姚襄
357年
正月、東晋の穆帝・司馬聃が元服し、太廟に報告した。
皇太后・褚氏が詔を発して政事を奉還し、穆帝が始めて自ら万機に臨んだ。大赦して升平元年に改元し、文武百官の位を一等増やした。
皇太后は崇徳宮に遷って生活することになった。
扶南の竺旃檀が東晋に馴象(訓練された象)を献上した。しかし穆帝は詔を発してこう言った。
「昔、先帝は、異域の異獣が、あるいは人患を為すこともあるので、これを禁じた。今回もそれが到着する前に、本土に還らせるべきである」
太白が東井(井宿)に入った。
前秦の官員が上奏した。
「太白は罰星であり、東井は秦の分(分野)です。必ず京師で暴兵が起きましょう」
しかし前秦帝・苻生はこう言った。
「太白が井(井戸)に入ったのは、自分の喉が渇いたからに過ぎない。何を怪しむ必要があるのか」
その頃、姚襄が関中を図ろうとした。
四月、姚襄が北屈から兵を進めて杏城に駐屯し、輔国将軍・姚蘭を派遣して敷城を攻略させ、曜武将軍・姚益生と左将軍・王欽盧にそれぞれ兵を率いて諸羌・胡を懐柔させた。因みに姚蘭は姚襄の従兄で、姚益生は姚襄の兄である。
羌・胡および前秦の民で帰順した者が五万余戸に上った。
前秦の将・苻飛龍が姚蘭を撃って彼を捕えた。しかし、姚襄も兵を率いて前進し、黄落を占拠した。
前秦帝は衛大将軍・広平王・苻黄眉、平北将軍・苻道、龍驤将軍・東海王・苻堅、建節将軍・鄧羌を派遣し、歩騎一万五千を率いて防がせた。
これに対し、姚襄は守りを堅めて戦おうとしなかった。
鄧羌が苻黄眉に言った。
「姚襄は桓温と張平に敗れたので、鋭気を喪っています。しかしその為人は強狠(剛強で好戦的なこと)なので、もし鼓譟(戦鼓を鳴らして喚声を上げること)して旗を掲げ、直接、その塁に迫れば、彼は必ず憤怒して出てくることでしょう。そうなれば、一戦するだけで擒にできましょう」
五月、鄧羌は騎兵三千を率いて姚襄の塁門に迫り、そこで堂々と陣を構えて挑発した。姚襄は、
「連中め、私に勇気が無いと思っているのか」
怒って全ての兵を出撃させた。
鄧羌は勝てないふりをして逃走し、姚襄がそれを追って三原に至った。すると鄧羌が騎兵の向きを変えて姚襄を撃ち、苻黄眉らも大軍を率いて後から到着した。姚襄の兵はこれにより、大敗を喫した。
姚襄は黧眉騧(「黧」は黄色を帯びた黒。「騧」は全身が黄色で口が黒い馬)という駿馬に乗っていたが、この時、黧眉騧が倒れてしまい、姚襄は投げ出された。
「これが天命か」
地面を転げまわり、倒れ込んだ姚襄に前秦の兵が襲い掛かり、斬り殺した。
「兄上が死んだだと」
姚襄の弟・姚萇は乱戦の中、それを知り嘆いた。
「どうなさすか?」
配下がそう問いかける。
「降伏するしかあるまい、兄上の兵をこれ以上減らすわけにはいかない」
彼はそう言って兵を率いて投降した。
姚襄は父・姚弋仲の棺を軍中に置いていた。前秦帝は王礼を用いて姚弋仲を孤磐に埋葬した。また、公礼を用いて姚襄を埋葬した。
勝利した苻黄眉らが長安に還ったが、前秦帝は褒賞せず、逆に大衆の前でしばしば苻黄眉を辱しめた
苻黄眉は怒って前秦帝の弑殺を謀ったが、発覚して誅に伏した。この事件は王公・親戚を巻き込み、死者が甚だ多数に上ったという。
前燕の景昭帝・慕容儁が幽州刺史・乙逸を召して左光禄大夫に任命した。
乙逸夫婦は共に鹿車(鹿が一頭しか乗らない程度の小さな車)に乗っていたが、道中で奉迎した子の乙璋は数十騎を従えており、服飾も甚だ美麗であった。このことに乙逸は大怒して、車を閉じたまま会話をしなかった。
薊城に至ってから、乙逸が乙璋を深く譴責したが、乙璋は反省しなかった。
乙逸は常に乙璋が失敗することになるのではないかと憂いていたが、乙璋は逆に抜擢されて、中書令や御史中丞を歴任するようになった。
このことに乙逸は嘆いた。
「私は若い頃から修身立志し、自分に厳しくして道を守ってきたから、なんとか罪を免れることができた。璋は節倹を治めず、専ら奢侈・放縦を為しており、しかも清顕(政務は複雑ではないのに、顕貴で重要な地位)に居る。これは璋だけににとっては忝幸(もったいない幸運)であっても、実は世道を衰落させることになるのではないか」
前燕の景昭帝は撫軍将軍・慕容垂、中軍将軍・慕容虔、護軍将軍・慕容平熙を派遣し、歩騎八万を率いて塞北の敕勒を攻撃させた。
慕容垂らが敕勒を大いに破り、十余万人を捕獲にして、馬十三万頭と牛羊億万頭を獲た。
この結果を受け、匈奴単于・賀頼頭(賀頼が氏)が部落三万五千口を率いて前燕に降った。燕人は彼らを代郡平舒城に住ませた。




