司馬允
西晋は梁王・司馬肜を太宰に、左光禄大夫・何劭を司徒に、右光禄大夫・劉寔を司空に、淮南王・司馬允を驃騎将軍・開府儀同三司・領中護軍に任命した。
司馬允は西晋の武帝の子で、恵帝・司馬衷の弟である。
太子・司馬遹が廃された時、司馬允を太弟(皇太弟)に立てようとしたことがあったが、議者の意見が一つにならず、その間に趙王・司馬倫が賈南風を廃したことでこの話は無くなっていた。
相国・司馬倫は矯詔(偽りの詔)を発し、尚書・劉弘に金屑酒(毒酒。金属の粉末が入った酒)を持たせて金墉城に派遣した。
賈南風に金屑酒が下賜され、彼女はそれを飲んで死んだ。
狡猾さにおいて彼女は呂太后を超えていたが、政治手腕において劣り、西晋王朝を傾かせる要因を為した人物であった。
五月、詔によって皇孫に当たる臨淮王・司馬臧を皇太孫に立て、太子妃・王氏を還らせて司馬臧の母にした。
太子の官属がそのまま太孫の官属に転じ、相国・司馬倫が太孫太傅を代行した。
これに対して警戒心を強めたのが司馬允である。彼は性格が沈着剛毅で、宿衛の将士が皆、畏服していた。
司馬允は相国・司馬倫とその配下である孫秀に異志があると考え、秘かに死士を養って征討を謀ろうとした。
司馬倫と孫秀はそんな司馬允を深く恐れるようになった。
そこで彼らは八月、司馬允の官を太尉に改めた。この人事は表面上は上の官職である太尉を与えることで彼に尊重を示しつつ、実際は兵権を奪おうと太尉にしようとしたのである。
司馬允はそれに対して病と称して拝命しなかったため、孫秀は御史・劉機を派遣して司馬允に強制し、同時に官属以下の者を逮捕して、詔を拒んだ大逆不敬の罪を弾劾した。
ところが、司馬允が詔を視ると孫秀の手書きの書であった。
「己で書いた物を詔のように扱うのか」
彼は激怒し、劉機を逮捕して斬ろうとしましたが、劉機は走って免れ、その令史二人が斬られた。
司馬允は厳しい様相で左右の者に、
「趙王が我が家を破滅させようとしている」
と言うと、国兵と帳下の七百人を率いて直接出撃し、大声で叫び、
「趙王が反したので、私がこれを討つ。私に従う者は左袒(上着を脱いで左肩を出すこと)せよ」
と、宣言した。
甚だ多くの者が司馬允に帰順した。
司馬允は皇宮に赴こうとしたが、尚書左丞・王輿が掖門(因みに皇宮端門の左を左掖門、右を右掖門という)を閉じたため、中に入れなかった。そこで当時、司馬倫が東宮を相府にしていたためそこを包囲した。
司馬允が指揮する兵は全て精鋭だったため、司馬倫は司馬允と戦って敗戦を繰り返し、死者が千余人に上った。
それを見た太子左率(左衛率)・陳徽が東宮の兵を率いて鼓譟(戦鼓を敲いて喚声を上げること)し、中から司馬允に呼応した。
司馬允は承華門前に陣を構え、弓弩を一斉に放って司馬倫を射た。矢が雨のように降り注いだ。
主書司馬・眭祕が身をもって司馬倫に覆いかぶさり、矢が背に刺さって死んだ。司馬倫の官属は皆、樹木に隠れて立ち、全ての樹木に数百の箭が刺さっていった。
司馬允の攻撃は辰(午前七時から九時。朝食の時間)から未(午後一時から三時。太陽が傾き始める頃)に及ぶほど長く続いた。
中書令・陳準は陳徽の兄で、司馬允に応じようと欲したため、恵帝にこう言った。
「白虎幡を遣わして戦闘を解くべきです」
「白虎幡」は進軍する時に使うものであるが、陳準は恵帝が庸愚であるとみなしていたため、「戦闘を解く」と言いながら、敢えて白虎幡を使って軍を指揮することを請うたのである。
彼は司馬倫の兵がそれを見たら、司馬允の攻撃が帝命によるものだと思って自ら潰散するはずであると考えたのである。
恵帝は司馬督護・伏胤に騎兵四百を率いて幡を持たせ、宮中から出した。しかし、侍中・汝陰王・司馬虔(司馬倫の子)が門下省におり、彼は父の危機を救うため、秘かに伏胤に誓ってこう言った。
「富貴を卿と共にしようではないか」
伏胤は彼の言葉に頷き、彼と共に司馬允の元へ向かった。そして懐から空版(詔を書く版。何も書かれていない状態)を取り出し、偽って、
「詔によって淮南王(司馬允)を助ける」
と言った。司馬允は偽りに気づかず、陣を開いて伏胤を中に入れ、車から降りて詔を受け取ろうとした。
その瞬間、伏胤は剣を抜き、司馬允を殺し、あわせて司馬允の子・秦王・司馬郁、漢王・司馬迪も殺した。
司馬允に連座して族滅にされた者は数千人に上った。
あの状況で司馬倫は助かり、司馬允が死ぬことになるとはまさに悪運というものはあるものである。
さて、この混乱で生き残った孫秀の方はこれを利用しようと考えていた。
彼がまだ小吏だった頃、黄門郎・潘岳に仕えていた。
