二人の王の誕生
王浚と東嬴公・司馬騰は兵を合わせて王斌を撃ち、大破した。
そのまま王浚は主簿・祁弘を前鋒にして平棘で石超を敗り、勝ちに乗じて進軍した。
候騎(偵察の騎兵)が鄴に至ったため、鄴中が大いに震撼し、百僚が奔走して士卒が分散した。
盧志が司馬穎に進言して、西晋の恵帝・司馬衷を奉じて洛陽に還るように勧めた。この時、塀はまだ一万五千人いた。
盧志は夜の間に将兵の部署を整え、早朝に出発しようとした。ところが程太妃(司馬穎の母)が鄴に恋々として去ることを望まなかったため、司馬穎は躊躇して決断できなかった。
その結果、一万いた塀はにわかに崩壊した。
司馬穎はついに帳下の数十騎と盧志を率いて恵帝を奉じ、犢車(牛車。晋制では、諸公が皁輪犢車(黒い車輪の牛車)に乗った)を御して、南の洛陽に奔った。
突然の事だったため、上下の者とも荷物を持っていなかったが、中黄門が被囊(布団や衣服を入れる袋)の中に私銭三千を携行していたため、恵帝は詔によってそれを借り、道中で飯を買い、夜になったら中黄門の布団で寝て、食事は中黄門の瓦盆(粗末な食器)を使った。
恵帝は温(地名)に至ると陵墓を謁拝することにした。司馬氏は河内温県孝敬里の出身だったため、京兆尹・司馬防(司馬懿の父)以前の先祖は温に埋葬されていた。
その際、履物を喪ったため、従者の履物を履き、陵墓で下拝(跪いて拝礼すること)して涙を流した。
済河に至った時、張方が洛陽から子の張羆を派遣し、騎兵三千を率いて、自分が乗っていた車で恵帝を迎えさせた。恵帝が芒山の下まで来ると、張方が自ら一万余騎を率いて迎え入れた。張方が拝謁しようとしたが、恵帝は車を下りて自らそれを止めた。
恵帝が皇宮に還り、奔散した者も徐々に帰還し、百官がおおよそそろった。
王浚が鄴に入った。士衆が乱暴や略奪を行い、死者が甚だ多数に上った。更に王浚は烏桓の羯朱に太弟・司馬穎を追撃させたが、朝歌に至っても追いつけなかった。
王浚は薊に還ったが、鮮卑の多くの者が人の婦女を奪っていたため、命を下して。
「敢えて隠している者は斬る」
と宣言した。そのため、易水に沈められた者が八千人もいた。
胡三省はこう書いている。
「王浚は進んでも勤王を成さず、しかも鮮卑、烏桓を放って夏華を混乱させた。後に石勒の手によって死ぬが、晩かった」
辛辣である。
東嬴公・司馬騰は劉淵を撃つため、拓跋猗㐌(たくばついい)に兵を乞うた。猗㐌は弟の猗盧と兵を合わせ、西河で劉淵を撃って破り、司馬騰と于汾で盟を結んで還った。この後も拓跋氏はしばしば兵を用いて并州を助けることになる。
劉淵は太弟・司馬穎が鄴を去ったと聞いて、嘆いてこう言った。
「私の言を用いず、逆に自ら奔走するとは、まさに奴才である。しかし私と彼の間には前言(約束)がある。救わないわけにはいかない」
劉淵が兵を発して鮮卑や烏桓を撃とうとしたが、劉宣らが諫めた。
「晋人は我々を奴隷のように扱ってきました。今、その骨肉が殺し合っていますが、これは天が彼らを棄てて、我々に呼韓邪(漢代の匈奴単于)の業を恢復させようとしているのです。鮮卑、烏桓は我々の気類(気質が同じ者。同類)なので、援けとすることができましょう。どうしてこれを撃とうとされるのですか」
劉淵はこれに頷きながもこう言った。
「善し。但し大丈夫とは漢の高祖(劉邦)や魏の武帝(曹操)のようになるべきだ。呼韓邪はどこが倣うに足りるのだ」
この言葉に劉宣らは稽首して、
「劉淵の気宇や思考は、我々の及ぶところではありません」
と言い、益々彼を慕った。
劉淵が左国城に遷都した。胡・晋(異民族と漢人)で帰順する者がますます増えていった。因みに左国城に遷都した後も劉淵自身は離石に留まったそうである。
劉淵が群臣に言った。
「昔、漢が天下を有して長久だったのは、民に恩徳を用いたからだ。私は漢氏の甥であり(匈奴単于が漢室と和親したため)、盟約して兄弟になった。兄が亡んだら弟が継承するというのも、正しいことではないだろうか」
こうして劉淵は国を建てて「漢」と号した。
劉宣らが帝号を称すように請うたが、劉淵は、
「今は四方がまだ定まっていない。とりあえずは高祖に倣って漢王を称すべきだ」
と言って、漢王の位に即いた。
劉淵は大赦し、元熙元年に改元した。
安楽公・劉禅(蜀漢後主)を追尊して孝懐皇帝とし、漢の三祖・五宗の神主を作って祭った。
三祖は漢の高祖(前漢・劉邦)、世祖(後漢の光武帝・劉秀)、昭烈(蜀漢・劉備)、五宗は太宗(前漢の文帝)、世宗(前漢の武帝)、中宗(前漢の宣帝)、顕宗(後漢の明帝)、粛宗(後漢の章帝)である。
