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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第五章 南北の激闘

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梁琛

 最近、『三国志』を題材とした中国のドラマを二つ見たのですが、どちらも曹操の息子の曹沖の死が大きくピックアップされていて「なんでこんなに重要なイベントにしているんだ?」とすごい違和感が強かったです。

 前燕と前秦が好を結んだため、使者が頻繁に往来するようになった。前燕の散騎侍郎・郝晷かくきと給事黄門侍郎・梁琛りょうちんも相継いで前秦に入った。


 郝晷と王猛おうもうは旧交があったため、王猛は平生(通常の友人に対する態度)によって郝晷に接し、東方の事を問うた。


 郝晷は前燕の政事が乱れ始めていると感じていた。一方、前秦は大いに治まっているように見えた。


(やがて燕は秦に屈することになるだろう)


 そう思い、彼は秘かに自分を託そうと欲して、王猛に多くの実情を漏らした。


 梁琛が長安に至った時、前秦の天王・苻堅ふけんはちょうど万年(地名)で狩りをしていた。天王が梁琛を引見しようと欲したが、梁琛はこう言った。


「秦の使者が燕に至ったら、燕の君臣は朝服を着て礼を備え、宮廷を掃除し、そうした後にやっと使者に会おうとします。今、秦王は郊外で会おうと欲していますが、私には敢えて命を聞くことができません」


 尚書郎・辛勁しんくが梁琛に言った。


「賓客が入境したら、ただ主人が処すところ(主人が居る場所。または主人の処置)に従うものだ。なぜ君にその礼を専制することができるのだ(君が主人の礼を勝手に決めることはできない)。そもそも、天子は『乗輿』と称し、至った場所は『行在所』というではないか。なぜ一定の居場所あるのだ。また、『春秋』にも遇礼の記述がある。なぜ郊外で会うのが相応しくないと言えるのか」


「遇礼」について胡三省が解説している。


「『春秋』の「隠公四年」に、魯の隠公と宋の殤公が清邑で会見したという記述がある。この時、両国の君主は道中で遭遇した時のように簡略した礼を用いたため、これを「遇礼」と言う」


 梁琛はこう返した。


「晋室が綱紀を失って混乱したので、霊祚(神明による福)が徳に帰して、燕と秦が国運を継承し、共に明命を受けました。ところが桓温かんおんが猖狂(欲のままに振る舞うこと)して、我が王略(帝王の領土)を窺いました。燕が危うくなったら秦は孤立し、単独では立てなくなるので、秦主は時の患いを共に憂慮して、好を結んで援助したのです。その結果、燕の君臣は首を延ばして西を望み、自分達が桓温と競えなかったために隣国の憂いを為してしまったことを慚愧して、秦の使者が来た際には、恭敬を加えて待遇したのです。今、強寇が既に退き、交聘(使者の往来)がまさに始まったところなので、礼を崇めて義を厚くすることによって、二国の友誼を固めるべきだと考えます。もしも私に対して横暴な態度をとるのならば、それは燕を軽視することであり、どうして修好の道理なるのでしょうか。」


 前秦が前燕の危機を救ってくれたため、前燕はそのことへの感謝を示すために前秦の使者が来た際に礼儀を尽くした。それは一時的なものではなく、両国の間で友好を結んでいこうとしている。それにも関わらず、礼を軽視しては意味が無いではないか。


「そもそも天子とは四海を家とするものなので、移動している時は天子がいる場所を『乗輿』といい、止まったら『行在』と申します。しかし今は海県(神州。中国)が分裂して、天光が輝きを分けているため、四海を家としているのではありません。どうして『乗輿』『行在』を言い訳にすることができるのでしょうか」


 天下統一しているならば、辛勁の言い分はわかるが今は乱世であり、諸国が乱立している。


「礼においては、約束をせずに会うことを『遇』といいます。思うに、『春秋』の魯の隠公と宋の殤公は事情に応じて臨機応変な行動をとったから、その礼が簡略だったのであって、どうして平時の従容としている時に、そのようにすることができるでしょうか。客使が単独で訪問したら、確かに主人に屈する必要があります。しかしもし主人が礼に則らないようなら、やはり従うわけにはいきません」


 天王は梁琛のために行宮を設けて、百僚を同席させ、その後、客を招き入れて、燕朝の儀(前燕が使者を接見する時の儀礼)と同等にした。


 接見が終わってから、天王が梁琛のために私宴を開いた。


 天王が問うた。


「前燕の名臣とは誰だろうか?」


 梁琛はこう答えた。


「太傅・上庸王・評(慕容評ぼようひょう)は明徳が盛んな皇族で、多方面で王室を輔佐しています。車騎大将軍・呉王・垂(慕容垂ぼようすい)は雄略が世に冠しており、敵を撃退して侵攻を防ぎました。その他の者も、あるいは文によって官位を進められ、あるいは武によって用いられ、それぞれの官が全てその職責に釣り合っており、野には取り残された賢才がいません」


 梁琛の従兄・梁奕りょうえきは前秦で尚書郎になっていた。


 天王は梁奕を典客(来客の担当)にして、梁琛を梁奕の家に泊まらすことにした。しかし梁琛はこう言った。


「昔、諸葛瑾(諸葛亮の兄)が呉のために蜀を聘問した時、諸葛亮とは公朝(公の朝廷)だけで会い、退いたら私面(個人的に会うこと)がありませんでした。私は心中でこれを慕っています。今回、私が秦への使者になったところ、私人の家に置かれることになりましたが、そのようにはできません」


 結局、梁琛は梁奕の舎に泊まらなかった。


 梁奕がしばしば梁琛の館舎に来て起居を共にし、時間があれば東国の事について問うたが、梁琛はこう答えた。


「今は二方が分拠して、兄弟が並んで各国で栄龐を蒙っておりますが、それぞれに所属する場所があり、立場が異なるので、私が本心を述べたいと思っても、兄がそれを聞くことはできません。私が東国の美を言おうと欲しても、恐らくそれは西国が聞きたいと欲することではなく、私がその悪を言おうと欲しても、それは使臣に論じられることではありません。兄はなぜ質問するのですか?」


 天王は太子に梁琛を招かせて会見させた。


 秦人は梁琛に太子を拝させようと欲し、あらかじめ示唆してこう言った。


「隣国の君とは、自分の君のようなものである。隣国の後嗣も、どうして自国の太子と異なるだろうか」


 梁琛はこう言った。


「天子の子は元士(天子の士)とみなされます。これは太子が卑賎から高貴に登ることを欲するからです」


 これは『礼記・郊特牲』の「天子の長子は士である。天下には生まれながらに尊貴な者はいないからである」という言葉が元になっている。


「天子の士にすぎない太子は父の臣すら自分の臣とみなすことができないのですから、他国の臣ならなおさらではありませんか。たとえ純粋に敬う心がなくても、礼に則った往来があったら、心中においてどうして恭敬を忘れることがあるでしょうか。太子に拝礼しないのはただ、いたずらに自分の身を落として屈した結果、面倒を招くことを恐れるからです」


 結局、梁琛は太子に対して拝礼を行わなかった。


 王猛が梁琛を留めるように勧めたが、天王は同意しなかった。


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