劉弘
李雄が汶山太守・陳圖を攻めて殺し、郫城を取った。
七月、李流が郫に移って駐屯した。
蜀の民は皆、険阻な地を守って塢を構え、ある者は南に移って寧州に入り、ある者は東に下って荊州に行った。城邑が全て空になり、野には煙火もなくなったため、李流は略奪しても得るものがなく、段々と勢力が飢乏し始めた。
涪陵の千余家だけは青城山の処士・范長生に頼っていた。
范長生は字を元寿といい、山洞に住処を構え、悟りを求めて修行を行い、天師道(五斗米道のこと)の教祖として甚だ名声は高く、徳を兼ね備えていたという。
博学多芸であり、天文に精通して策略にも長けていたと言われている。年は百歳を越えており、蜀の民は彼を重んじて神の如く奉っていた。
平西参軍・涪陵の人・徐轝が羅尚を説得して、自分が汶山太守になることを求め、范長生を招いて結び、共に李流を討つように進言した。
しかし、羅尚が同意しなかったため、徐轝は怒って李流に投降してしまった。
李流は徐轝を安西将軍にし、彼の考え通り、彼に范長生を説かせた。范長生は彼の言葉を受けて、李流に軍糧を提供した。そのおかげで李流の軍がまた振興した。
以前、李含は長沙王・司馬乂が微弱なので、必ず斉王・司馬冏に殺されることになると考え、それを機に司馬冏の罪とみなしてこれを討伐し、更に西晋の恵帝を・司馬衷を廃することで、大将軍・司馬穎を立てて、河間王・司馬顒を宰相にして、自分が政事を行えるようにしようと考えていた。
しかし実際は司馬冏は司馬乂に殺され、司馬穎と司馬顒は依然として藩を守ったままで、李含の考え通りにはならなかった。
そんな中、司馬穎は功に恃んで驕り始めて、各種の制度を次々と廃止していったことで混乱をもたらせ、司馬冏の時代よりもひどくなっていった。
そのため司馬乂は彼に従わなくなっていったことで、司馬穎は司馬乂を司馬乂を朝廷から去らせたいと思うようになっていった。
当時、皇甫商が再び司馬乂の参軍になり、皇甫商の兄・皇甫重が秦州刺史になっていた。
李含が司馬顒に言った。
「皇甫商は司馬乂に任用されており、皇甫重はいつまでも人に用いられるような者ではありません。早く除くべきです。上表して皇甫重を朝廷の官職に遷し、彼が長安を通った機に捕えるべきです」
皇甫重はこの事を知って情報を尚書に公開すると、隴上の兵を動員して李含を討った。
司馬乂は兵乱がやっと少し収まったところだったため、使者を送って詔によって皇甫重に撤兵を命じ、李含を召還して河南尹に任命した。
李含は召還に応じたが、皇甫重は詔を応じなかった。
そこで司馬顒が金城太守・游楷、隴西太守・韓稚らを派遣し、四郡の兵を併せて皇甫重を攻撃させた。
また、司馬顒は秘かに李含を送って侍中・馮蓀、中書令・卞粹と共に司馬乂を謀殺させようとした。
しかし皇甫商がこれを司馬乂に告げたため、司馬乂は李含、馮蓀、卞粹を捕えて殺した。
驃騎従事・琅邪の人・諸葛玫(諸葛緒の孫)と前司徒長史・武邑の人・牽秀は鄴に出奔した。
張昌の党人・石冰が揚州を侵し、刺史・陳徽と戦って大いに敗った。諸郡が全て陥落していった。
石冰は更に江州を攻めて破り、別将・陳貞も武陵、零陵、豫章、武昌、長沙を攻めて全て落とした。
臨淮の人・封雲が兵を挙げて石冰に呼応し、阜陵から徐州を侵した。
こうして荊・江・徐・揚・豫五州の境内は多くが張昌に占拠されていった。まさに彼の勢いは凄まじかったと言える。
しかしながら張昌は改めて牧守を置いたが、皆、桀盗小人(凶暴な盗賊や小人)の類で、専ら略奪を務めるのみであった。
それを見て、勝利を確信したのは劉弘である。
「さあ、勝とうか」
彼は陶侃らを派遣して竟陵で張昌を攻撃させた。劉喬も将・李楊らを派遣して江夏に向かわせた。
陶侃は字を士行といい、父は呉の揚武将軍だった陶丹、母は湛氏である。五渓蛮の出身であるという説があるが、定かではない。
陶侃は若い頃に父を失い、貧困であった。しかし、郡の督郵になった時、長沙太守・万嗣が廬江を通った際、陶侃を見て異としたため、自分の子に命じて陶侃と友誼を結ばせてから去っていったという。
後に孝廉に挙げられ、洛陽に至った際、豫章国(恵帝の弟・司馬熾が当時、豫章王に封じられた)の郎中令・楊晫が陶侃を顧榮に推薦したため、名が知られるようになった人物である。
彼は将軍としては奇策を用いる人ではないが、率先して前線に立ち、兵を鼓舞し、決断力と細かな心配りを兵に行えたため兵は彼を慕い、大いに働いた。
そのため陶侃の軍はとても強く張昌と繰り返し戦って大破し、前後して数万級を斬首した。張昌は下儁の山に逃走し、その兵は全て投降した。
張昌はその後、捕らわれ、首を斬られて洛陽に送られることになる。
陶侃が張昌に勝利すると劉弘が陶侃に言った。
「私は昔、羊祜殿の参軍となり、あの人は私が後に自分の地位に居ることになるだろうと言ったものだ。今、君を観るに、必ずや私を継ぐことになるだろう」
その言葉を聞いた陶侃はただただ彼に静かに頭を下げただけであった。
劉弘が退いて梁に駐屯した時、征南将軍・范陽王・司馬虓は前長水校尉・張奕を派遣して荊州を統領させていた。
後に張昌が敗れて劉弘が荊州に至ったが、張奕は交代を受け入れず、兵を挙げて劉弘を拒んだ。そのため劉弘は張奕を討伐して斬った。
当時、荊州刺史部の地方の長官の多くが欠員になっていたため、劉弘が補選を請い、朝廷は詔によってこれに同意した。
劉弘は功績を論評して徳行がある者を選抜し、才能に基いて任命していった。皆、彼の公正さと適切な人事に心服した。
続けて劉弘は上表して此度の戦いで活躍した一人である皮初に襄陽太守を補わせた。
しかし朝廷は、皮初には功績があるものの声望が浅いと考え、改めて劉弘の娘婿に当たる前東平太守・夏侯陟を襄陽太守に任命した。
すると劉弘は下の者に教諭してこう言った。
「一国を治める者は一国を心とするものだ。もしも親戚・姻戚でなければ用いることができないというのならば、荊州十郡において(太守が欠員になっている郡が十郡あるという意味)、どうして十人の娘婿を得てから政事を為すということができるだろうか」
劉弘が改めて上表した。
「夏侯陟は私の娘婿であり、旧制においては互いに監督することができません。皮初の勲は報いられるべきです」
朝廷は詔によってこれに同意した。
この後、劉弘は農桑を奨励・監督し、刑を寛大にして賦税を省いた。そのおかげで多くの者が富み、百姓は劉弘を愛して悦んだ。
こうして荊州は安定する方向に向かうようになったが、各地の混乱は鎮まるどころか更に大きなものへと変わり始めていた。




