劉公の一紙
司空・司馬越が琅邪王・司馬睿を平東将軍・監徐州諸軍事に任命し、下邳に留めて守らせた。司馬睿は王導に司馬の職に就くように請い、軍事を委ねた。
その後、司馬越は兵三万を指揮して西に向かい、蕭県に駐屯した。
范陽王・司馬虓も許昌を出て滎陽に駐屯した。
司馬越は承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって豫州刺史・劉喬を冀州刺史に換え、范陽王・司馬虓に豫州刺史を兼任させることにした。
しかし劉喬は司馬虓が天子の命を受けていないため、兵を発して拒んだ。
これを受け、司馬虓は劉琨を司馬に任命し、司馬越は劉蕃を淮北護軍に、劉輿を潁川太守に任命した。
劉喬は尚書に上書し、劉輿兄弟の罪悪を列挙して、それを機に兵を率いて許昌を攻めた。
劉喬が長子・劉祐に兵を率いさせ、蕭県の霊壁で司馬越を防がせたため、司馬越の兵は進めなくなった。
この頃、東平王・司馬楙が兗州におり、徴収が止まなかったため、郡県が命に堪えられなくなっていた。
それを見た司馬虓は苟晞を派遣して兗州に入らせ、司馬楙を都督青州に移したが、司馬楙は命を受け入れず、山東の諸侯(司馬越ら)に背いて劉喬と連合した。
その頃、太宰・河間王・司馬顒は山東で兵が起きたと聞いて甚だ懼れた。
公師藩の挙兵は成都王・司馬穎のために起きたため、司馬顒は上表して司馬穎を鎮軍大将軍・都督河北諸軍事に任命し、兵千人を与え、盧志を魏郡太守に任命し、司馬穎に従って共に鄴を鎮守させることにした。これにより、公師藩らを撫安しようしたのである。
また、司馬顒は建武将軍・呂朗を派遣して洛陽に駐屯させた。
更に司馬顒は詔を発して、東海王・司馬越らにそれぞれの国に就くように命じた。しかし司馬越らは従わなかった。
その頃、ちょうど劉喬の上事(上書。劉輿兄弟の罪悪や司馬越が挙兵したことが書かれている)を得た。
十月、西晋の恵帝・司馬衷が詔を下してこう宣言した。
「豫州刺史・劉喬の檄を得た。檄文は潁川太守・劉輿が驃騎将軍・虓を脅迫し、詔令に逆らい凶逆を形成させ、ほしいままに郡県を侵し、兵衆を集結させ、勝手に苟晞を用いて兗州刺史とし、王命を拒絶した、と称している。鎮南大将軍・荊州刺史・劉弘、平南将軍・彭城王・釋(司馬釋らはそれぞれ統括する兵を率いて、直接、許昌で会し、劉喬と協力せよ。今、右将軍・張方を大都督にして精卒十万を統べさせ、建武将軍・呂朗、広武将軍・騫貙、建威将軍・刁默らを軍前鋒とする。共に許昌で会して劉輿兄弟を除け」
司馬顒は成都王・司馬穎に将軍・劉褒らを統領させ、前車騎将軍・石超に北中郎将・王闡らを統領させ、河橋を占拠させて劉喬の後援にした。
また、劉喬の官位を鎮東将軍に進めて符節を授けた。
劉弘が劉喬と司空・司馬越に書を送った。怨恨を解いて兵を解散し、共に王室を守るべきであるという内容である。しかし双方とも聴き入れなかった。
そこで劉弘は恵帝と司馬顒に上表した。
「最近は兵戈が混乱としており、猜疑が鋒生(恐らく「蜂生」と同義。多発するという意味)して、対立が群王の間で形成され、災難が宗子(宗族の子弟)に延びています。今日は忠臣でも、明日には逆臣となり、是非が容易に反覆して、互いに戎首(戦事の首謀者。禍首)となっています」
胡三省は、
「まさしく司馬冏、司馬乂、司馬穎、司馬顒の事がこのようである」
と、述べている。
「史書の記述が始まって以来、骨肉の禍が今のようだったことはありません。私は心中でこれを悲しんでいます。今、辺境には防備の蓄えがなく、中華には中枢の困があるのに、股肱の臣は国体を思わず、尋常(長短。「尋」は八尺で、その倍が「常」)を競うことを職にして、自ら互いに傷つけあっています。万が一、四夷が虚に乗じて変を為したら、猛虎が互いに争って自ら卞荘の餌になったのと同じことになります。私が思うには、速やかに明詔を発して司馬越らに命を下し、双方に対立を解かせ、それぞれに分局(分けられた部署)を守らせるべきです。今から後に、もし詔書を受け入れず、勝手に兵馬を興す者がいたら、天下が共にこれを伐つべきです」
太宰・司馬顒は、まさに関東の兵を拒んでいる時で、劉喬に頼って自分の助けとしていたため、劉弘の言を採用しなかった。
劉喬が虚に乗じて許昌を襲い、破った。
劉琨が兵を率いて許昌を救おうとしたが、間に合わなかったため、兄の劉輿および范陽王・司馬虓と共に河北に奔った。
劉琨の父母は劉喬に捕えられた。
劉弘は、
「張方が残虐で、暴虐なため、司馬顒は必ず敗れることになる」
と判断した。そこで、参軍・劉盤を都護に任命して派遣し、諸軍を率いて司空・司馬越の指示を受けさせた。
当時、天下が大いに乱れており、劉弘は専ら江・漢(長江・漢水一帯)を監督して、威を南方に震わしていた。
劉弘は、事を謀って成功したら、
「某人(他の者)の功である」
と言い、失敗すれば、
「私の罪である」
と言った。
また、興発(「興」は人を動員すること、「発」は財賦を徴発することです)があるたびに、直筆の書を太守・国相に送り、その態度は丁寧かつ親密であった。
そのため、人々は皆、感動し、争って劉弘の下に赴き、そろってこう言った。
「劉公の一紙の書を得るのは、十部の従事を派遣するよりも効果がある」
それほど慕われている彼に前広漢太守・辛冉は従横の事(合従連衡の事。他の勢力と同盟して地方で割拠する計)を説いた。それを聞いた劉弘は怒って辛冉を斬った。




