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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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晋の相国

 趙王・司馬倫しばりん孫秀そんしゅう賈南風かなんふうを討つため計画を右衛佽飛督・閭和りょろに告げた。閻和はこれに従い、癸巳(初三日)の丙夜一籌(『資治通鑑』胡三省注によると、「三更一点」で、「三更」は夜十一時から一時の間のこと、「点」は一更を五等分した時間の単位のことである)を約束の時間にして、鼓声を合図に応じることにした。


 癸巳(初三日)、孫秀が司馬雅しばがを派遣して張華ちょうかにこう伝えさせた。


「趙王はあなた様と共に社稷を正して天下のために害を除きたいと欲しており、私にこれを告げさせました」


 ところが張華が拒否したため、司馬雅は怒り、


「刃が頸に迫っているのに、まだそのようなことを言っておられるのか」


 と言い、振り返らずに出て行った。


 約束の時間になると、司馬倫は矯詔(偽りの詔)によって三部司馬に勅令を下した。


「中宮と賈謐かひつらが我が太子を殺したので、今、車騎(『資治通鑑』胡三省注によると、司馬倫は車騎将軍・領右軍将軍)を宮内に入れて中宮を廃させる。汝らは皆、命に従うべきであり、事が終わったら、爵を下賜して関中侯にしよう。従わない者は三族を誅す」


 衆人は皆これに従った。


 司馬倫は更に矯詔によって門を開かせ、夜の間に入宮し、宮中の御道の南に兵を並べた。


 その後、翊軍校尉・斉王・司馬冏しばけいを派遣して百人を指揮させ、門を推し開けて中に入らせた。華林令・駱休らくきゅうが内応して西晋の恵帝・司馬衷しばちゅうを迎え、東堂に行幸させた。


 続けて詔によって、賈謐を殿前に招いて誅殺しようとした。賈謐は走って西鍾の下に入り、


「阿后(皇后)よ、私を助けてくれ」


 と叫んだが、その場で殺された。


 賈南風は侵入してきた斉王・司馬冏を見て、驚いて問うた。


「あなたは何のために来たのですか?」


 司馬冏は淡々と、


「詔によって后を捕えに来たのです」


 と言い、彼女に迫った。


 賈南風が激高し、


「詔は私から出されるものです。どこの詔ですか」


 と、言い彼女は上閤(宮門の一つ)に至ると遠くから恵帝に向かって叫んだ。


「陛下には妻がおり、今、人にそれを廃させましたが、後に自分を廃すことにもなることでしょう」


 この時、梁王・司馬肜しばとうも謀に関与していた。賈南風が司馬冏に問うた。


「事を起こしたのは誰ですか?」


「梁王と趙王です」


 それを聞き、彼女はため息をつき、


「狗を繋ぐには頸を繋ぐべきなのに、逆に尾を繋いでいた。どうしてこうならずにいられたでしょうか」


 こうして賈南風は廃されて庶人になり、建始殿に幽閉された。趙粲ちょうさん賈午かごらも逮捕されて暴室に送られ、査問・拷問を受けた。


 司馬倫が恵帝に詔を出させて、尚書に賈氏の親党を捕えさせた。また、中書監、侍中、黄門侍郎、八座(六曹尚書と尚書令、尚書僕射)を全て夜の間に入殿させた。


 尚書は始め詔が偽物ではないかと疑い、郎・師景しけいが上奏文を提出して手詔(皇帝直筆の詔)を求めたが、司馬倫らは師景を斬って見せしめにした。


 司馬倫は秘かに孫秀と簒位について謀り、まず朝廷で声望がある者を除き、あわせて宿怨(以前からの怨み)に報いたいと思い、張華、裴頠はいぎ解系かいけい解結かいけつらを捕えて殿前に連れて来させた。


