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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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司馬倫

 晋の安南将軍・監沔北諸軍事・孟観もうかんは紫宮(星座・紫微宮。皇宮を象徴する)の帝座に変化がなかったため、司馬倫が失敗することはないと判断して司馬倫のために守りを固めた。


 これに胡三省は、


「孟観はいたずらに天象を占うだけで諸人事を察しなかった」


 と、書いてこの判断を非難している。


 司馬倫と孫秀は三王(斉王・司馬冏、成都王・司馬穎、河間王・司馬顒)の兵が起きたと聞いて大いに懼れ、司馬冏の上表を装ってこう言った。


「何の賊か分かりませんが、突然、包囲攻撃されました。臣・冏は懦弱で自分を守ることができないので、禁兵の救援を乞い、罪に服すことを願います」


 司馬倫らはこの上表を内外に宣示した。司馬冏はこちら側であると宣言することで離間させようとしたのである。


 同時に、上軍将軍・孫輔そんほ、折衝将軍・李厳りげんを派遣し、兵七千を率いて延寿関から出させ、征虜将軍・張泓ちょうこう、左軍将軍・蔡璜さいえん、前軍将軍・閭和りょわを派遣し、兵九千を率いて崿阪関から出させ、鎮軍将軍・司馬雅しばが、揚威将軍・莫原ばくげんを派遣し、兵八千を率いて成皋関から出させ、この三路で司馬冏に抵抗させた。


 更に司馬倫は、孫秀の子・孫会そんかいを派遣して将軍・士猗しき許超きょちょうを督させ、三人に命じて宿衛兵三万を率いて司馬穎に抵抗させた。


 東平王・司馬楙しばぼうを召して衛将軍に任命し、諸軍を都督させた。


 また、京兆王・司馬馥しばふく、広平王・司馬虔しばぎょくを派遣し、兵八千を率いて三軍(孫会、士猗、許超)の継援とさせた。


 その後、司馬倫と孫秀は日夜、祈祷や厭勝(呪詛によって人を圧する巫術の一種)によって福を求め、巫覡に戦の日を選ばせた。


 また、人を送って嵩山で羽衣を着させ、偽って、


「仙人・王喬おうきょうが書を作って司馬倫の祚(福。帝位)が長久であることを述べた」


 と称し、人々を惑わそうとした。


 王喬は周の霊王の太子で名を晋(字は子喬)といい、「王子喬」とも呼ばれていた人物である。嵩山で修行して仙人になったと言われている。


 張泓らが進軍して、斉王・司馬冏が駐屯していた陽翟を占拠した。張泓らが司馬冏と戦ってしばしば破っため、司馬冏は潁陰に駐軍した。


 四月、張泓が勝ちに乗じて司馬冏に迫り、司馬冏は兵を派遣して迎撃させた。


 その間、司馬倫の諸軍は動こうとせず、孫輔と徐建じょけんの軍が夜間に変乱を発生させた。孫輔らは直接、洛陽に帰り、自ら罪に服して、こう言った。


「斉王は兵が盛んなので当たることができません。張泓らは既に没しました」


 趙王・司馬倫は大いに恐れてこの事を秘密にし、河北の軍を率いている司馬虔と許超を呼び戻し、自分を守らせようとした。しかしちょうど張泓が司馬冏を破ったという露布(帛製の旗。勝報)が至ったため、司馬倫は再び司馬虔らを派遣した。


 張泓らは諸軍を全て率いて潁水を渡り、司馬冏の営を攻撃した。


 司馬冏が兵を出して別将の孫髦そんぼう司馬譚しばたんらを攻め、これを破ったため、張泓らは退却した。


 しかし孫秀は偽って、


「既に司馬冏の営を破り、司馬冏を擒にした」


 と宣言し、全ての百官に祝賀させた。


 成都王・司馬穎の前鋒が黄橋に至ったところで、孫会、士猗、許超の軍がこれを強襲し、一万余人が殺傷された。


 兵たちがこれに驚愕し、恐怖したため、司馬穎は退いて朝歌を保とうと欲したが、盧志と王彦がこう言った。


「今、我が軍が利を失い、敵は志を得たばかりなので、我々を軽んじる心を持っています。もし我々がここで退却してしまえば、士気が完全に喪失して再び用いることができなくなります。そもそも戦には勝ち負けがないはずがありません。改めて精兵を選び、夜も兼行して、敵の不意に出るべきです。これが用兵における奇策です」


