亢龍有悔
302年
益州の混乱を受け、河間王・司馬顒が督護・衙博を派遣して蜀の李特を討たせることにした。衙博は梓潼に駐軍した。
朝廷は更に張微を広漢太守に任命して徳陽に駐軍させ、羅尚も督護・張亀を派遣して繁城に駐軍させた。
李特は自分の子・鎮軍将軍・李蕩らに衙博を襲わせ、自らも兵を指揮して張亀を撃った。李特が張亀を破り、李蕩も陽沔で衙博の兵を敗ってみせた。
梓潼太守・張演が城を棄てて走り、巴西丞・毛植が郡を挙げて投降した。
李蕩はそのまま進軍して葭萌で衙博を攻めた。衙博は逃走し、その兵が全て投降した。
その勢いのまま李特は大将軍・益州牧・都督梁益二州諸軍事を自称した。
八月、李特が張微を攻めたが、撃破されてしまった。張微はそのまま李特の営に進攻した。
これを受け、李蕩が兵を率いて李特を救いに行った。山道が険阻であったが、李蕩は力戦して前に進み、ついに張微の兵を破った。
李特が涪に還ろうと欲したが、李蕩と司馬・王幸が諫めた。
「張微の軍は既に敗れ、智勇が共に尽きているので、鋭気に乗じてこれを虜にするべきです」
李特は再び進軍して張微を攻めた。張微を殺してその子・張存を捕らえや。しかし李特は張微の喪を行わせるために張存を還らせた。
李特は将・寋碩に徳陽を守らせ、李驤を毗橋に駐軍させた。
羅尚が軍を派遣してこれを撃ったが、しばしば李驤に敗れた。李驤は勝ちに乗じて成都に進攻し、その門を焼いた。
李流も成都の北に駐軍した。
羅尚が精勇一万人を派遣して李驤を攻撃させたが、李驤は李流と連合してこれを撃ち、返り討ちにした。羅尚の軍で還った者は十分の一二しかいなかったという。
許雄も頻繁に軍を派遣して李特を攻めたが、勝てなかった。
これにより李特の勢いがますます盛んになった。
建寧の大姓・李叡と毛詵が太守・杜俊を駆逐し、朱提の大姓・李猛が太守・雍約を駆逐して、李特に応じた。それぞれ数万の兵を擁した。
しかしこれに南夷校尉・李毅が討伐して破り、毛詵を斬った。彼はかつて蜀に仕え、王濬の元で呉征伐に従った人物である。
これに恐れた李猛は書を納めて投降したが、辞意が不遜だったため、李毅が李猛を誘い出して殺した。
十一月、晋が再び寧州を置いて李毅を刺史にした。
斉王・司馬冏は志を得てから、頗る驕奢になり、朝廷を専権するようになった。大いに府邸を起こし、そのために破壊された公私の家屋は百を数え、その規模が西宮と等しくなったため、中外の者は失望した。
そこで、侍中・嵇紹が西晋の恵帝・司馬衷に上書した。
「存在している時にも滅亡を忘れない。これは『易』の善戒(素晴らしい戒め)です。私は陛下が金墉での幽閉を忘れず、大司馬(司馬冏)が潁上の戦いを忘れず、大将軍(司馬穎)が黄橋の戦いを忘れないことを願います。そのようであれば、禍乱の芽が予兆を示す理由もなくなります」
嵇紹は司馬冏にも書を送ってこう伝えた。
「堯・舜は茅葺の家に住み、夏禹は粗末な宮室に住みました。今、あなた様は邸宅を大いに興し、しかも三王(恐らく司馬冏の三子を指す。前年、司馬冰が楽安王に、司馬英が済陽王に、司馬超が淮南王に封じられた)のために宅を建てていますが、どうしてこれが今日の急務なのでしょうか」
司馬冏は謙遜した言葉を使って謝したが、諫言に従うことはできなかった。
やがて彼は宴楽に耽り、入朝・朝見もしなくなった。坐したまま百官を拝し、三台に符敕(勅命の文書)を発して命令し、人材の任用は不公平で、寵臣が政事を行うようになっていった。
殿中御史・桓豹が上奏した際、先に司馬冏の官府を通さなかったため、司馬冏はすぐに彼へ拷問を加えた。
南陽の処士・鄭方が上書して司馬冏を諫めた。
「今、大王は安寧な状態にあって危険を考慮せず、宴楽が度を越えています。これが一つ目の過失です。宗室骨肉には些細な嫌隙が存在しないものですが、今はそうではありません。これが二つ目の過失です。蛮夷が静かではないのに(李特らによる梁・益での乱を指す)、大王は自分の功業が盛んになったとみなしており、蛮夷を懸念していません。これが三つ目の過失です。戦闘の後、百姓が窮困しているのに、救済の事例を聞きません。これが四つ目の過失です。大王は、事態が定まった後、功績を立てた者はすぐに褒賞すると約束しましたが、今もなお功がありながら評価されていない者がいます。これが五つ目の過失です」
司馬冏は感謝して、
「汝がいなかったら、私は過失を聞くことがなかった」
と言った。これだけ聞くと聞く耳のある人物に聞こえるが、実際に改めようとはしていないのだから意味はない。
孫恵が上書した。