 囚われた張華が自分を捕らえた張林ちょうりんに問うた。


「汝は忠臣を害したいのか?」


 張林は詔と称して張華を詰問し、こう言った。


「あなたは宰相となったのに、太子の廃位において、死節を守ることができなかった。なぜでしょうか?」


 張華はこう答えた。


「式乾の議(式乾殿での議論)における臣の諫事(諫言の内容)は全て存在しており、調べ直すことができる」


 太子の廃位において何もしなかったわけではないということである。それに対して張林はこう言った。


「諫めても従わなかったのに、なぜ位を去らなかったのですか?」


 張華は返す言葉がなかった。


 捕まった者は皆斬られ、更に三族を皆殺しにされた。


 解結の娘は裴氏に嫁入りすることになっており、翌日、嫁ぐはずだったが、禍が起いた。裴氏は親族と認めることで活かそうとしたが、解結の娘は、


「家が既にこのようになってしまったのに、私だけ活きてどうするというのですか」


 と言い、連座して死んだ。


 この事があったため、朝廷は議論して旧制を改定し、娘は父母の罪に連座して死ぬ必要がないということにした。


 四月、司馬倫は端門(皇宮の正南の門を端門という)に坐り、尚書・和郁わいくを派遣して、符節を持って賈南風を金墉に送らせ、劉振りゅうしん董猛とうもう孫慮そんりょ程據ていきょらを誅殺した。


 司徒・王戎おうじゅうをはじめ、内外の官員で、張・裴の親党として罪に坐し、罷免された者が甚だ多数いた。


 閻纘えんせきが張華の死体を撫でて慟哭し、こう言った。


「早くから君に遜位(辞職)について語っていたのに君は同意せず、果たして今、禍から免れられなかった。天命と言うしかあるまい」


 趙王・司馬倫は矯詔によって天下に大赦し、自ら使持節・都督中外諸軍事・相国・侍中となり、全て宣・文(司馬懿と司馬昭)が魏を輔佐した故事に則り、府兵一万人を置いた。


 丞相と相国は秦が置いた官で、晋が魏から禅譲を受けてからは、どちらも置かれてはいなかった。しかし恵帝以後は廃されたり置かれたりするようになり、趙王・司馬倫、梁王・司馬肜、成都王・司馬穎しばえい、南陽王・司馬保しばほ王敦おうとん王導おうどうといった者達が任に就くようになる。


 かつて、司馬懿が丞相として魏を輔佐し、司馬昭が相国として魏を輔佐したため、司馬倫もそれに倣い自ら相国となったが、本来、どちらも人臣の職ではない。彼の野心はこれだけでもわかるのである。


 司馬倫の後嗣・散騎常侍・司馬荂しばかに冗従僕射を兼任させ、子の司馬馥しばふくを前将軍に任命して済陽王に封じ、司馬虔しばぎょを黄門郎に任命して汝陰王に封じ、司馬詡しばよくを散騎侍郎に任命して霸城侯に封じた。


 孫秀らは皆、大郡に封じられ、並んで兵権を握った。文武の官で封侯された者は数千人に上り、百官は自分の職責を主持して司馬倫の指示を聴くことになった。


 しかしながら司馬倫は元々凡庸暗愚で、書物を読むことさえできなかった。そんな彼に政治をまともにできるはずがなく、孫秀に制されるようになった。


 孫秀は中書令になり、威権が朝廷を振るわせた。天下は皆、孫秀に仕えて、司馬倫には指示を求めないようになっていった。


 恵帝、または司馬倫が詔を発し、故太子・司馬遹の位号を恢復した。


 尚書・和郁を派遣し、東宮の官属を率いて許昌から太子の喪(霊柩)を迎えさせた。


 司馬遹の子・司馬虨を追封して南陽王とし、司馬虨の弟・司馬臧しばぞうを臨淮王に、司馬尚しばしょうを襄陽王に封じた。

 

 官員が上奏した。


「尚書令・王衍おうえんは位を大臣に備えながら、太子が誣を被った時、禍から免れようとするばかりで、太子が王妃に書を送って誣告・冤罪を訴えた際、王衍は報告しようとしませんでした。終生禁錮することを請います」


 恵帝はこれに従った。


 相国・司馬倫は人望を収めようと欲したため、海内の名徳の士を選んで用い、前平陽太守・李重りじょうと滎陽太守・荀組じゅんしょを左・右長史に、東平の人・王堪おうじんと沛国の人・劉謨りゅうたんを左・右司馬に、尚書郎・陽平の人・束晳そくせきを記室に、淮南王の文学・荀崧じゅんしょうと殿中郎・陸機りくきを参軍にした。


 この中の束晳は前漢の太子太傅・疎広の後代である。疎広の曾孫が難を避けるために「疎」の字から「足」をとり、「束」氏に改めたという。


 荀組は荀勗(晋初の功臣)の子、荀崧は荀彧(曹操の謀臣)の玄孫である。


 李重は司馬倫に異志があると知り、病を理由に辞退して官位に就こうとしなかった。しかし司馬倫の無理強いが止まないため、憂憤して本当に病気になり、抱きかかえられてなんとか拝命したが、数日後に死んでしまった。


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