陳敏
鄴にいる平昌公・司馬模が将軍・宋冑らを派遣して河橋に駐屯させた。
十一月、立節将軍・周権が司馬越の檄文を受け取ったと偽り、平西将軍を自称して、また羊献容を皇后に立てた。
しかし洛陽令・何喬が周権を攻めて殺し、羊献容を廃した。
太宰・司馬顒はこれを受け、偽の詔を発し、羊献容がしばしば姦人に擁立されているという理由で、尚書・田淑を洛陽に派遣し、勅令によって羊献容に死を賜らせることにした。
詔書が何回も至ったが、司隸校尉・劉暾らは自分の意見を堅持してこう上奏した。
「羊庶人は門戸が破損して空宮に廃位追放され、門が厳しく守られていますので、姦人と乱を為す理由がありません。衆人は愚者・智者を問わず、皆が冤罪だと言っています。今、一枯窮の人(一人の枯れ尽きた人)を殺すことで天下を悲痛させて、治世において何の益が有るのでしょうか?」
司馬顒は怒って呂朗を派遣し、劉暾を捕えさせた。
劉暾は青州に奔って高密王・司馬略を頼ったが、羊献容もこの一件によって禍から免れることができた。
「なんで私ばかり……」
羊献容はそう呟き、泣いた。皇后に好きでなったわけでは無いのに、周りの者が勝手に廃立したり、再び擁立されたりを繰り返された挙句に殺されかかるのは納得がいかなかった。
「全く皇后なんてなるもんじゃないわねぇ」
綠珠は軽口を叩く。そんな彼女に文句の一つも言いたいが、
(門を破壊されたままにしとくように言ったのは彼女だわ)
そのおかげで助かる理由の一つになった。
(今となっては彼女だけが頼り……)
相手が化け物であることはわかっている。そんな彼女に頼らなければならないほど、羊献容は孤独であった。
十二月、呂朗らが洛陽から東に向かって滎陽に駐屯した。
成都王・司馬穎がその後、進軍して洛陽を占拠した。
司馬虓は劉琨を幽州に派遣して王浚に兵を乞うた。
王浚は突騎を派遣して司馬虓を助け、王闡を河上で撃って殺した。
胡三省はここで、
「突騎は天下の精兵である。燕人は梟騎(勇猛な騎兵。突騎)を送って漢の高祖を助け、それによって項羽を破った。光武帝は漁陽・上谷の突騎を得て、それによって河北を平定した」
と、突騎の強さを解説している。
王闡が敗れたため、劉琨は司馬虓と共に兵を率いて官渡から黄河を渡り、滎陽を攻略して石超を斬った。
劉喬はこれを受け、考城から兵を率いて退いた。
司馬虓は劉琨と督護・田徽を派遣し、東に向かって廩丘で東平王・司馬楙を撃たせた。
司馬楙は敗走して国に還った。
劉琨と田徽はそのまま兵を率いて東に向かい、司馬越を迎えた。更に譙で劉祐を撃ち、劉祐は敗死させた。
そのため劉喬の兵も潰散し、劉喬は平氏(地名)に奔った。それを追いかけ、司馬虓は許昌を襲い、劉喬を蕭で破った。劉喬は更に南陽に奔った
司空・司馬越が進軍して陽武に駐屯した。
王浚がその将・祁弘を派遣し、突騎鮮卑・烏桓を指揮して司馬越の先駆にさせた。
陳敏は石冰に克ってから、自分の勇略に匹敵する者はいないと思うようになった。そして、江東で割拠する志を抱き始めた。
それを知った陳敏の父は怒って、
「我が家門を滅ぼすのは、この子に違いない」
と言い、憂死した。そのため陳敏は喪のために職を去った。
後に司空・司馬越が陳敏を起用して右将軍・前鋒都督に任命した。
司馬越が劉祐に敗れると、陳敏は東に帰って兵を集める許可を請い、それを機に歴陽を占拠して叛した。
この頃、呉王の常侍・甘卓が官を棄てて東に帰った。
甘卓が歴陽に至った時、陳敏は子・陳景のために甘卓の娘を娶り、甘卓に、
「陳敏を揚州刺史に任命する」
という皇太弟の令を詐称させた。
その後、陳敏は弟の陳恢および別将・銭端らを派遣して南の江州を攻略させ、弟の陳斌に東の諸郡を攻略させた。
江州刺史・應邈は弋陽に奔り、揚州刺史・劉機と丹楊(丹陽)太守・王曠(「王廣」)はどちらも城を棄てて逃走した。
こうして陳敏が江東を占拠した。
陳敏は顧榮を右将軍に、賀循を丹陽内史に、周玘を安豊太守に任命した。
