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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第五章 南北の激闘
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日月の食

蛇足伝も更新しました。

 364年


 東晋の哀帝・司馬丕しばひはかねてから黄老(道家の思想)を好み、方士の言を信じていたため、穀物を断って薬を服食することで長生を求めた。


 侍中・高崧こうしょうが諫めて、


「これは帝王が為すべきことではありません。陛下のこの事は、実に日月の食です」


「日月の食」とは日食や月食を指し、君子の過失を意味する言葉である。『論語』の子貢の言葉が元で、


「君子の過失とは、日月の食のようなものです。過ちを犯したら、人々が皆それを見ます。過ちを改めたら、人々が皆それを仰ぎ慕います」


 という言葉が元である。


 しかしながら哀帝は聴き入れなかった。


 数日後、哀帝は長生の薬を過度に服食したため、毒に中って薬発(薬物による発作)し、自ら万機に臨むことができなくなった。


 幼少の頃の穆帝の代わりに朝廷で政治を担っていた褚太后が再び朝廷に臨んで摂政するようになった。


 四月、前燕の李洪りこうが許昌と汝南を攻め、懸瓠で東晋兵を敗った。潁川太守・李福りふくが戦死し、汝南太守・朱斌しゅふは寿春に奔り、陳郡太守・朱輔しゅほは退いて彭城を守った。


 大司馬・桓温かんおんはこれを受け、西中郎将・袁真えんしんらを派遣して前燕を防がせ、桓温自らも舟師を率いて合肥に駐屯した。


 燕人はそのまま許昌、汝南、陳郡を攻略し、一万余戸を幽・冀二州に遷した。また、鎮南将軍・慕容塵ぼようじんを派遣して許昌に駐屯させた。


 東晋が揚州刺史・王述おうじゅつを尚書令・衛将軍に任命し、大司馬・桓温に揚州牧・録尚書事を加えた。そして侍中を派遣して桓温を諭し、入朝して政事に参与させようとしたが、桓温は従わず、辞退して入相(入朝して政事を輔佐すること)しなかった。


 王述が官職を授かった時は、いつも虚譲(虚飾による謙譲)することなく、一度辞退したら必ず受け入れなかった。


 尚書令に任命されると、子の王坦之が王述にこう告げた。


「前例によるなら、謙譲するべきです」


 王述が問うた。


「汝は私が尚書令の任に堪えられないと思うのか?」


 王坦之は首を振り、


「違います。ただ、謙譲できるというのは、元々美事だからそうするのです」


 と言うと王述はこう言った。


「任に堪えられると判断しながら、なぜまた謙譲するのだ。人は汝が私より優れていると言うが、間違いなく汝は私に及ばない」


 七月、東晋が詔を発し、再び大司馬・桓温を召還して入朝させた。


 八月、桓温が赭圻に至ったが、朝廷は尚書・車灌しゃかんに詔して桓温を止めさせた。桓温は赭圻に築城してそこに住み、内録の任は固く謙譲して、揚州牧を遥領(官位だけ拝命して実際の任務には就かないこと)した。


 










 前燕の太宰・慕容恪ぼようかくが洛陽を取ろうと考え、まず人を派遣して士民を帰順することを受け入れる旨を出した。


 その結果、遠近の諸塢が皆、帰順したので、司馬・悦希えつきを盟津に駐軍させ、豫州刺史・孫興そんよを成皋に駐軍させた。


 東晋の沈充の子・沈勁しんけいは、父が逆乱によって死んだので、功を立てることで旧恥を雪ごうと志していたが、三十余歳になっても、刑家(刑を受けた家の者)だったため、仕官できずにいた。


 呉興太守・王胡之おうこしが司州刺史になると、上書して沈勁の能力と品行を称え、禁錮を解いて自分の府事に参与させる許可を請うた。朝廷はこれに同意したが、ちょうど王胡之が病を患ったため、実行できなかった。


「なんという不運か」


 彼は天に向かってそう嘆いた。


 そんな中、前燕が洛陽に迫ってきた。冠軍将軍・陳祐ちんゆうが洛陽を守っていたが、その兵の数はわずか二千しかいなかった。


「今こそ、志を為す時だ」


 沈勁はこれを機に自ら上表し、陳祐の下に配されて尽力する機会を求めた。


 そこで、朝廷は詔を発して沈勁を補冠軍長史とし、自分で壮士を募るように命じた。沈勁は千余人を得て出発した。


 沈勁はしばしば少数の兵で前燕の軍を撃ち、撃破するなど奮闘したが、洛陽の食糧が尽きて援軍も途絶えるようになった。


 そのため九月、陳祐は洛陽を守ることができないと判断し、許昌を救うという名目で兵を率いて東に向かい、沈勁を留めて五百人で洛陽を守らせた。


 沈勁は喜んでこう言った。


「私の志は命を棄てることを欲しており、今、その機会を得ることができました」


 陳祐は許昌が既に陥落したと聞いて新城に奔った。


 前燕の悦希が兵を率いて河南の諸城を攻略し、全て奪った。









 前秦の汝南公・苻騰ふとうが謀反して誅に伏した。


 苻騰は秦主・苻生(故前秦帝)の弟である。当時、苻生の弟は晋公・苻柳ふりょう等、まだ五人いた。


 そこで王猛おうもうが前秦の天王・苻堅ふけんに、


「五公を除かなければ、最後は必ず患いとなります」


 と進言したが、天王は従わなかった。


「甘い……甘すぎる……」


 王猛は一人、そう呟いた。


 その後、前秦の天王が公国に対してそれぞれ三卿を置くように命じ、他の官と併せて全て各国が自分で招聘・採用することを許可した。但し、郎中令だけは中央が置くことにした。


 富商の趙掇ちょうたつらは車服が僭侈(身分を越えて奢侈なこと)であったが、諸公が競って彼らを招き、卿にした。


 黄門侍郎・安定の人・程憲ていけんが天王に進言してこのような状況を正すように請うた。


 そこで、天王が詔を下してこう称した。


「本来は諸公に英儒(優れた儒士)を招聘・選抜させようと欲したが、かえってこのように混乱させてしまうとは。官員に調査追求させて、招聘した対象が相応しい者でなかったら、全て爵位を落として侯にすべきである。今からは、各国の官員は皆、銓衡(部尚書)に委ねる。また命士(爵位官爵を受けた士人)以上の者でなければ、車馬に乗ってはならず、京師を去って百里以内の地では、工商や皁隸(身分が低い者)は金銀・錦繍を着てはならない。犯した者は棄市に処す」


 こうして、平陽、平昌、九江、陳留、安楽の五公が爵位を侯に落とされた。



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