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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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皇帝は長安へ

 西晋の恵帝・司馬衷しばちゅうが洛陽に還ってからも、張方ちょうほうは兵を擁して朝政を専制しており、太弟・司馬穎しばえいは再び政事に関与することができなくなっていた。


 豫州都督・范陽王・司馬虓しばか、徐州都督・東平王・司馬楙しばぼうらが上言した。


「穎は重任を負うことができないので、降格して封地を一邑に減らし、特別にその命を全うさせるべきです。太宰(河間王・司馬顒しばぎょう)は関右の任を委ねるのに相応しいので、州郡以下の選挙・任命は司馬顒の指示を仰いで実行し、朝廷の大事も、廃興・損益については毎回、司馬顒に訪問して意見を求めるべきです。張方は国のために節を尽くしましたが、変通(時節の変化に応じた行動)に達しておらず、すぐ西に還ってはいません。彼を遣わして郡に還らせるべきであり(張方は馮翊太守)、張方に加えた官は全て元に戻すことを請います。司徒・戎(王戎おうじゅうと司空・越(司馬越しばえつ)は並んで忠国かつ慎重なので、機事(国家の大事)を行わせて朝政を委ねるべきです。王浚おうしゅんには社稷を安定させた勲(挙兵して司馬穎を討った功績)があるので、特別に崇重し、そうすることで幽朔を安撫して、長く北藩とさせるべきです。我々が力を尽くして城を守り、皇家の藩屏となれば、陛下が垂拱(衣を垂らして手を拱くこと。何もしないこと)していても、四海は自ずから正されましょう」


 張方が洛陽に滞在して既に久しくなり、兵士がほとんどの物資・財貨を強奪、略奪し尽くした。そのため兵たちは騒ぎはじめ、洛陽に留まろうという意思がなくなった。


 張方らは互いに商議して、恵帝を奉じて長安に遷都することを欲した。しかし恵帝や公卿が従わないのが懸念であった。そのため恵帝が外出するのを待って強制しようとし、謁廟(宗廟の謁拝)に行くように請うたたが、恵帝は同意しなかった。


 十一月、張方は兵を率いて入殿し、自分が乗っていた車で恵帝を迎えた。


 恵帝は馳せて後園の竹の中に逃げたが、軍人が引き出して、恵帝に迫って上車させた。恵帝は垂泣(声を出さずに涙を流して泣くこと)して従った。哀れである。


 張方が馬上で稽首してこう言った。


「今は寇賊が縦横しており、宿衛が寡弱なので、陛下が私の陣に行幸することを願います。私が死力を尽くして不測の事態に備えましょう」


 当時、群臣は皆、逃げ隠れしており、中書監・盧志ろしだけが傍に仕えていた。盧志は恵帝に言った。


「陛下の今日の事は、一切を右将軍(張方)に従うべきです」


 それが恵帝の安全に繋がるのである。恵帝は同意して張方の陣に行幸した。


 恵帝は張方の陣に三日間停留した。


 その後、張方は恵帝および太弟・司馬穎、豫章王・司馬熾らを擁して長安に向かった。その途中で、王戎は郟に出奔した。


 張方らが出発して新安に駐留した時、寒さが甚だしく、恵帝が馬から落ちて足を負傷した。尚書・高光こうこうが面衣(顔を覆う布)を進め、恵帝はこれを嘉した。


 河間王・太宰・司馬顒は官属と歩騎三万を率いて霸上で恵帝を迎えた。司馬顒が前に進み出て拝謁したが、恵帝は車から下りて制止した。


 恵帝は長安に入り、征西府(征西将軍府。司馬顒の将軍府)を宮にした。尚書僕射・荀藩じゅんはん、司隸・劉暾りゅうとん、河南尹・周馥しゅうふくだけが洛陽で留台(京師を留守する官府)を組織し、承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって事を行った。この後、洛陽は「東台」、長安は「西台」と号されることになる。


 因みに荀藩は荀勗(晋初の功臣)の子である。















 十二月、恵帝が詔を発して太弟・司馬穎を成都王の身分で家に還らせた。改めて豫章王・司馬熾しばしを皇太弟に立てた。


 恵帝には二十五人の兄弟がいたが、当時、生存している者は司馬穎、司馬熾および呉王・司馬晏しばあんだけでした。司馬晏の材資(能力・資質)が庸下(凡庸、低劣)だったのに対して、司馬熾は沖素(淡白・素朴)で好学だったため、太宰・司馬顒が皇太弟に立てた。


 恵帝が詔によって司空・司馬越を太傅に任命し、司馬顒と共に帝室を補佐させることにした。郟にいる王戎にも朝政に参録(参与・総領)させた。


 また、光禄大夫・王衍おうえんを尚書左僕射に任命した。


 高密王・司馬略しばりゃくを鎮南将軍・領司隸校尉に任命し、暫時、洛陽を鎮守させた。


 東中郎将・司馬模しばばくを安北将軍・都督冀州諸軍事に任命して鄴を鎮守させた。


 司馬略と司馬模はどちらも司馬越の弟である。


 百官をそれぞれ本職に戻らせた。


 州郡に詔を発し、苛政を廃除して、民を愛して本業(農業)に務めさせ、清通の後(戦乱が収まって道が通じてから)、洛陽に帰還することを宣言した。


 大赦して永興元年に改元した。


 王浚が鄴を去ってから、司馬越は司馬模に鄴を鎮守させていた。


 司馬顒は四方が乖離して禍難が止まないため、今回の詔(司馬越を太傅に任命し、司馬模に鄴の鎮守を命じる詔)を下して諸王を和解させ、少安を獲ることを期待した。


 しかし司馬越は太傅の官を辞退して受け入れなかった。


 恵帝が詔によって太宰・司馬顒を都督中外諸軍事に、張方を中領軍・録尚書事・領京兆太守にした。


 胡三省がこう解説している。


「当時は帝が長安にいたので、京兆太守が実際には輦轂(皇帝の車。転じて京城)の下を掌管していた。張方は兵を握っており、司馬顒が親倚(親任して頼りにすること)していたため、張方に京兆太守を兼任させた」









 東嬴公・司馬騰しばとうは将軍・聶玄じょうげんを派遣して漢王・劉淵りゅうえんを撃とうとした。しかし聶玄の軍は大陵で劉淵軍と戦ったが大敗した。


 劉淵は劉曜りゅうようを派遣して太原を侵させ、泫氏、屯留、長子、中都を取った。


 また、冠軍将軍・喬晞きょうきを派遣して西河を侵させ、介休を取った。


 介休令・賈渾かうんが投降しなかったため、喬晞は賈渾を殺し、その妻・宗氏を娶ろうとした。しかし宗氏が喬晞を罵って哀哭したため、喬晞は宗氏も殺した。


 それを聞いた劉淵は激怒した。


「もし天道に知覚があるとすれば、そのような非道なことをした喬晞の子孫を断絶するだろう」


 劉淵は使者に喬晞の後を追わせて召還し、秩四等を降した。


 また、賈渾の屍を収めて埋葬した。





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― 新着の感想 ―
[一言] >それを聞いた劉淵は激怒した。 「もし天道に知覚があるとすれば、そのような非道なことをした喬晞の子孫を断絶するだろう」 こういう世間の目(あるいは天意)をきにする人物は大望があるから敵対す…
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