遠ざけられる者たち
この年、散騎常侍・薛瑩(呉の名将・薛綜の子)が死んだ。
ある人が呉郡の人・陸喜(呉の名将・陸遜の甥)にこう問うた。
「薛瑩は呉士において第一とみなされるべきではありませんか?」
すると陸喜はこう言った。
「薛瑩は四、五の間です。どうして第一になれるでしょうか。孫皓の無道の世において、呉の士でその体を沈黙させ、隠れて用いられなかった者が第一です。尊位を避けて低い地位に居り、俸禄が農民と同等だった者が第二です。侃然と国を治め(「侃然」は剛直な態度)、正を守って懼れなかった者が第三です。時宜を斟酌し、時折、わずかな益をもたらした者が第四です。温和敬恭で慎重な態度を守り、阿諛追従しなかった者が第五です。これらを過ぎたら、数えるには値しません。だからこそ、呉の上士は多くが埋没しましたが、そのおかげで災難を遠ざけ、中士は名声と地位がありましたが、そのために禍殃を近づけました。薛瑩の処世の本末を観るに、どうして第一とすることができるでしょうか?」
尚書・張華は文学と才識によって当世に名が知られていた人物の一人であり、天下統一にも貢献した人物であった。
そのため論者は皆、張華を三公にするべきだと考えたが、中書監・荀勗と侍中・馮紞は呉討伐の謀に反対していたこともあり、彼のことを恨んでいた。
この頃、ちょうど西晋の武帝・司馬炎が張華に問うた。
「誰なら後事を託すことができるだろうか?」
張華はこう答えた。
「英明で徳があり、皇帝と最も親しい者において、斉王(武帝の弟・司馬攸)に勝る者はいません」
しかしながらこの言葉は武帝の意旨に逆らうものであった。彼は司馬攸と後継者争いをした仲であり、司馬攸が臣下たちからの人望も厚かったことも大きいことを知っているためである。
これを機に荀勗が張華を讒言した。
結果、張華は都督幽州諸軍事に任命された。事実上の左遷である。
しかしながら張華は鎮に至ってから夷夏(少数民族と漢人)を安撫・慰問していき、誉望がますます振うようになっていった。
その評判を聞き、武帝は張華を再び朝廷に呼び戻そうとした。
当時、馮紞が武帝に侍っており、平然とした様子で鍾会の事に触れて言った。
「鍾会の謀反は、太祖(司馬昭。武帝の父)に多くの原因があると言えましょう」
武帝が顔色を変えて、
「卿の言はどういう意味か」
と、問うた。馮紞は冠を脱いで謝罪しつつ、こう答えた。
「私が聞くに、車馬を善く御す者は必ず六轡における緩急の宜(ちょうどいい緩急の程度)を知っているといいます」
「六轡」は六本の手綱のことで、車を引く四頭の馬にはそれぞれ二本の手綱がつけられており、左右の馬は外側の一本の手綱が車の横木に結ばれていた。そのため御者は馬車を操るために六本の手綱をさばくことになるのである。
「だからこそ、孔子は人並み以上に勇猛だった子路を抑え、子有(冉球)が消極的だったので、孔子は鼓舞して前に進ませました。漢の高祖は五王を尊寵したのに五王は誅滅されました」
漢の高祖・劉邦が誅滅した五王とは二人の韓信と彭越、英布、盧綰を指す。
「光武帝は諸将の権力を削って抑えましたが、諸将は終わりを全うできました。これは仁君と暴君の差があったのではなく、愚者と智者の差があったのでもなく、思うに褒貶や与奪。君主が臣下の待遇を厚くするか薄くするかの違いがそうさせたのです。鍾会の才智には限りがありました。しかしながら太祖は鍾会を際限なく称賛し、重い権勢を握る地位に居させて大兵を委ねさせたため、鍾会自身に、彼の計謀には失策がなく、功績があるのに賞されていないと思うようにさせ、ついに凶逆を生ませてしまったのです。もし太祖がその小さな才能を採用し、大礼によって節制し、威権によって抑え、規則によって受け入れていたら、乱心が生まれる由縁はありませんでした」
武帝はこの言葉を聞き、
「その通りだ」
と、言った。すると馮紞は稽首して続けた。
「陛下が私の言に同意したのならば、堅冰の漸を思うべきです。鍾会のような者に再び顛覆を招かせてはなりません」
「堅冰の漸」とは固い冰は徐々に形成されるということで、転じて、積み重ねによって大きな禍患が形成されることを表す。
武帝は難しそうな表情を浮かべながら、
「今の世に鍾会のような者がいるというのか」
と、問うと馮紞はこれを機に左右の者をさがらせてこう言った。
「陛下の謀画の臣で、天下において大功が顕著になっており、方鎮を拠点にして、兵馬を総領している者は、皆、陛下の聖慮(皇帝の考えの中)にいます」
武帝は沈黙した後、張華の召還を中止した。
斉王・司馬攸の徳望は日に日に盛んになっていた。荀勗、馮紞、楊珧といった者達はこれを嫌った。
