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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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二王の対立と各地の戦い

 太尉・司馬乂しばがいは西晋の恵帝・司馬衷しばちゅうを奉じて張方ちょうほうを攻めた。張方の兵は乗輿(皇帝の車)を望み見ると、皆、退走したため張方は大敗して死者が五千余人に上った。


 張方は退いて十三里橋に駐屯した。


 衆人は懼れて夜の間に遁走しようと欲したが、張方は彼らに向かっていった。


「勝敗とは兵家の常である。用兵を善くする者は失敗によって功を成すことができるのだ。今、我々は逆に前進して塁壁を造り、敵の不意に出ようではないか。これが勝利への奇策である」


 張方の強さはここにある。逆境においても諦めず、兵を鼓舞することができる。いつの時代でも指揮官としての実力が出るのは敗北した時である。その点、張方は優秀であった。


 その夜、張方が秘かに洛城から七里の地に迫った。数重の塁壁を築き、外から廩穀(倉庫の食糧)を引き入れて軍食を満たした。


 司馬乂は既に戦勝したため、張方は憂うるに足りないと思っていた。しかし、張方の塁壁が完成したと聞くと慌てて、朝廷軍を率いて攻撃した。しかし既に守りを固めていた張方に勝利することができなかった。


 朝議は司馬乂と司馬穎しばえいが兄弟なので、言辞によって解決できると考え、中書令・王衍おうえんらを派遣して司馬穎を説得させた。司馬乂と共に陝で天下を東西に分けて住むように命じた。


 西周の初期、周公と召公が陝で天下を分けて二伯になった。朝廷は西周の故事に則って司馬穎と司馬乂を二伯として君臨してもらいたいと願ったのである。


 しかし司馬穎は従おうとしなかった。


 司馬乂も司馬穎に書を送り、利害を述べて和解しようとした。


 そこで、司馬穎が返書を送って、


皇甫商こうほしょうらの首を斬ることを請う。そうすれば兵を率いて鄴に還る」


 と、伝えたが、今度は司馬乂が同意しなかった。


 司馬穎は兵を進めて京師に迫り、張方が千金堨(「堨」は「堰」)を決壊させた。これにより水碓(水力で米をついて脱穀する機械)の水も全て涸れ尽きた。因みに千金堨はかつて穀水を堰き止めており、魏の時代に改めて修築されたものである。


 そのため朝廷は王公の奴婢を動員して、手で米をつかせて兵に供給した。


 一品以下で従軍していない者や男子で十三歳以上の者は全て服役させ、更に奴隷を徴発して軍を助けさせた。


 公私ともに困窮して米一石が万銭に高騰した。また、当時、詔命が行われるのは京城だけになっていた。


 この際、驃騎主簿・范陽の人・祖逖そてきが司馬乂に言った。


「雍州刺史・劉沈りゅうしんは忠義で果断かつ剛毅で、雍州の兵力は河間を制すに足ります。陛下に申し上げて詔を作って劉沈に与え、兵を発して司馬顒しばぎょうを襲わせるべきです。司馬顒が困窮急迫したら、必ず張方を召して自分を救わせようとするはずです。これが良策です」


 敵の本拠地を別方面から攻めることで前線の将を撤退させるということである。


 司馬乂はこの意見に従った。


 因みにこの進言を行った祖逖は後に多くの者に尊敬され、強大な敵に孤軍奮闘することになる男である。


 劉沈は詔を奉じて檄を四境に馳せさせると、諸郡の多くが兵を挙げてこれに応じた。


 劉沈は七郡の衆一万余人を合わせて長安に向かった。


 司馬乂は更に皇甫商を派遣して秘かに間道を進ませ、恵帝の直筆の詔を持って皇甫重こうほちょうを攻めている游楷ゆうかいらに撤退を命じさせた。皇甫重には軍を進めて司馬顒を討つように勅命した。


 皇甫商は秘かに間道から新平に至り、従甥(父の兄弟の娘の子)に遭遇した。しかし従甥は以前から皇甫商を憎んでいたため、このことを司馬顒に報告してしまった。


 司馬顒は皇甫商を捕えて殺した。











 十二月、議郎・周玘しゅうき(周處の子)と前南平内史・長沙の人・王矩おうきょが江東で義軍を起こして石冰せきすいを討ち、前呉興太守・呉郡の人・顧祕こひつを都督揚州九郡諸軍事に推した。


 顧祕らは檄文を州郡に伝え、石冰が配置した将吏を殺した。


 その結果、前侍御史・賀循がじゅん(賀斉の子孫)が会稽で兵を起こし、廬江内史・広陵の人・華譚かたんおよび丹陽の人・葛洪かつこう甘卓かんたく(甘寧の曽孫)も挙兵して顧祕に応じた。


 石冰は将・羌毒きょうどくを派遣し、兵一万を率いて周玘を拒ませた。しかし周玘は羌毒を撃って斬った。石冰は退いて臨淮から寿春に向かった。


 征東将軍・劉準りゅうじゅんは石冰が至ったと聞き、驚き懼れてどうすればいいか分からなくなった。


 広陵度支・廬江の人・陳敏ちんびんが寿春で兵を統率しており、劉準にこう言った。


「彼らは元々遠戍(辺境の守備)を望まず、逼迫されて賊になった烏合の衆に過ぎませんので、その形勢は離散しやすいものです。私が輸送兵を監督してあなたのためにこれを破ることを請います」


 劉準は陳敏の兵を増やして石冰を撃たせた。







 閏月(閏十二月)、李雄りゆうが郫城から益州刺史・羅尚らしょうを急攻した。


 羅尚は軍に食糧がないため、牙門・張羅ちょうらを留めて城を守らせ、自分自身は夜の間に城を棄てて牛鞞水から東に遁走した。


 張羅は城門を開いて投降した。


 李雄が城に入り、成都の地を全て有した。


 しかし軍士の飢餓が甚だしかったため、衆人を率いて郪で穀物を求め、野芋を掘って食糧にした(当時、㟭山の下に蹲鴟(大芋)が多くあった)。


 梁州刺史・許雄きょゆうが賊を討伐したのに進軍しなかった罪に坐し、召還されて刑を受けた。


 安北将軍・都督幽州諸軍事・王浚おうしゅん(王沈の子)は天下が混乱しているため、夷狄と結んで外援にしようと欲した。そこで一女を鮮卑の段務勿塵だんむもちじんに嫁がせ、一女を素怒延すどえんに嫁がせた。


 また、段務勿塵を遼西郡に封じて遼西公にするように上表した。


 朝廷は段務勿塵を遼西公に封じた。






 毛詵が死んだ時、李叡(りえいは五苓夷の帥・于陵丞うりょうじょうの元に奔った。


 于陵丞が李毅りきを訪ねて李叡のために命乞いをしたところ、李毅はこれに同意したが、実際は李叡が至ると殺してしまった。


 于陵丞は怒って諸夷を統率し、李毅に反攻した。




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