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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第五章 南北の激闘

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辟奚

 371年


 正月、袁瑾えんきん朱輔しゅほが前秦に救援を求めた。


 前秦の天王・苻堅ふけんは、袁瑾を揚州刺史に、朱輔を交州刺史に任命し、武衛将軍・武都の人・王鑒おうかんと前将軍・張蚝ちょうこうを派遣して、歩騎二万を率いて救わせた。


 しかし、東晋の大司馬・桓温かんおんが淮南太守・桓伊かんい、南頓太守・桓石虔かんせきぎゃくらを派遣して、石橋で王鑒と張蚝を撃たせ、大いに破った。因みに桓伊は桓宣の子である。


 秦兵は退いて愼城に駐屯した。


 桓温はそのまま寿春を攻略して袁瑾と朱輔を捕えた。二人は宗族と共に建康に送られて斬られた。


 天王が関東の豪傑および雑夷十五万戸を関中に遷し、烏桓を馮翊と北地に住ませ、丁零・翟斌の部族を新安と澠池に住ませた。


 乱に遭って流移した諸人の中に旧業に還りたい者がいたら、全て許可した。


 二月、前秦が魏郡太守・韋鍾いしょうを青州刺史に、中塁将軍・梁成りょうせいを兗州刺史に、射声校尉・徐成じょせいを并州刺史に、武衛将軍・王鑒おうかんを豫州刺史に、左将軍・彭越ほうえつを徐州刺史に、太尉司馬・皇甫覆こうほふくを荊州刺史に、屯騎校尉・天水の人・姜宇きょううを涼州刺史に、扶風内史・王統おうとうを益州刺史に、秦州刺史・西県侯・苻雅ふがを使持節・都督秦晋涼雍州諸軍事・秦州牧に、吏部尚書・楊安ようあんを使持節・都督益梁州諸軍事・梁州刺史にした。


 梁成は梁平老の子、王統は王擢の子である。


 前秦が再び雍州を置いて蒲阪を治所にした。長楽公・苻丕ふひを使持節・征東大将軍・雍州刺史に任命した。


 天王は、関東を平定したばかりであるため、守令には相応しい人材を得るべきだと考えた。そこで、王猛おうもうに命じて、まずは便宜に基いて英俊を選抜・招致させ、六州の守令を補って全ての官を授け終わってから、朝廷に報告させ、正式に官員を任命した。


 三月、前秦の後将軍・金城の人・俱難ぐなんが桃山で蘭陵太守・張閔の子を攻めたが、東晋の大司馬・桓温が兵を派遣して撃退した。


 代の将・長孫斤ちょうそんきんが代王・拓跋什翼犍たくばつじゅうよくけんの弑殺を謀ったが、世子・拓跋寔たくばつしょくが長孫斤と格闘し、脅(肋骨。または腋の下から肋骨にかけた部分)を負傷したものの、長孫斤を捕えて殺した。その後、拓跋寔は長孫斤と戦った時の怪我が原因で世を去ることになる。


 拓跋寔は東部大人・賀野干かやかんの娘を娶り、遺腹子(父が死んだ時、母が懐妊していた子)がいた。


 その後、男児が生まれたため、代王・拓跋什翼犍が境内の罪人を赦免した。男児は渉圭しょうけいと名づけられた。


 この渉圭こそ後に北魏を建国する道武帝・拓跋珪たくばつけいその人である。














 前秦の西県侯・苻雅ふゆうと楊安、王統、徐成および羽林左監・朱肜しゅとう、揚武将軍・姚萇ようちょうが歩騎七万を率いて仇池公・楊纂ようさん討伐を命じられた。


 前秦の兵が鷲峽に至り、仇池公・楊纂が五万の兵を率いて抵抗した。


 梁州刺史・弘農の人・楊亮ようりょうが督護・郭寶かくひん卜靖ぼくせいを派遣して、千余騎を率いて楊纂を助けさせた。しかし楊纂らは峽中で前秦の兵と戦って大敗し、死者が十分の三、四に上り、郭寶らも没した。


 楊纂は散兵を収容して、遁走して還った。


 西県侯・苻雅が仇池に進攻すると、楊纂と国を巡り、争っていた楊統ようとうが武都の衆を率いて前秦に降った。懼れた楊纂も面縛(手を後ろに縛ること。降服の姿)して投降した。