馮紞が武帝に言った。
「陛下は諸侯に詔して国に行かせましたが、親しい者から始めるべきです。斉王を越えるほど親しい者はいないのに、今、独り京師に留まっています。これでいいのでしょうか?」
荀勗もこう言った。
「百僚内外が皆、斉王に帰心しているので、陛下の崩御の後、太子は立つことができないでしょう。陛下が試しに詔を発して斉王を国に行かせれば、必ず朝廷を挙げて反対し、私の言が証明されることでしょう」
武帝は納得し、十二月、詔を発した。
「古は九命(周代に置かれた九等級の官爵の最上位)が諸侯の長となり、あるいは入って朝政を輔佐し、あるいは出て地方を御したが、朝廷にいても地方に出ても、国に忠を尽くすという道理は同じなはずである。侍中・司空・斉王・攸は天命を助けて勲功を立て、王室のために労苦した。よって、大司馬・都督青州諸軍事にして、侍中の職務は今まで通りとし、更に典礼(典章・儀礼)を増加することにする。担当の官員は詳しく旧制に則って施行せよ」
こうして武帝は司空・斉王・司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事に任命した。
同時に汝南王・司馬亮(司馬懿の子。武帝の叔父)を太尉・録尚書事・領太子太傅に、光禄大夫・山濤を司徒に、尚書令・衛瓘を司空に任命した。
これに征東大将軍・王渾が上書した。
「斉王・攸は陛下と最も親しくて徳が盛んで、周公に匹敵する方であるため、皇朝を輔佐させて政事に参与させるべきです。今、斉王を出して国に行かせ、都督の虚号を授けるだけで典戎幹方がなければ、款篤の義(誠真忠実の道義)において友愛を損なうことになり、陛下が先帝と文明太后の遺命を遵守され、斉王を遇してきた今までのお心を否定することになるのではないかと懼れます」
「典戎幹方」の「典戎」は軍を統率することで、「幹方」は国を安定させることである。
「もしも、同姓に対して寵を厚くしすぎれば、呉・楚による逆乱の謀(前漢の呉楚七国の乱)があるというのならば、漢の呂氏(呂后)、霍氏(霍光の妻子)、王氏(王莽)は皆、どのような人だったのでしょうか?」
胡三省は彼の発言に対してこう解説している。
「王渾の意は、斉王は疑うべきではなく、三楊は信じるべきではない」と言った言葉である。
「古今を歴観するに、事の軽重が存在する場所ならば、害を為さない者はいません。そのような場所ではただ正道を任用して忠良を求めるだけなのです。もし智計によって事物を猜疑されれば、親しい者でも疑われることになります。疎遠な者に至れば、どうして自らを守れることでしょうか。愚見によるならば、太子太保の官が欠けているので、斉王を留めてそこに居させ、汝南王・亮および楊珧と共に朝事を行わせるべきです。三人が位を等しくすれば、互いに公正を保つに足り、偏重相傾の勢(権勢が偏って争い合う形勢)がなくなり、親親仁覆の恩(親しくすべき者と親しくして、仁恵によって庇護するという恩徳)も失わないので、これが最善の計でございましょう」
この時、扶風王・司馬駿、光禄大夫・李憙、中護軍・羊琇、侍中・王済と甄徳も皆、切諫したが、武帝は全て従わなかった。
王済は妻の常山公主と甄徳の妻・長広公主を共に入宮させ、二人の公主に叩頭させて涙を流し、司馬攸を留めるように請わせた。
しかし武帝は怒って侍中・王戎にこう言った。
「兄弟とは最も親しい関係であり、今、斉王を出すのは、自ずから私の家事である。それなのに甄徳と王済は続けざまに婦人を送ってきて、生者に対して哀哭させた」
最後の「生者に対して哀哭させた」と部分は原文では「生哭人」と書き、これは生きた人に対して哭葬することで、しつこくつきまとうことを意味する言葉である。
武帝は二人を侍中から外朝の官に出して王済を国子祭酒に、甄徳を大鴻臚に任命した。
羊琇と北軍中候・成粲が策謀し、楊珧に会いに行って自ら刃で殺そうとした。
それを知った楊珧は病と称して外出しなくなり、婉曲に官員を促して羊琇に関する上奏をさせた。その結果、羊琇は太僕に左遷され、憤怨して発病し、死んでしまった。
羊琇は性質で言えば、贅沢を好み、寵愛を笠にするような人物であったが、王朝への忠誠心はしっかりとあった人物であった。
李憙も年老を理由に退職し、後に家で死んだ。
李憙は朝廷にいた時も、家に蓄えがなかったため姻親や旧友が李憙と衣服を分け合い、食事を共にした。しかし、王官(朝廷の官員という身分)を利用して私利を謀ることがなかったので、人々はこの事によって李憙を称賛したという。




