司馬攸
283年
西晋の武帝・司馬炎が太常に命じ、斉王・司馬攸に崇錫する物(斉王を尊重して下賜する物)について議論させた。
すると博士・庾旉、太叔広、劉暾、繆蔚、郭頤、秦秀、傅珍が上表した。
「昔、周は明徳の者を選び建てて王室を補佐させ、周公、康叔、聃季が皆、朝廷に入って三公になりました」
この三人は周の武王の弟で、周公は太宰に、康叔は司寇に、耼季は司空になった。
「これは股肱の任(国君を輔佐する任務)が重く、守地の位(地方を守る諸侯の地位)が軽いことを明らかにしたのです。漢の諸侯王は位が丞相や三公の上にありました。そのうち、朝廷の高官を兼任しましたが、朝廷を出て国に赴いた者には、大臣の虚名を授けて皇帝の厚愛とすることはありませんでした」
胡三省は補足として、
「漢の諸侯王で朝政を輔佐した者は東平王・劉蒼(光武帝の子)だけである」
と解説している。
「今、斉王を賢とみなされるのであれば、同母弟という親尊(皇帝と親しくて尊い身)をもって魯や衛のような普通の諸侯の地位に居させるべきではなく、もし不賢とみなすならば、広大な領地を与えて斉という大国を建てるべきではありません。古礼によるならば、三公に職務がなければ、朝廷で坐して道を論じるものであり、方任(地方の長という地位)によって守らせるとは、聞いたことがありません。ただ、周の宣王だけは、辺境が朝から夜まで急を救うように求めたので、宰相の召の穆公に命じて淮夷を征討させました。しかしながら『詩』が『徐夷が背かなくなり、王が凱旋を命じた』と言っているのは、宰相が久しく外にいるべきではないからです。今、天下が既に定まり、天地四方が家となったので、しばしば三公を招いて、共に太平の基礎について論じるべきであるのに、逆に外に出して王城から二千里も去らせるとは、旧章に違えることです」
因みに庾旉は庾純の子、劉暾は劉毅の子である。
庾旉は上書の草稿を準備してからまず庾純に提出した。庾純はこれを止めようとしなかった。
この事が太常・鄭黙と傅士祭酒・曹志を経過した時、曹志が悲傷の様子で、嘆いた。
「このように才があり、このように陛下と親しいのに、基礎を建てて教化を助けることができず、逆に遠く僻地に出るというようなことがあるだろうか。晋室の隆盛が危うくなってしまう」
曹志は字を允恭といい、魏の陳思王・曹植の息子である。曹植は魏の文帝・曹丕と兄弟であったが、文帝が曹植を嫌ったため、厳しい禁制を設けられたことを知っており、武帝が同じことをしようとしていることを感じたのである。
そこで曹志が奏議した。
「古において王室を補佐した者は、同姓には周公がおり、異姓には太公(呂尚)がおり、皆、身が朝廷にあって、五世におよんで反葬されました」
「反葬」とは、外地で死んで霊柩が故郷に帰されることである。ここでは、周公と太公が封国に行かず、朝廷の大臣として周で死んだことを指している。
「周王室が衰えてからは、五霸が代わる代わる興りましたが、どうして周・召の治(周初期の周公・召公による治世)と同日に論じることができましょう。羲皇(伏儀)以来、天下は一姓の者が独占できたのではありません。至公の心(極めて公正な心)を推し広めて、天下とその利害を共にするべきです。そうすれば、長久に国を有すことができます。だからこそ、秦・魏は皇帝がその権を独占しようとしてその身を亡ぼすことになり、周・漢はその利を分けることができたので、親疏ともに用いられたのです。これは前事における明験(明らかな証明)でございます。私が思うに、博士等の議の通りにするべきです」
曹志がこの論議を提出する直前に、従弟で高邑公の曹嘉と会った。曹嘉はこれを読んだ後、こう言った。
「従兄(曹志)の言は、とても切実なものです。百年後に史書に必ずや記録されることでしょう。しかしながら目下のところは譴責を受けるのではないでしょうか?」
後世の評価は与えられるが、武帝の怒りを買ってしまうやめた方がよいということである。しかしながら曹志はそれでも提出した。
(魏よりも優れているべきこの王朝が魏と同じ間違いを犯すべきではない)
彼はそう思っていたのだろう。
しかしながら武帝はこれを読むと激怒し、
「曹志ですら私の心を理解していない。天下の人々ならば、なおさらだろう」
と言った。この武帝の言葉は、
「曹志は魏の文帝の曹植に対する禁制がどのようだったのかを知っているはずなのに、司馬攸を優待している私の心を理解できないのか」
という言葉が含まれている。また、武帝はこう言った。
「博士は問われたこと(斉王に下賜する礼物についての問い)に答えず、問うていないこと(斉王を朝廷から出すべきかどうか)に答えて、恣意的に異論を作った」
武帝は官員に命じてまず、鄭黙を策免させた。
尚書・朱整と褚䂮が上奏した。
「曹志らは職権を侵して職責から離れ、朝廷を惑わし、悪言を崇めて飾りながら、それを直言であると偽りました。曹志らを捕えて廷尉に送り、罪を科すことを請います」