潘岳は孫秀が狡猾で得意になっていたため、潘岳はその為人を嫌ってしばしば鞭で打って辱めていた。
衛尉・石崇の甥(姉妹の子)に当たる欧陽建はかねてから相国・司馬倫と対立して、以前、司馬倫の罪悪について上表したことがあった。
また、石崇に綠珠という愛妾がおり、孫秀が使者を送って求めたことがあったが、石崇は譲ろうとしなかった。そのため孫秀は彼のことを恨んでいた。
因みに綠珠という女性は笛を吹くのが得意で、またこのような話がある。
昔、梁氏の娘である綠珠が美女として有名であったため石崇が使者として交州に行った時、真珠三斛で買い取った。梁氏の住居には古井戸があり、その水を汲んで飲んだら必ず美女を生むと言われていた。
しかし里閭の人々は、美女を生んでも無益だと考え、石で井戸を埋めた。この井戸を綠珠井といい、白州雙角山の下にあったという。
淮南王・司馬允が敗れると、孫秀はそれを機に、
「石崇、潘岳、欧陽建が司馬允を奉じて乱を為した」
と称し、三人とも逮捕した。
石崇はちょうどこの時、楼上で宴を開いていた。そこに介士が門に至ったと聞くと綠珠にこう言った。
「私は今、汝のために罪を得てしまった」
綠珠は泣いて、
「あなたの前で命を棄てて報います」
と言うと、自ら楼の下に投じて死んだ。
その後、捕まった石崇は、
「私は交・広に流刑になるだけだろう」
と言っていたが、石崇を載せた車が東市(死刑場)に向かうと、嘆いて、
「奴らは私の財を利とみなしただけだ」
と言った。これに対して逮捕した者が、
「財が害をもたらすと知っているのなら、なぜ早く手放さなかったのだ」
と返すと石崇は答えられなかった。そのまま彼は斬られた。
潘岳の母は常に潘岳を譴責してこう言っていた。
「汝は満足するということを知るべきなのに、乾没(利を求めること)が止みません」
潘岳は逮捕されることになった時、母に謝って、
「母の期待に背くことになってしまいました」
と言い、そのまま斬られた。彼は『後塵を拝す』の故事で知られた人物ではあったが、文学においては当時の最高峰の一人として知られ、後世の文化にも影響を与えている。文化面においては惜しい人であった。
こうして潘岳と石崇、欧陽建が皆、族誅され、石崇の家は籍没(家財を登記して没収すること)された。
そんな中、綠珠の死体に近づく者がいた。
「馬鹿な女……」
彼女の死体の傍に行くと屈んでそう言った。
「あんな男のために死ぬなんて馬鹿よねぇ」
そう言いながら彼女は笑う。
「そんな簡単に捨てる命ならば、顔も体ももらっても良いわよね」
彼女は綠珠の死体を持ち上げるとそのまま建物の影に運んだ。少しして女が出てきた。その姿は先ほどまで死体として転がっていた綠珠と同じような姿であった。
「あれは綠珠ではないか?」
声が聞こえ、彼女が振り向くとそこには数十人の兵と馬車がいた。
「孫秀様に献上すれば、褒美がもらえるぞ」
兵たちはそう言って彼女に向かっていった。
「はあ、顔が知られていると、こういうことがあるのよね」
ため息をつくと同時に彼女は手を軽く振るった。
辺りに血しぶきが飛び、
「私を捕まえるというのなら、西楚の覇王でも連れてきなさい」
数十人の兵の首が地面に落ちていった。
「さて……と」
彼女は馬車を見据え、逃げ出そうと馬に鞭を打とうとした御者の首元に手をかけ、えぐり取る。
「後は馬車の中ね」
馬車の中を覗き込むとそこには彼女に怯え体を震わしている少女がいた。
(貴族の娘ってところかしらね)
「悪いわね。運が悪かったと思って死になさい」
「やだ、死にたくない。誰か助け……」
少女はそこまで言ったところで恐怖のあまり失神した。
「あらあら気の弱いこと」
その姿に呆れながらも彼女は少女の首に手をかけようとした。
「それは困るなあ」
その言葉と共に彼女の右腕が飛ぶ。
「黄石……」
彼女は馬車から飛び出し、右腕を元に戻し警戒し始める。
「全く手間を」
黄色い服の男が現れ、話し始めた瞬間に彼女は彼の首を飛ばす。
「かけさせ」
首が宙を浮きながらも喋ろうとするため彼女は更に口を切り裂く。
「全く手間をかけさせるな」
やれやれとばかりに首を飛ばされたはずの黄色い服の男が首がついた状態で話す。
「化け物が」
「お前さんに言われたくはない」
彼女が吐き捨てるように言い放った言葉に黄色い服の男は苦い顔をする。
「それでその少女を守るのはなぜ?」
「決まっている。歴史に必要な女だからだ」
その言葉に彼女は横目で気絶している少女を見る。
「ふうん、この女童がねえ」
「羊献容、史上最も廃位され復位し、二つの王朝で皇后となる女だ」