 苻雅は楊纂を長安に送った。


 前秦は楊統を南秦州刺史に任命し、楊安に都督南秦州諸軍事を加えて仇池を鎮守させた。


 王猛が枹罕で張天錫ちょうてんしゃくを破った時、その将・敦煌の人・陰據いんきょと甲士五千人を獲た。


 天王は楊纂を平定してから陰據を派遣し、その甲士を率いて涼州に還らせた。著作郎・梁殊りょうしゅ閻負えんふに陰據を送らせた。


 天王はこれを機に王猛に命じて張天錫を諭す書を準備させ、こう告げた。


「昔、貴先公が劉・石に対して藩臣を称したのは、強弱を考察したからである。今、涼州の力を論じるなら、往時よりも損なわれており、大秦の徳を語るなら、二趙の敵ではない。ところが将軍は逆に自ら関係を絶った。宗廟にとって福とはならないのではないか。秦の威を涼州の周辺に例外なく振るわせたら、弱水(川の名)を戻らせて東に流れさせ、江・河を帰らせて西に注がせることができるだろう。今、既に関東が平定されたので、兵を河右に移すつもりだ。恐らく六郡の士民が抵抗できるものではない」


 この「六郡」は張軌が河西を鎮守した時に統治した武威、張掖、酒泉、敦煌、西郡、西海を指す。後に張氏はその地を分けて更に多くの郡を設けた。


「劉表(後漢末に荊州を治めた)は漢南を保つことができると考え、将軍は西河を全うできると考えているようだが、吉凶は自らの判断にかかっており、元亀(占卜に使う大亀。ここでは往時の教訓を指す)は遠くない。深く計算して巧く考えることで、自ら多福を求めるべきであり、六世の業を一旦にして地に落とすべきではない」


 本来、張軌が河西を拠点にしてから張天錫までは九主になるが、ここで「六世の業」としているのは、張曜霊、張祚、張玄靚を一世としていないためである。


 張天錫は大いに懼れて使者を派遣し、謝罪して臣を称した。


 天王は張天錫を使持節・都督河右諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・涼州刺史・西平公に任命した。


 五月、吐谷渾王・辟奚へきえきも楊纂が敗れたと聞き、前秦に使者を派遣して馬千頭と金銀五百斤を献上した。


 前秦は辟奚を安遠将軍・漒川侯にした。


 辟奚は葉延の子で、好学かつ仁厚でしたが、威断がなかったため、三人の弟が専横しており、国人がこれを患っていた。


 西漒の羌豪である長史・鍾悪地しょうあくち)が司馬・乞宿雲きつしょくうんにこう言った。


「三弟が縦横して権勢が王の上に出ているので、このままではもうすぐ国が亡ぶ。我々二人は位が元輔になったので(長史と司馬は府の元僚(重臣))、どうして坐してそれを視ていられるだろうか。明日は月望(満月の日)で、文武が並んで会すので、私が彼らを討とう。王の左右の者は皆、我々羌人の子だ。目で合図しただけで、すぐ擒にできるだろう」


 乞宿雲はまず王に報告するように請うた。しかし鐘悪地は、


「王は仁厚だが決断力がないので、これを報告したら従うはずがない。万が一、事が漏れたら、我々は遺類(生き残る者)がいなくなってしまう。事が既に口から出たのに、なぜ途中で変えられるのだ」


 と言い、辟奚の三人の弟を会の席で逮捕して殺してしまった。


 それを見た辟奚は驚き怖れて自ら座席の下に身を投じた。


 鐘悪地と乞宿雲が急いで辟奚の前に行き、抱きかかえてこう言った。


「私は昨日、夢で先王が臣にこう勅命するのを見ました。『三弟が逆を為そうとしているので、討たなければならない』だからこれを誅したのです」


 しかし、この事件が原因で辟奚は発病して恍惚(精神が不安定なこと)となり、世子・視連しれんに命じてこう言った。


「私は禍を兄弟に及ばせてしまった。どうして地下で彼らに会えるだろうか。国事は大小に関わらず全て汝に任せて治めさせる。私の余年残命(残された時間と命)は寄食(人に頼って生活すること)するだけだ」


 辟奚は憂いが原因で死んでしまった。つくづく国主に向いていなかった人だったとしか言えない。


 視連が跡を継いで立ったが、飲酒も巡遊・狩猟もせずに七年が経ち、軍国の事は全て将佐に委ねた。


 鍾悪地が諫めて、


「人主とは自ら娯楽を行い、威を建てて徳を布くものです」


 と、主張したが、視連は泣いてこう言った。


「私は先祖代々、仁孝忠恕を継承してきた。先王は友愛を全うできなかったことを念じて、悲憤して亡くなった。私は業を継いだとはいえ、屍が存在しているだけだ。声色遊娯にどうして安んじていられるだろう。威徳を建てるのは、将来の者に託すだけだ」


 胡三省は、


「辟奚の死と視連の即位は、この年の出来事ではない。『資治通鑑』は、辟奚が前秦に入貢したので、続けてこの事を書いたのである」


 と解説している。




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