陳敏は江東の豪傑・名士に対して、全て礼遇を加えた。将軍や郡守に任命された者は四十余人おり、老齢で病弱の者がいたら、出仕するのが困難であるとし、その地で等級に応じた俸禄を加えた。
しかしながら賀循は偽って狂疾(精神が錯乱する病)のふりをし、任官から免れた。
陳敏は賀循の代わりとして顧榮に丹楊内史を兼任させた。
周玘も病と称して郡に赴かなかった。
やがて、陳敏は諸名士を疑うようになり、最終的には自分のために働かなくなると考えて、全て誅殺しようとした。
これに顧榮が陳敏を説得してこう言った。
「今は中原で動乱が起き、胡夷が内部へ侵犯しているので、今日の形勢を観るに、中原の朝廷が再び振興することはできず、やがて百姓には後代がいなくなってしまうでしょう。江南は石冰の乱を経験したとはいえ、人も物もなお保全されており、私は、これを存続させる孫・劉(孫権や劉備)のような主が現れないのではないかと常に憂いていました。今、将軍の神武は世に並ぶ者がなく、功績も顕著になっており、兵は数万おり、戦艦も山積みになっています。もしも君子を信頼して、それぞれに心意を尽くさせ、蔕芥の嫌(小さな嫌疑)を解消し、讒諂の口を塞ぐことができたら、上方の数州(長江上流の州。揚州以西に位置する荊・江・豫・益等の州を指す)は、檄文を伝えるだけで安定させることができます。もしそうしないようならば、最終的には成功できないでしょう」
陳敏は名士の誅殺を中止した。
陳敏は僚佐に命じて自分を推挙させ、都督江東諸軍事・大司馬・楚公にして九錫を加えることを連名で尚書に上書させた。その後、中詔(宮中が発した皇帝直筆の詔)を受けたと称し、長江から沔・漢に入って鑾駕(皇帝の車)を迎え入れようとした。
これを受け、太宰・司馬顒は張光を順陽太守に任命し、陳敏を討つために、歩騎五千を率いて荊州に向かわせた。
劉弘も江夏太守・陶侃、武陵太守・苗光を夏口に駐屯させ、南平太守・汝南の人・應詹に水軍を監督させて後継にした。
陶侃と陳敏は同郡で(どちらも廬江の人)、しかも同じ年に推挙されて官吏になったため、隨郡内史・扈懐が劉弘にこう言った。
「陶侃は大郡におり、強兵を統率しているので、もしも異志があれば、荊州は東門を失うことになります」
しかし劉弘はこう言った。
「私は陶侃の忠能を得て久しくなる。そのようなことはない」
これを聞いた陶侃は子の陶洪と兄の子・陶臻を派遣して劉弘を訪ねさせ、自分の立場を固めた。
(蕭何に倣ったか)
劉弘はそう思いながら二人を招いて参軍にしつつも、二人に物資を与えて還らせ、こう言った。
「賢叔(陶侃)は出征しており、君の祖母は高齢なので、帰るべきだ。匹夫の交りでも裏切ることはない。大丈夫ならば、なおさらだ」
陳敏が陳恢を荊州刺史に任命して武昌に侵攻させた。
劉弘は陶侃に前鋒督護の官を加えて防がせた。
陶侃は輸送船を戦艦にした。そのようにするべきではないと主張する人もいたが、陶侃はこう言った。
「官の船を用いて官の賊を撃つのに、何の問題があるのか」
陶侃は陳恢と戦ってしばしば破り、陳敏の大将・銭端と長岐で対峙した。
戦いが始まる時、彼は襄陽太守・皮初に歩兵を率いさせ、張光に伏兵を設けて待機させた。武陵太守・苗光が水軍を率い、舟艦を沔水に隠した。皮初らが銭端と交戦すると、張光が伏兵を発して応じ、水陸が共に奮戦して、銭端を大敗した。
勝利した後も陶侃の軍は厳粛であり整然としており、戦利品はすべて士卒に分配し、私腹を肥やすことは無かったという。
南陽太守・衛展が劉弘に説いた。
「張光は太宰(司馬顒)の腹心であり、公は既に東海(司馬越)に与しています。張光を斬って向背(従うか逆らうか。自分の立場)を明らかにされるべきです」
しかし劉弘は、
「宰輔の過失がどうして張光の罪なのだ。人を危めて自分を安んじるのは、君子が為すことではない」
と言い、張光の殊勲を上表して昇格を加えるように乞うた。
見事な度量であると言える。




