狗尾続貂
301年
正月、散騎常侍・張軌が涼州刺史に任命された。
張軌は字を士彦といい、安定の人である。
若い頃は宜陽の女几山に籠り、同郷で親交のあった皇甫謐(皇甫嵩の曽孫)と共に隠居生活をしていたと言われている。
叔父の官位を継いだ後、楊珧に招かれ出世するようになっていった。その後、後ろ盾であった楊珧が死に、洛陽が荒れるようになったのを見た彼は災いから逃れるため、洛陽から離れることを考えるようになった。
(竇融のようになりたい)
竇融は新末の頃、河西で勢力を築き、後漢の光武帝に従った人物である。
彼に倣い、河西に依ることを考え上表した結果、受け入れられ、涼州刺史となることができた。
涼州の境では盗賊が縦横しており、鮮卑も荒らしている状態であったが、張軌は涼州に至ると、宋配らを謀主とし、ことごとく討伐して破ったため、西土で威を震わせた。
彼は教化を推し進め、農耕・養蚕を奨励し、涼州三郡の貴族の子弟五百人を招聘するなど、豪族勢力との融和を図って地盤の確立に努めた。
更に学校設立を積極的に推し進め、崇文祭酒(学政を行う部門を監督する役職)を新たに設け、別駕と同等の地位とした。賢人の登用にも尽力し、春秋には郷射の礼(一般の者から才覚有る者を取り立てる行為)を行い、広く人材を抜擢した。
やがて彼が作った勢力が前涼と呼ばれる国となるのである。
西方に勢力ができる中、西晋王朝では事件が起きていた。趙王・司馬倫が帝位を簒奪したのである。
相国・司馬倫と孫秀が牙門・趙奉を使い、宣帝(司馬懿)の神語を偽って、
「倫が早く西宮に入るべきである」
と宣伝した。
当時、司馬倫は東宮を相国府としており、西宮は禁中のことである。
散騎常侍・義陽王・司馬威は司馬望の孫で、かねてから司馬倫に諂って仕えていた。
そこで司馬倫は司馬威に侍中を兼ねさせ、彼を派遣して西晋の恵帝・司馬衷に迫り、璽綬を奪って禅詔(禅譲の詔)を作らせた。
その後、尚書令・満奮に符節を持って璽綬を奉じさせ、司馬倫に位を譲らせた。
左衛将軍・王輿、前軍将軍・司馬雅らが甲士を率いて入殿し、三部司馬に告知して威賞(武威と褒賞)を示した。敢えて逆らおうとする者はいなかったという。
張林らは諸門(宮城の諸門)に駐留して守りを固めた。
こうして司馬倫が法駕(皇帝の車)を準備して入宮し、帝位に即いた。
その後、司馬倫が天下に大赦して建始元年に改元した。
恵帝は華林園西門から出て金墉城に住むことになった。司馬倫は張衡に命じて、兵を率いて恵帝を監守させた。
その後、恵帝を尊んで太上皇とし、金墉を改めて永昌宮と呼ぶことにした。皇太孫・司馬臧(恵帝の孫。元太子・司馬遹の子)を廃して濮陽王とし、司馬倫の世子・司馬荂を皇太子に立てた。
また、司馬倫の子・司馬馥を京兆王に、司馬虔を広平王に、司馬詡を霸城王に封じ、全て侍中にして兵を統率させた。
梁王・司馬肜を宰衡に、何劭を太宰に、孫秀を侍中・中書監・驃騎将軍・儀同三司に、義陽王・司馬威を中書令に、張林を衛将軍に任命し、その他の党与も皆、卿・将にした。これらの人事において通常の序列を越えて昇格した者が数え切れないほどおり、下は奴卒に至るまで爵位が加えられたという。
朝会の度に貂蟬(貂の尾と蝉の装飾が附いた高官の冠)が座を満たしたため、当時の人々はこれを諺にして、
「貂が不足して狗の尾が続く」
と、言った。
これは冠に使う貂の尾が足りなくなったので犬の尾を使った、という意味である。ここから「狗尾続貂」という成語ができた。
これは本来、封爵の濫発を風刺する言葉だったのが、後に、文学作品等で使われるようになり、始めは優れているのに後が劣ることを意味するようにもなった
この年、天下が挙げた賢良、秀才、孝廉を全て試験しないことにし(本来は試験をしてから官を補う)、郡国の計吏および太学生で年が十六歳以上の者は皆、官吏にした。