劉淵は妻の呼延氏を王后に立てた。
右賢王・劉宣を丞相に、崔游を御史大夫に、左於陸王・劉宏を太尉に、范隆を大鴻臚に、朱紀を太常に、上党の人・崔懿之と後部の人・陳元達を黄門郎に、族子(同族兄弟の子)・劉曜を建武将軍に任命した。
しかし崔游は固く辞退して官職に就かなかった。
崔游は劉淵の師で、范隆と朱紀は同門生(同門の生徒、弟子)である。
陳元達は字を長宏といい、匈奴後部の族長の子として生まれたが、誕生した月が父と同じであったため、父の禁忌を避けるため、「陳」に改姓した。
幼い時から志が高く、節義があった。少年時代に両親を失い、貧しい生活を送った。そのために指導者を失った彼の部族は四散した。彼は故郷から近い晋陽で、農耕や狩猟で生計を立てながら生活を送った。
四十歳を超えても人々と接触せずに、学問に没頭した。以前、劉淵に招かれたが、応じなかった。
劉淵が漢王になると、ある人が陳元達に問うた。
「汝は以前、劉淵の招聘を断ったが懼れているか?」
陳元達は笑ってこう言った。
「私はその人(劉淵)を知って久しく、彼も私の心を明確に理解している。ただ思うのは、恐らく二日、三日もせずに駅書(駅馬による文書)が必ずや至るだろう」
その日の暮、果たして劉淵が陳元達を召した。人々は驚愕し、
「陳元達は聖人なのか」
と言いあったという。
劉淵は陳元達が自分の下に来たことを喜び、すぐに面会した。劉淵は、
「陳元達よ、そなたが早く私のもとに仕官していれば、今ごろは要職に就けられただろうに」
と言った。陳元達は、
「私の考えとしては、人にはさまざまの事情があります。その事情の条件に適することが大事であり、それを満たないのは状況の機会から反れてしまいます。たしかに私が早く仕官すれば、今ごろはあなた様から、九卿などの要職に就けられたでしょう。しかし、現在の私はその任務にとても堪えられません。私はあえてあなた様からの招聘に応じず、自分の身分に相応する官職があれば十分です。おかげであなた様は私に過度の官職を任命せずに済みました。私はこれ以上の官職は必要とはしません。あなた様との関係が円満であれば十分です」
と言った。これを聞いた劉淵は大いに満足して、陳元達を優遇した。以降も陳元達は劉淵のよき相談役となった。
陳元達は劉淵に仕えてしばしば忠言を進めたが、退いたら草稿を削ったため、子弟でもそれを知ることができなかった。
劉曜は生まれた時から眉が白く、目に赤光があり、幼くして聡慧で、度胸があった。早くに孤児となったため、劉淵に養われ、成長すると儀容は魁偉になり、性格は拓落高亮(「拓落」は度量が大きくて小さなことに拘らないこと、「高亮」は高明、高尚忠正なこと)としていた。衆人と群れにならず、読書を好み、文章を善くし、しかも厚さが一寸もある鉄に矢を射て貫くことができた。
劉曜は常に自分を楽毅や蕭・曹(蕭何・曹参)と比していた。当時の人々はそれを認めなかったが、劉聡だけは劉曜を重んじて。
「永明(劉曜の字)は漢世祖や魏武の類である。数公(楽毅や蕭・曹)がなぜ語るに足りるのだ」
と言った。
李雄は范長生に名徳があって蜀人に重んじられていたため、迎え入れて主君に立て、臣事しようと欲した。しかし范長生は同意せず、逆に諸将が李雄に対して頑なに尊位に即くように請うた。
十月、李雄が成都王の位に即き、大赦して建興元年に改元した。
晋の法を除いて七章の法を建てた。
叔父の李驤を太傅に、兄の李始を太保に、李離を太尉に、李雲を司徒に、李璜を司空に、李国を太宰に、閻式を尚書令に、楊褒を僕射にした。
母・羅氏を尊んで王太后とし、父・李特を追尊して成都景王にした。
李国と李離に智謀があったので、李雄は全ての事において必ず彼らに意見を求めてから行動した。一方の李国と李離も驕慢になることなく、李雄に仕えてますます謹直になった。
李雄は二年後に帝位に即いて国号を「成」と定め、李寿(李驤の子)の代になって「漢」に改められることになる。そのため、李雄が建てた国は通常「成漢」と呼ばれることになる。
本年、李雄が成都王を称し、劉淵も漢王の位に即いたところから、「五胡十六国時代」が始まったと後世の者たちは述べている。
「五胡」とは匈奴、鮮卑、羯、氐、羌、「十六国」は成漢、前趙、後趙、前涼、前燕、前秦、後燕、後秦、西秦、後涼、南涼、北涼、南燕、西涼、夏、北燕を指す。
どれも異民族が作った国家であり、これほどの国家が天下に乱立し相争うようになるのである。