「天下には五難(五つの困難)と四不可(四つのしてはならないこと)がありますが、あなた様は全てをそなえていると言えます。鋒刃を冒すこと、これが一難です。英豪を集めること、これが二難です。将士と労苦を等しくすること、これが三難です。弱によって強に勝つこと、これが四難です。皇業を興復すること、これが五難です。大名とは久しく負ってはならず、大功とは久しく任じてはならず(いつまでも大功を誇りにしてはならない、という意味)、大権とは久しく握ってはならず、大威とは久しく居座ってはならないものです。あなた様はこの五難を行いながら難とみなさず、不可にいながら可とみなしています。これは私が心中で不安としていることです。あなた様は功が成ったら身を退けるという道を思い、親しい者を尊んで近い者を推し、長沙・成都の二王に重任を委ね、長揖(揖礼の一種)して藩に帰るべきです。そうすれば、太伯、子臧でも前の時代において美名を独占することができなくなります」
太伯は周代・呉の始祖で、弟に国を譲った人物で、子臧は春秋時代・曹の公子で、国君の位を避けて国から去った人物である。二人とも謙譲の人として知られている。
「ところが今、あなた様は高さが極まったら危険になるということを忘れ、権勢を貪って疑いを受けています。たとえ高台の上で漫遊して重壁の内で逍遥としていても、私が心中で思うに、危亡の憂いは潁・翟(潁川・陽翟)の時を越えています」
司馬冏が諫言を採用できなかったため、孫恵は病と称して去った。
司馬冏が曹攄に問うた。
「ある者は私に権勢を捨てて国に還るように勧めているが、どうだ?」
曹攄はこう答えた。
「物は盛んになりすぎることを禁忌とします。大王が誠に高い地位にいながら危険を考慮し、裳をめくって去ることができるようならば、それは善の中の善というものです」
司馬冏はやはり諫言に従わなかった。
張翰と顧榮はどちらも禍が自分に及ぶことを憂慮した。
秋風が起きる頃、張翰は菰菜、蓴羹、鱸魚の鱠を思って嘆息した。
菰菜、蓴羹、鱸魚の鱠はどれも呉の食物で、呉は張翰の故郷です。「蓴羹鱸鱠」は故郷の味、または故郷を思うことを表す成語になった。
張翰は、
「人生とは適志(自由自在なこと)を貴ぶものだ。富貴が何になるだろう」
と言って、すぐに引去(引退、退去)した。
顧榮は故意に痛飲するようになって、府事を省みなくなった。長史・葛旟がこれを廃職(職務を怠ること)とみなして司馬冏に報告したため、顧榮は中書侍郎に遷された。
潁川の処士・庾袞は司馬冏が一年も入朝していないと聞くと嘆いて、
「晋室は衰弱した。禍乱がもうすぐ興る」
と言うと、妻子を連れて林慮山に逃げた。
王豹が司馬冏に書信を送った。
「伏して元康以来を思うに、宰相が位にいて、まだ一人も終わりを全うできた者はいません」
291年に楊駿が誅殺され、続けて汝南王・司馬亮も死に、300年には張華と裴頠が死んでいる。
「これは事勢がそうさせたのであって、皆、不善を為したのではありません。今、あなた様は禍乱を平定し、国と家を安定させましたが、再び顚覆した車の軌道に沿っています。このような状態で長存を望もうとしても、難しいのではないでしょうか。今は河間王(司馬顒)が関右に拠点を樹立し、成都王(司馬穎)が鄴に逗留し、新野王(司馬歆)が長江・漢水に大封され、三王はまさに方剛強盛の年(剛壮・強盛な年齢)によって、並んで軍を管理し、要害の地に位置しています。一方、あなた様は褒賞もできないほどの大功をもってして、震主の威(国君をも震わせる勢威)を恃みとし、独り京都を拠点にして、専ら大権を握っており、進んだらまさに『亢龍有悔』となり、退いても『拠于蒺藜(蒺藜の中に居る。「蒺藜」は棘がある植物)』となるので、このような状況で安寧を求めても、福は見えません」
王豹は、全ての王侯を封国に送り還し、周・召の法に則って、成都王を北州伯にして鄴を治めさせ、司馬冏自ら南州伯になって宛を治め、黄河を境界にして、それぞれが南北の王侯を統率して、天子を夾輔(補佐)するように請うた。
周・召は周の周公と召公のことである。周の時代、周公と召公は二伯となり、陝を境に天下の東西を統率して王室を輔佐した。王豹はこの方法に倣おうとしたのである。
司馬冏は優令(恩寵を示す言葉)によって王豹に答えた。
しかし、王豹の書を見た長沙王・司馬乂が、司馬冏に、
「小子(王豹)は骨肉を離間させようとしています。なぜ銅駞(銅の駱駝。宮門の前に置かれました)の下で打ち殺さないのですか」
と、言った。
すると司馬冏は、
「王豹は讒言によって内外を離間させ、坐して猜疑を生ませており、不忠不義なので、鞭殺に処すべきです」
と、上奏した。
王豹は死ぬ前に、
「私の頭を大司馬門に掲げよ。兵が斉王(司馬冏)を攻めるのを見るためだ」
と、言って死んだ。
この言葉を聞いても司馬冏は何も思わなかっただろうが、彼の終わりは近づきつつあった。




