九錫と益州の混乱
斉王・司馬冏は賈氏誅滅の功によって游撃将軍に遷っていたが、心中不満で、恨色があった。
孫秀はそんな司馬冏の不満に気づき、また、司馬冏が朝廷内にいることを畏れたため、平東将軍に任命して外に出し、許昌を鎮守させた。
その後、孫秀は相国・司馬倫に九錫を加えることを議した。九錫とは特に功労ある者に天子が与えた九種の品物のことで、車馬・衣服・楽器・朱戸・納陛・虎賁・弓矢・鈇鉞・秬鬯である。
これに百官で敢えて異議を唱える者はいなかったが、吏部尚書・劉頌がこう言った。
「昔、漢が魏に下賜し、魏が晋に下賜したのは、どちらも一時の運用であり、通例として用いるものではありません。漢を安定させた周勃や霍光はその功が至大でしたが、どちらも九鍚の命があったとは聞いたことがありません」
張林は劉頌に対して怨みを持っていたため、この言葉をもって劉頌を張華の党とみなして殺すべきであると主張した。
しかし孫秀が、
「張・裴(張華・裴頠)を殺して既に時望(当世の声望)を傷つけた。更に劉頌まで殺してはならない」
と言ったため、張林は主張を取り下げた。その後、劉頌は光禄大夫に任命された。
西晋の恵帝・司馬衷が詔を下して、司馬倫に九錫を加えた。また、子の司馬荂に撫軍将軍を、司馬虔に中軍将軍を加え、司馬詡を侍中に任命した。
更に孫秀に侍中・輔国将軍・相国司馬を加え、右率は以前のままとした。張林らもそろって顕要の職に就くようになった。
相府の兵が二万人に増やされ、宿衛の兵と同数になった。これにより司馬倫が隠匿している兵と合わせると、三万人を超えた。
九月、司徒を丞相に改めて梁王・司馬肜を丞相にしようとしたが、司馬肜は固辞して受け入れなかった。
司馬倫とその諸子は皆、頑迷愚鈍で見識がなく、孫秀は狡猾かつ貪婪であった。しかも事を共にした者は皆、邪佞の士で、ただ栄利を競い、遠謀深略がなく、志向がそれぞれ異なっていたため、互いに憎しみ嫉妬しあった。
そんな彼らに司馬肜は近づきたくなかったようである。
そんな中、孫秀の子・孫会が射声校尉になった。孫会は容貌が醜くて背も低く、奴僕の下の者のようであった。しかし孫秀は孫会に恵帝の娘・河東公主を娶らせた。
更に彼は尚書郎・羊玄之の娘である羊献容を皇后に立てた。彼女の外祖父に当たる平南将軍・孫旂が孫秀と親しかったためである。
合わせて羊玄之を光禄大夫・特進・散騎常侍に任命し、興晋侯に封じた。
自分の一族と親戚を強くしていく孫秀を尻目に皇后にされた羊献容は冷や汗をかいていた。
「わ、私が……皇后……」
体の震えが止まらず、自分の体を抱きしめる。
「せっかく得た地位なのだからそれほど怖がることないでしょうに」
そんな彼女を呆れながら見る者がいた。その言葉を発した者を羊献容は見て更に体を震わす。相手は絶世の美女である。しかしながらこの美女は自分を容赦なく殺そうとした人物である。
「何も取って食おうなんてしてないのだからそんなに怖がらないでよ」
「あ、あなたは私を、殺そうとしました。そんなあなたが傍にいるのです。こ、怖がるのは当たり前ではありませんか」
「それもそうなんだけどね。でも、諦めなさい。私の正体を知っているあなたを生かす代わりにあなたの傍にいるってことで私は妥協しているのだからね」
美女はため息をつく。彼女としては羊献容が歴史に関わる者であっても殺すことに躊躇する気持ちは持ち合わせてはいないが、あの黄色い服の男とまともにやり合うのは面倒である。
(それにこの時代で使うこの顔を知っているやつも多いから動きづらい。そのための隠れ蓑でもあるのよね)
「あなた、他のやつがいる時に私を見てもそんなに恐れないでよ。何かと思われてしまうからねぇ」
「わ、わかってます」
相手はとてつもない化け物である。その化け物の言葉に逆らおうとは思わない。
「あと、私のことは綠珠と呼びなさい。いいわね」
「はい……」
「全く、皇后になったというのに、そんな調子で大丈夫なのかしらねぇ」
「こ、皇后って言ったところで何の権限があると言うのですか。ただでさえ皇帝があれでは……」
「言葉には気を付けない。いつ聞かれて始末されるのかわからないのだからね」
綠珠の言葉に羊献容は口をつぐむ。
「まあ言いたいこともわかるけどね。私からすれば、残虐なやつよりはいいと思うけどね」
「だからこそ周りに流されてばかりです。私も同じですけどね……」
(確かにこれからもこの王朝は色んなことが起きそうよねぇ)
「まあ私はそれを眺めに来たんだけどね……」