武帝は詔を発して曹志の官を免じ、公のまま邸宅に還らせることにした。曹志は魏の時代に陳王を継いでいたが、晋が禅譲を受けてから鄄城県公に落とされていた。この身分のままに還らされたということである。
その他の者は皆、廷尉に送られて罪を科された。
庾純が廷尉を訪ねて自首し、
「旉(庾純の子)は上書の草稿を私に見せて示しました。私が浅はかだったため、それを許可したのです」
と、言った。
武帝は詔を発して庾純の罪を免じたが、廷尉・劉頌が上奏し、庾旉らは大不敬なので棄市に処すべきであると訴えた。尚書も上奏して、廷尉が刑を実行する許可を請うた。
しかし尚書・夏侯駿は、
「朝廷が八座を立てたのは、正にこの時のためだ」
と言い、一人だけ反対した。
「八座」とは六曹尚書と尚書令、尚書僕射を合わせた言葉のことである。
その結果、左僕射・下邳王・司馬晃も夏侯駿の意見に従った。そのため奏議は宮中に七日間留められ、やっと武帝が詔を発した。
「庾旉は議主なので斬首に処すべきだが、庾旉の家人が自首したので、太叔広ら七人と併せて、皆、その命を貸し与え、そろって除名するのが相応しい」
この判断を寛容の一言で済ませるべきなのか、甘すぎると捉えるべきなのか、難しいところである。ただ武帝がこの判断が臣下の直言に対して寛容な自分というのを表現できていると思っているのであれば、間違いであろう。
因みにこの件の関わった一人である曹志は後年、母が亡くなり、悲しみのあまり精神を病んで喜怒が常軌を逸した結果、死去した。
当時の太常が乱心して亡くなったことから悪諡を奏上したが、崔褒が、
「魏顆は、父親が病のため正気ではなかったとして、その命に従いませんでした。今、曹志へ諡するに際し、彼ではなく彼の病へ諡しようとされていますが、彼は病のため正気ではなかったのです」
と諌めたため、諡が「定」となった。
二月、武帝が詔を発し、斉国に済南郡を合併させて領地を増やし、斉王・司馬攸の子・長楽亭侯・司馬寔を北海王に立てた。
また、命を発して司馬攸の備物(儀仗や祭祀で使う器物)・典策(典章制度の規格)を定めた。
軒県の楽(「県」は「懸」と同義で。「軒県」は部屋の三面に楽器を懸けることで、諸侯に許された形式である。天子の形式は四面に楽器を懸ける「宮県」という)、六佾の舞(六人六列、合計三十六人の楽舞。諸侯に許された形式のことで、天子の形式は「八佾」といい、八人八列の六十四人である)、黄鉞・朝車(恐らく朝礼に参加するための車)、乗輿の副従(恐らく副車や従者)が設けられた。
斉王・司馬攸は朝廷から離れて封国に行くことになったため、憤怨して発病した。そこで、先后(母・文明皇后)の陵墓を守ることを乞うた。
しかし武帝はそれを許さず、御医を派遣して診察させることにした。諸医は武帝の意旨を推し測り、皆、
「病を患ってはいません」
と、報告した。武帝の意思が司馬攸の排除にあることを理解した言葉である。
河南尹・向雄が武帝を諫めた。
「陛下は子弟が多いとはいえ、徳望がある者は少数です。斉王が臥して京邑に居るだけで、益となることが実に深いので、考慮しないわけにはいきません」
武帝がこの意見を採用しなかったため、向雄は憤懣して死んでしまった。
司馬攸の病が篤くなったが、武帝はやはり道に就くように催促した。
司馬攸は自ら無理に入宮して武帝に別れを告げに行ったが、かねてから容儀(立派な外貌)を保っていたため、病が重くなっても身を正して自分を励まし、挙止がいつもと変わらなかった。
だが、それが却って武帝に司馬攸がますます病を患っていないのではないかと疑わせることになり、
「早く斉へ行け」
と、冷淡な対応をするのみであった。
司馬攸は別れを告げて出発し、その数日後に血を吐いて死んだ。享年・三十八歳という若さであった。
彼は礼を失うことなく、寛容かつ行き届いた配慮を行え、尊重される人物であった。しかしながら優秀し過ぎて、己を隠すことができなかった。正直な人だったのだろう。
武帝が臨喪(自ら喪に臨むこと)に行くと、司馬攸の子・司馬冏が号踊(足を踏み鳴らして号哭すること)し、父の病が医者達が嘘の報告をして病を隠したと訴えた。
武帝は詔を発してすぐに医者を誅殺し、司馬冏を司馬攸の後嗣にした。司馬攸には献王という諡号が贈られた。
以前、武帝は甚だ厚く司馬攸を愛していたが、荀勗、馮紞らのために関係を悪化させ、自分の死後のことを配慮しようと欲したため、司馬攸を朝廷から出すことになった。
司馬攸が死ぬと、武帝は哀慟して止まなくなった。すると側に侍っていた馮紞が言った。
「斉王は名が実を過ぎており、天下がこれに帰しておりました。今、自ら死亡したのは社稷の福です。陛下はなぜ過度に哀しむのですか?」
武帝は涙を収めて泣くのを止め、詔を発して司馬攸の喪礼を安平献王・司馬孚の故事に則らせた。
国家の主柱となるべき者の一人が倒される中、一人の傑物が世に表れようとしていた。