 司馬穎はこれに従った。


 この頃、司馬倫は黄橋の功を賞し、士猗、許超と孫会にそれぞれ符節を持たせた。それぞれ軍の指揮官としての命令権を持ったことを意味する。その結果、各将が互いに従わなくなり、軍政が統一されなくなった。自分の意見が軍の意見であると三人とも考えたのである。


 しかも彼らは戦勝に頼って司馬穎を軽視したため、備えも設けなかった。


 そこに司馬穎が諸軍を指揮して、湨水で対戦すると、孫会等は大敗し、軍を棄てて南に走った。そのまま司馬穎は勝ちに乗じて長駆し、河を渡った。


 司馬冏らが兵を起こしてから、朝廷の百官・将士は皆、司馬倫と孫秀を誅殺したいと思うようになっていた。そのため孫秀は懼れて中書省から出ようとしなくなり、河北の軍が敗れたと聞くと、憂懣してどうすればいいかも分からなくなった。


 孫会、許超、士猗らが至って孫秀と謀った。ある者は余卒を集めて出撃することを欲し、ある者は宮室を焼いて自分達に附かない者を誅殺してから、司馬倫に迫って南の孫旂そんきん、孟観に就くことを欲し(孫旂は荊州に、孟観は宛にいる)、ある者は船に乗って東に走り、海に入ることを欲した。しかし計を決することができなかった。

 

 その間に左衛将軍・王輿おうよと尚書・広陵公・司馬漼しばさい(司馬伷の子)が営兵七百余人を率いて南掖門から入宮した。三部司馬が宮内で呼応し、中書省にいた孫秀、許超、士猗を攻めて全て斬った。孫奇そんき孫弼そんひつおよび前将軍・謝惔しゃえんらも殺された。


 王輿が雲龍門に駐屯し、八坐を召した。皆、殿中に入って司馬倫に詔を作らせ、


「私は孫秀のために誤ることになり、三王を怒らせてしまった。今、既に孫秀を誅した。よって太上皇を迎えて復位させる。私は農畝(農地、農村)に引退する」


 と、宣言させた。


 伝詔(詔を伝える官)が騶虞幡(兵を解く時に使う旗)を使って将士に兵を解くように勅令した。


 宦官が司馬倫を連れて華林東門から出た。太子・司馬荂らと共に汶陽里の邸宅(洛陽城中に汶陽里があり、司馬倫の私邸がそこにあった)に帰らせた。


 また、甲士数千を金墉城に派遣して恵帝を迎えさせた。百姓が皆、万歳を唱え、恵帝が端門から入って升殿すると、群臣が頓首謝罪した。その後、詔によって、司馬倫、司馬荂らは金墉城に送られた。


「あれを見なさい」


 恵帝と共に皇后として復位し、洛陽に戻ってきた羊献容ようけんよう綠珠りょくじゅは馬車の中から外に指さす。


 彼女が指さした先には孫秀らの首が並べられて晒されていた。それを見て羊献容は青ざめる。自分の親戚の者たちも並べられていたからである。


「栄華を得たはずの連中があの様、栄華を誇っていた時はこうなるなんて微塵にも思わなかったでしょうに」


 綠珠は嘲笑う。


「さて、あなたはあそこに並べられる側になるのか。眺める側になるのか。どちらになるのかしらね」


 洛陽に戻った恵帝は天下に大赦を行い、建始元年から永寧元年に改元された。五日間の大酺(国を挙げた酒宴)を行われた。


 使者を分けて派遣し、三王を慰労した。


 梁王・司馬肜しばとうらが上表した。


「趙王・倫の父子は凶逆なので、誅に伏すべきです」


 朝廷が尚書・袁敞えんしょうに符節を持たせて派遣し、司馬倫に自殺を命じた。司馬倫は慚愧して巾で顔を覆うと、


「孫秀が我を誤らせた。孫秀が我を誤らせた」


 と慟哭し、自殺した。これで司馬倫は「八王の乱」で命を落とした三人目の王となった。


 司馬倫の子・司馬荂、司馬馥、司馬虔、司馬詡しばくも捕えられ全て誅殺された。


 百官で司馬倫によって用いられた者は皆、排斥された。台・省・府・衛で残った者はわずかになったという。

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