため、上書した。


「寇虐を制御することができず、坐して滅亡を待っています。もし朝廷が憐憫。(「援軍・救援」の意味)を垂らさないのならば、朝廷の使者を降すことを乞います。私が生きていたら死刑を加え、もし死んでいたら、死体を晒して懲罰としてください」


 しかし朝廷からの回答はなかった。それどころではなかったのだろう。


 数年後、子の李釗りりが洛陽から李毅に会いに行ったが、到着する前に李毅は死んでしまった。


 寧州は主導者を失い。朝廷からの援軍は来ない。そんな絶望的な状況の中、人々が縋ったのは李毅の娘・李秀りしゅうである。


 彼女は明達で父の気風があったため、人々は李秀を推して寧州の政務を統領させることにしたのである。しかしながら女性でありながら一州の政務を行うというのは非常事態とは言え、驚くべき光景である。


「決して諦めてはなりません」


 李秀は鎧を纏い、城内を周り、戦士を奨励して城を固守し、城中の食糧が尽きても、鼠を炙ったり草を抜いて食べた。


 やがて長く包囲して五苓夷がわずかに緩んだのを伺い見るや、


「今こそ、好機です」


 李秀は自ら槍を持ち、兵を率いて襲撃を仕掛け、五苓夷を破った。その際、多くの物資と食糧を奪い取った。


 これにより、城内の兵士や住民の生活を改善させ、人心を落ち着かせることができた。


 その後も、李秀は常に自ら先頭に立って軍を統率し、城中の士気は鼓舞し続けた。


 五苓夷とこの後も戦い続けたが、最終的に李秀は五苓夷を敗走させることに成功した。だが、依然として寧州の情勢は不安定であった為、引き続き李秀は州全体の統治に当たった。


 李秀の活躍が恵帝の耳に入ると、彼女は寧州刺史・南夷校尉に任じられた。また、虎符を授かり五十八の部族を統治するよう命じられた。李秀は在任期間中、州民の安寧に努め、域内の動揺を落ち着かせ、異民族をよく帰服させた。その為、彼女は民衆からも大いに信望を得た。


 やがて兄の李釗が寧州にやって来ると、官吏達が寧州の管理事務を李釗へ引き継がせるよう勧めたため、李秀はこれに応じた。


 その後も彼女は引き続き父の職務を代行し、三十年余りに渡って三十七の部族を管轄し、諸々の彝族を服従させた。州民の安寧に努め、死ぬまでその職務にあたったという。


 李秀の死後、人々は大いに嘆き悲しみ、父母を亡くした時の様に祠廟を建立し、季節ごとにこれを祭ったため彼女は神霊の人物となった。


 また、彼女の功績は後世の各王朝からも高く評価された。隋の時代では、楊堅により鎮靖夫人に封じられ、華北でも彼女の功績が広く知れ渡るようになった。


 また、唐の時代においてこのようは話がある。


 618年、唐の李淵が即位した後、爨宏達は長安から雲南へ帰還し、寧州城を鎮守した。その際、異民族に包囲を受けた。


 爨宏達は李秀の祠へ出向き祈祷を行い、女神の加護を求めた。するとその夜に、狂ったような暴風雨が吹き荒れた。


 爨宏達はこれを絶好の好機と捉え、密かに出撃して包囲中の敵軍を壊滅させた。爨氏はこの出来事を李秀の霊験のおかげであると喜び、この出来事を朝廷へ上奏した。


 これを受けて唐の朝廷は、李秀を鎮靖明恵夫人に封じたという。


 さらに唐の玄宗・李隆基は李秀の忠烈に感動し、彼女を忠烈明恵夫人と改封して、忠烈廟という廟号を与えた。また、李秀の祠廟の前には扁額を下賜し、牌坊を建てさせた。


 李秀の祠廟は雲南でも最大規模の物であり、最高の建築規格であったという。


 1335年には、李秀の祠廟はさらに改修され、太常博士・賈賁は文を撰して、祠廟の前の石碑と並立させた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 李秀…正史に名ののこった唯一の女性将軍秦良玉とのちがいはなんでしょうね、資料的に信憑性が疑われるレベルのその他とは違うとおもうのですが。
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