贅沢な臣下たち
281年
以前、鮮卑の莫護跋が塞外から遼西棘城の北に入って居住するようになった。その際、彼は慕容部と号した。それにより彼の子孫は慕容氏と呼ばれるようになった。
さて、なぜ彼が慕容部と号したのか、諸説があるため紹介する。
後漢の桓帝の頃、鮮卑の英雄・檀石槐がその地を東・中・西の三部に分けたことがあった。そのうちの中部に柯最、闕居、慕容等の大人がおり、大帥になった。胡三省は、
「これが慕容部の始まりである」
と書いている。
または莫護跋の先祖は有熊氏の後裔で、代々北夷に住み、紫蒙(地名)の野に邑を築いて東胡と号した。その後代は匈奴と並んで強盛になり、控弦の士(弓を引く士)を二十余万も擁したという。風俗・官号は匈奴とほぼ同じであった。
しかし秦漢の際に匈奴に敗れたため、分かれて鮮卑山を守ったため、そこから鮮卑を号するようになった。
魏初になって、莫護跋が諸部を率いて遼西に入居し、晋の宣帝・司馬懿に従って公孫氏を討伐し、功を上げたため、率義王に封じられて棘城の北に国を建てた。
当時、燕・代の多くの人々は歩揺冠を被っていた。莫護跋はこれを見て気に入り、髪を束ねて冠を被ったため、諸部が莫護跋を「歩揺」と呼ぶようになり、後にそれがなまって「慕容」になったという。
あるいは、「二儀(天地)の徳を慕い、三光の容(日月星の儀容・法則)を継ぐ」という意味から、慕容を氏にしたとも言われている。
胡三省は「慕容」の由来について、「歩揺」の説は「道理がなく、荒唐無稽である」としており、「二儀の徳を慕い、三光の容を継ぐ」という説は「慕容氏が中原を得てから、その臣子が作った言葉である」と述べている。
さて、莫護跋は既に世を去っており、孫の慕容渉帰の時代になっていた。彼は遼東の北に遷って代々中国に帰附し、しばしば征討に従って功を立てたため、大単于に任命されていた。
しかしこの年の十月、慕容渉帰は晋に反旗を翻し、昌黎郡を侵した。以後、彼は晋への侵攻を繰り返すことになる。
282年
正月、西晋の武帝・司馬炎は自ら南郊で祭祀を行った。
祭祀の礼が終わってから、武帝が司隸校尉・劉毅にため息をつきながらこう
問うた。
「私は漢のどの帝と比べることができようか?」
すると劉毅は、
「桓・霊でございます」
と、答えた。桓・霊とは後漢の桓帝と霊帝のことである。どちらも世の中を乱す政治を行い、王朝の滅亡を招いた人物である。そんな人物たちと比べられるということに疑問を思った武帝が問うた。
「なぜそれほど悪いのだ?」
劉毅はこう答えた。
「桓・霊は官を売った銭を官庫に入れましたが、陛下は官を売った銭を私門に入れております。これを元に言うならば、恐らく桓帝と霊帝にすら及びません」
二人以下であるという強烈な批難の言葉である。それに対して武帝が大笑いして言った。
「桓・霊の世ではこの言を聞けなかった。今、私には直臣がいるので、もとより彼らより勝っている」
この発言は中々出るものではない。武帝の皇帝としての質は良いと言える。
武帝に対して堂々と意見を述べた劉毅であるが、もともと彼は司隸校尉になってから富貴を糾弾して一切、遠慮がなかった。
ある時、皇太子・司馬衷が楽隊と一緒に東掖門に入ったため、劉毅がこれを弾劾して上奏した。
本来、臣子が皇宮の掖門に至ったら、先導を去らせ、車から降りて中に入ることになっていた。太子であっても鼓吹して掖門に入ったのは不敬に当たる行為であった。
武帝は中護軍・散騎常侍・羊琇に対して弟の司馬攸との後継者争いで相談役を務めてくれたことから旧恩を感じていた。
そのため、羊琇は禁兵を管理して十余年にわたって機密に関与しており、武帝の恩寵を恃んで驕慢自大になり、しばしば法も犯していくようになっていた。
劉毅は羊琇の罪も弾劾して死刑に処すべきだと上奏した。
これに対して武帝は司馬攸を派遣して劉毅を訪ねさせ、個人的に羊琇の命乞いをした。流石の劉毅もこれに同意した。
ところが都官従事・広平の人・程衛が直接、護軍営に馳せ入り、羊琇の属吏を逮捕して、拷問によって陰私(隠していること)を聞きだした。程衛は先に羊琇が犯した放縦な行為を上奏し、その後、劉毅に報告した。
武帝はやむなく羊琇の官を免じたが、何日も経たずにまた庶民の身分のまま職務を行わせた。
このように信頼され配慮されている羊琇であるが、当時、有名な人物の一人であった。
武帝の伯父である司馬師の妻であった景献皇后の従父弟である羊琇と武帝の母・文明皇后の弟の後将軍・王愷、元司徒・楽陵公・石苞の息子である散騎常侍・石崇の三人は財が豊かで、互いに奢侈の程度を競っていた。
王愷が水飴で釜を洗うと、石崇は薪の代わりに蠟を使った。「蠟」は「蜜滓(蜂蜜の沈殿物)」であると言われている。
王愷が紫絲(紫の絹糸)で四十里にわたる歩障を作ると、石崇は錦で五十里にわたる歩障を作った。
「歩障」とは貴人が外出する際、風や砂塵を避けるために使う幕のことである。四十里、五十里のものを作ったとあるが、歩行に邪魔なだけであろう。
石崇が椒(花椒)で家屋を塗ると、王愷は壁を塗るのに赤石脂(薬として使われる赤い土)を使った。
武帝はいつも王愷を助けており、高さが二尺ほどある珊瑚樹を下賜したこともあった。王愷がそれを石崇に見せると、石崇はすぐに鉄如意(鉄の孫の手)で砕いた。
「何をするか」
王愷は怒って石崇が自分の宝を妬んだのだと思ったが、石崇はこう言った。
「それほど残念がるには足りません。今、卿にお返ししましょう」
石祟が左右の者に命じて家の珊瑚樹を全て持ってこさせると、高さ三、四尺の物が六、七株あり、王愷が比べたような自慢した物に至っては甚だ多数あったため、王愷は怳然自失したという。
まだ、天下統一を果たしたばかりでありながら、貴族たちは贅沢三昧な生活を送っていた。これが今の王朝の姿であった。
これに対して、車騎司馬・傅咸が上書した。
「先王が天下を治めた時は、食肉衣帛(肉を食べたり絹を着ること)に皆それぞれの制がございました。心中で思うに、奢侈の費(奢侈がもたらす浪費の害悪)は天災よりも甚だしいものです。古は人が多くて土地が狭かったのに、蓄えがありました。これは節倹だったためです。今は土地が広くて人が少ないのに、足りないことを患いています。これは奢侈だからです。人々が倹約を貴ぶようにさせたいならば、奢侈を譴責するべきです。奢侈が譴責されることなく、逆にそれを崇め貴んだら、際限がなくなります」
しかしながらこれに武帝は聞き入れなかった。




