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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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司馬冏

 司馬冏しばけいは河間王・司馬顒しばぎょうが本来は趙王・司馬倫に附いていたため、心中で常に恨んでいた。


 また、梁州刺史・安定の人・皇甫商こうほしょうは司馬顒の長史・李含りふんと不仲であった。


 李含は幼い頃から才幹があると評価されていた。そんなある時期、始平郡に移住し、始平・隴西の両郡から孝廉に推挙された。


 その時、皇甫商がおり、李含より年下で豪族の家柄であったものの、彼は李含が低い身分の家柄であった事から、それを憐れんで交流を深めようとした。しかし李含はこれを拒絶したため皇甫商は恨み、州へ短檄を送って李含の悪評を並べ立てたため、李含は門亭長という低い官位に就くこととなってしまった。


 その後、李含は他の者たちに評価され、出世していったがこのことを忘れてはいなかった。


 李含は召されて翊軍校尉に任命されたが、この時、皇甫商が司馬冏の参軍事を勤めており、夏侯奭の兄も司馬冏の官府におり、夏侯奭を始末するように進言したことのある李含は心中で不安を抱くようになっていた。


 しかも李含は司馬冏の右司馬・趙驤ちょうじょうとも間隙があったため、単馬で奔って司馬顒に投じ、偽って、


「司馬顒に司馬冏を誅殺させるという密詔を受けました」


 と、称し続けて李含は司馬顒にこう言った。


「成都王は至親(恵帝との関係が極めて近いこと)で大功があるのに、謙譲して藩に還り、甚だ衆心を得ています。一方、斉王は他の親しい皇族を越えて専政し、もはや朝廷の誰もが彼を正視できないでいます。今、長沙王に檄文を送って斉を討たせれば、斉王は必ず長沙を誅すことでしょう。そこで我々が、斉に罪があるとみなしてこれを討てば、必ず擒にできます。斉を去らせて成都を立て、逼(皇帝の脅威となっている者)を除いて親(皇帝と親しい者)を建て、そうすることで社稷を安んじれば、大勲となりましょう」


 司馬顒はこの意見に従うことにした。


 当時、武帝の族弟・范陽王・司馬虓しばこうが都督豫州諸軍事に任命されていた。


 司馬顒は上表して司馬冏の罪状を陳述し、加えてこう言った。


「十万の兵を整えて、成都王・えい、新野王・きん、范陽王・虓と共に洛陽で会すことを欲します。また、長沙王・がいに冏を廃させ、冏を邸宅に還らせて、穎をもって冏に代えて輔政させることを請います」


 こうして司馬顒が兵を挙げた。李含を都督に任命し、張方ちょうほうらを率いて洛陽に向かわせた。また、使者を送って司馬穎を招いた。


 司馬穎はこれに応じようとしたが、これを盧志ろしが諫めた。司馬顒をこちらを利用する腹のはわかりきっているからである。


 しかし司馬穎は彼の意見を聞き入れず、司馬顒に応じた。


 十二月、司馬顒の上表が朝廷に至った。


 司馬冏は大いに懼れ、百官を集めて討議し、こう言った。


「私は始めに義兵を挙げることを唱えた。臣子の節が誠に神明において顕著になっているはずだ。今、二王(河間王・司馬顒と成都王・司馬穎を指す)が讒を信じて難を為したが、どうするべきか?」


 尚書令・王戎おうじゅうが言った。


「あなた様の勲業は誠に大きいものです。しかし賞が労(功労を立てた者)に及んでいないので、人々は二心を抱くようになっています。今、二王の兵は盛んなので、当たることができません。もし王位のまま邸宅に帰り、権勢を棄てて謙譲を尊べば、安寧を求めることもできるかもしれません」


 彼の言葉は可能性の話に過ぎない。


 司馬冏の従事中郎・葛旟かつせんが怒って言った。


「尚書の進言は王の事を顧みていない。褒賞の遅延における責任は、府(斉王府)にはないはずだ。讒言逆乱は共に誅討すべきである。なぜいたずらに偽書を受け入れて、急いで王を邸宅に就かせようとするのか。漢・魏以来、王侯が邸宅に就いて、妻子を保てた者がいただろうか。これを議す者は斬るべきだ」


 百官は恐れ震えて色を失い、進言を行った王戎は薬の発作が起きたふりをして厠に堕ちることで、禍から逃れることができた。


 李含は陰盤に駐屯して長沙王・司馬乂に檄文を送り、司馬冏を討たせようとした。張方も兵二万を指揮して新安に駐軍した。


 司馬冏は董艾とうがいを派遣して司馬乂を襲わせた。


 司馬乂も左右の百余人を率いて宮内に馳せ入り、諸門を閉じてから、天子を奉じて大司馬府を攻撃した。


 董艾は皇宮の西に兵を並べ、火を放って千秋・神武門を焼いた。


 司馬冏は部下を送り、騶虞幡(兵を解く時に使う旗)を持って、


「長沙王・乂が詔を偽った」


 と唱えさせた。一方の司馬乂も、


「大司馬が謀反を起こした」


 と称した。


 その夜、双方が城内で激突した。飛矢が雨のように集中し、火光が天に届くほど燃え上がった。


 西晋の恵帝・司馬衷しばちゅうが行幸して上東門に登ると、矢が御前に集まり、群臣が命を落として死体が積み重なった。


 三日間の連戦の果て、司馬冏の軍が大敗した。それによってこのままでは族として殺されてしまうと思った大司馬長史・趙淵ちょうえん何勗かじょを殺し、それを機に司馬冏も捕えて投降した。


 司馬冏が殿前に至ると、恵帝は憐憫を抱き、活かしたいと思った。しかし司馬乂が左右の者を叱咤して牽き出すように促した。司馬冏は閶闔門外で斬られ、見せしめとして首が六軍に曝された。これによって司馬冏は八王の乱で命を落とした四人目の王となった。


 同党の者も全て三族が皆殺しにされ、死者が二千余人に上った。


 司馬冏の子・司馬超しばちょう司馬冰しばよく司馬英しばえいは金墉城に幽囚され、司馬冏の弟に当たる北海王・司馬寔しばしょくは廃された。


 司馬冏の死体は西明亭で暴され、三日が経過しても収容する人はいなかったが、司馬冏の掾属であった荀闓じゅんりょらは、上表して葬儀の執り行いを乞い、許された。


 天下に大赦して、永寧二年から太安元年に改元した。


 李含らは司馬冏が死んだと聞いて、兵を率いて長安に還っていった。


 ひとまず、朝廷を擁することになった司馬乂であったが、彼は事の大小に関わらず、全て鄴にいる司馬穎に意見を求める姿勢を示した。


 それに伴い司馬穎は孫恵そんけいを参軍に、陸雲りくうんを右司馬にした。








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― 新着の感想 ―
[一言] 皇帝の一族を厚遇するかできるだけは排除するかはその一族の能力におうじたケ-スバイケ-スしかなく、普遍的な正解はだせないとはおもうのですが、中国の王朝って、どうしてこう悪い方にばかりかたよるか…
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