かつて異民族に蹂躙されることになった古代の王朝の姿を見たことがある。それと同じような、いやそれ以上のものを見れるかもしれない。
「それを見ながら存分に笑ってやるわ」
益州刺史・趙廞と略陽の流人・李庠が成都内史・耿勝、犍為太守・李密、汶山太守・霍固、西夷校尉・陳総を害し、成都を拠点にして反乱を起こした。
事の経緯を説明する。
恵帝が詔を発して益州刺史・趙廞を朝廷に召し、大長秋に任命することにしようとし、代わりに成都内史・中山の人・耿滕を益州刺史に任命した。
趙廞は賈南風の姻親(婚姻関係がある親族)だったため、朝廷に召還されたと聞いて甚だ懼れた。
(殺されるならば、いっそのこと……)
追い込まれたと思った彼は晋室が衰乱していることから秘かに蜀で割拠しようという志を抱くようになり、倉廩を傾けて流民を救済し、衆心を収めるようになった。
流民の長というべき、李特兄弟には才能と勇武があり、その親族も皆、巴西の人で、趙廞と同郡だったため、趙廞は李特を厚遇して爪牙にした。
李特らも趙廞の権勢を恃みとし、専ら強盗、略奪を行い、蜀人はこれを患いと思うようになった。
そこで耿滕がしばしば秘かに上表した。
「流民(李特ら)が剛健勇壮なのに、蜀人は臆病かつ軟弱なので、蜀人が流民を制すことができません。必ずや禍乱の原因になりましょう。よって、元の居場所に還らせるべきです。もし彼らを険阻な蜀の地に留めたら、恐らく秦・雍(流民が元々住んでいた地)の禍が更に梁・益に移ることになります」
趙廞はこれを聞いて耿滕を憎んだ。
詔書(耿滕を益州刺史に任命する詔)を受け取った益州は、文武千余人を派遣して耿滕を迎えた。しかし趙廞は太城に居座ったまま去ろうとしなかった。
当時、成都(内史)は少城を治め、益州(刺史)は太城を治めていた。
耿滕が州に入ろうとしたが、功曹・陳恂が諫めた。
「今は州(益州刺史・趙廞)と郡(成都内史・耿滕)が怨みを結んで日に日に深くなっているので、入城したら必ず大禍がありましょう。少城に留まって変化を観察し、諸県に檄文を送って村保(村の小城)を合わせることで秦氐に備えた方がいいでしょう」
秦氐とは李特らのことである。李特らは本来、巴の氐人であったが、秦州界に移住したため、蜀人は秦氐と呼んだのである。
「西夷校尉・陳総が成都に来るので、暫くはそれを待つべきです。そうしないのならば、退いて犍為を守り、西に向かって江源を渡り、非常事態に備えるべきです」
耿滕は陳恂の諫言に従わず、その日に衆を率いて州に入った。
果たして、趙廞が兵を派遣して迎撃させ、耿滕は西門で戦って敗死した。
郡吏が皆、逃走したが、陳恂だけは面縛(手を後ろに縛ること。投降の姿)して趙廞を訪ね、耿滕の死体を請うた。趙廞はそれを義とみなして許可した。
趙廞は更に兵を派遣して西夷校尉・陳総を迎え撃たせた。
陳総は江陽に至って趙廞に異志があると聞いた。すると主簿・蜀郡の人・趙模が言った。
「今は州と郡が不和なので、必ず大変事が生まれます。速やかに進んで成都に赴くべきです。府(西夷府。ここでは西夷校尉・陳総を指す)は兵の要です。耿滕を助けて趙廞を討てば、誰が敢えて動くでしょうか」
ところが陳総は道沿いで停留した。そのため、南安魚涪津に至った時、早くも趙廞軍に遭遇した。
趙模が陳総に言った。
「財を散じて士を募り、それによって抗戦なさるべきです。もし趙廞軍に克てたら州を得られます。克てなくても、流れに順じて退けば、必ず害はありません」
しかし陳総はこう言った。
「趙益州は耿侯を怨んでいたから殺したのだ。私とは怨恨がない。なぜそのようにするのだ」
趙模は、
「今、趙廞は事を起こしたのですから、必ずやあなた様を殺すことで威を立てます。たとえあなた様が戦おうとしなくても、益はありません」
と言って涙まで流した。
しかし、陳総は諫言を聴かず、結局、兵衆が自ら崩壊した。
陳総は草の中に逃げ、趙模が陳総の服を着て格闘しました。趙廞の兵が趙模を殺したが、陳総ではないのを見て、更に探し求めて陳総を得て、殺害した。
趙廞は大都督・大将軍・益州牧を自称し、更に僚属を任命し、太守を交替させた。趙廞に召された王官(朝廷が任命した官員)で、敢えて応じない者はいなかった。
李庠が妹壻(妹の夫)・李含と天水の人・任回、上官晶、扶風の人・李攀、始平の人・費他、氐の人・苻成、隗伯ら四千騎を率いて趙廞に帰順した。
趙廞は李庠を威寇将軍に任命して陽泉亭侯に封じ、彼に腹心の任を委ね、六郡の壮勇を招き集めさせた。壮勇の数は一万余人に達し、それを使って北道(北から蜀に入る道)を断たせた。