太守・県令で赦日に職にいた者は全て封侯し、郡の綱紀はそろって孝廉にし、県の綱紀はそろって廉吏にした。
司馬倫と孫秀は広く恩を売ることで衆心を集めようとしたのである。しかしながらその結果、府庫の蓄えが不足して賞賜を供出できなくなり、封侯に応じた者は多いのに、鋳印(印の製作。または金属の印)が満足できないため、あるいは白板(何も書かれていない木の板)を使って封侯することもあったという。
平南将軍・孫旂の子・孫弼と、弟の子・孫髦、孫輔、孫琰は皆、孫秀に附会(協調和同)して家族を一つに合わせたため、一月の間に高位に登って顕貴に達した。
司馬倫が帝を称すと、四子とも将軍になって郡侯に封じられ、孫旂も車騎将軍として開府することになった。
孫旂は孫弼らが司馬倫から過分な官爵を受けているのを見て、必ず家の禍になると恐れるようになった。そのため幼子の孫回を送って牽制した。しかし孫弼らはそれに従わず、孫旂も彼らを制御することができずに慟哭するだけであった。
彼は孫秀に媚を売ってきた人物であったが、ここまでは求めていなかったのようである。
当時、孫秀が勝手に朝政を行っており、司馬倫が出した詔令でも、孫秀がいつも改訂・取捨して、自ら青紙に書いて詔とすることもあった。
そんな孫秀の政治は朝に施行した事なのに夜になったら改訂し、百官は水が流れるように交替させられていたという。
張林は以前から孫秀と親しくなく、しかも開府できなかったことを怨んでいたため、秘かに太子・司馬荂に書を送り、こう告げた。
「孫秀の専権は衆心に合わず、しかも功臣は皆、小人で、朝廷を攪乱しているので、悉く誅すべきです」
しかしながら司馬荂は書の内容を司馬倫に報告しました。司馬倫は孫秀に書を示した。それを見た孫秀は激怒して、司馬倫に張林を逮捕するように勧め、司馬倫は張林を殺して三族も皆殺しにした。
斉王・司馬冏、成都王・司馬穎、河間王・司馬顒がそれぞれ強兵を擁して地方を拠点としていたため(当時、司馬冏は許昌を、司馬穎は鄴を、司馬顒は関中を鎮守していた)、孫秀はこれを嫌い、三王の属僚には全て自分の親党を用いた。同時に、司馬冏に鎮東大将軍を、司馬穎に征北大将軍を加え、二人を開府・儀同三司とすることで寵遇安撫した。
西晋の皇后となっていた羊献容は廃位され、恵帝と共に金墉城に幽閉された。
「あなたの祖父と子供たちは地位を得たにも関わらず、あなたはこの扱いなんてね」
羊献容にこのように軽口を叩くのは綠珠である。
「孫と言えども、所詮は外孫ですから……」
「そうね。女はいつの時代でも男どもの道具……まあ呂太后、賈南風といった連中もいたけどね」
「私にはそのようにはなれませんから……」
所詮は自分は流されるままここで朽ちていくだけの女でしかないのである。
「あなたはこのまま終わると思ってるの?」
「何が?」
「今の状況に決まっているでしょ」
呆れたように綠珠はそう言う。
「男どもはいつの時代でも変わらない。自分と同じ立場だったものが自分よりも高い地位に言った。それを見て、自分が成るべき地位だったと思い、平気で殺し合う」
彼女は嘲笑うかのような言葉で続ける。
「そんなに欲しいのかねぇ。皇帝なんていう地位なんて、全く巻き込まれる身にもなってほしいものよねぇ」
「好き勝手できる地位なのですから欲しいと思うのは普通のことでしょう……」
羊献容の言葉に彼女は鼻で笑う。
「あなたはそんな中、どうするの?」
「どうするって……」
自分に何ができるのだろうかと思う羊献容に綠珠は言う。
「それぐらいはあなたが考えなさい。私にとってはどうでもいいことなのだからね」
羊献容は彼女の言葉に顔を伏せる。
(やれやれ……さあ、どうなるのかしらね……)
そんな彼女を横目に綠珠は内心でそう呟いた。




