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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第五章 南北の激闘
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張祚

 後趙の末年に、楽陵の人・朱禿しゅしゅう、平原の人・杜能とのう、清河の人・丁嬈ていでう、陽平の人・孫元そんげんがそれぞれ兵を擁し、分かれて城邑を占拠していたが、この頃になって、全て前燕に投降を請うた。


 前燕の景昭帝・慕容儁ぼようしゅんは朱禿を青州刺史に、杜能を平原太守に、丁嬈を立節将軍に、孫元を兗州刺史に任命し、それぞれの営に留めて慰撫した。


 前燕の衛将軍・慕容恪ぼようかく、撫軍将軍・慕容軍ぼようぐん、左将軍・慕容彪ぼようひょうらが、しばしば、


「給事黄門侍郎・慕容霸ぼようは(後に「慕容垂」に改名する)には命世の才があるので大任を総領させるべきだ」


 と推挙した。


 この年、景昭帝は慕容霸を使持節・安東将軍・北冀州刺史に任命して、常山を鎮守させた。








 その頃、前涼の張重華ちょうちゅうかが病を患った。子の張曜霊ちょうようれいはまだ十歳という若さであったが、世子に立てられた。


 張重華の庶兄に当たる長寧侯・張祚ちょうそは、勇力と政事の才能があり、しかも狡猾で内外の事にうまく対処し、張重華の嬖臣・趙長ちょうちょう尉緝うつしゅうらと異姓兄弟の関係を結んでいた。


 都尉・常據じょうきょが張祚を外に出すように請うたが、張重華はこう言った。


「私はまさに祚を周公にして幼子を輔佐させようとしているのだ。君は何を言うのだ」


 謝艾しゃがいは枹罕の功によって張重華に寵信されていた。しかし、左右の者が嫉妬して謝艾を讒言したため、張重華は謝艾を外に出して酒泉太守に任命した。


 張重華が病を患うと謝艾が上書してこう伝えた。


「権倖(権勢があって主君に寵任されている奸臣)が政事を行っているので、やがて公室が危うくなります。私の入侍が許可されることを乞います」


 また、あわせてこう言った。


「長寧侯・張祚および趙長らはもうすぐ乱を為します。ことごとく駆逐すべきです」


 十一月、張重華の病が甚だ重くなった。そこで、手令(直筆の命令書)によって謝艾を招き、衛将軍・監中外諸軍事に任命して輔政させることにした。ところが張祚、趙長らはこれを隠して宣布しなかった。


 数日後、張重華は世を去った。世子・張曜霊が立って大司馬・涼州刺史・西平公を称した。


 趙長らは張重華の遺令と偽って、長寧侯・張祚を都督中外諸軍事・撫軍大将軍に任命し、輔政を命じた。


 前涼の右長史・趙長らが建議してこう主張した。


「当今の難はまだ平定されていないので、年長の君を立てるべきです。曜霊は幼少なので、長寧侯・祚を立てることを請います」


 張祚は以前から張重華の母・馬氏の寵愛を得ていたため、馬氏がこの意見に同意した。


 こうして、張曜霊は廃されて涼寧侯になり、張祚が大都督・大将軍・涼州牧・涼公に立てられた。


 張祚は志を得ると淫虐をほしいままにするようになり、張重華の妃・裴氏や謝艾を殺した。








 前秦の丞相・苻雄ふゆうが池陽を攻略して孔持を斬った。


 十二月、清河王・苻法ふほう苻飛ふひが鄠を攻略し、劉珍りゅうちん夏侯顕かこうけんを斬った。


 その頃、東晋の殷浩いんこうは部将・劉啓りゅうけい王彬之おうぼうしに山桑の姚益ようえきを攻撃させた。しかし、姚襄ようじょうが淮南から東晋軍を撃ち、劉啓と王彬之はどちらも敗死した。


 因みに劉啓は劉輿(西晋の臣)の孫である。


 姚襄は兵を進めて芍陂を占拠し、そのまま淮水を渡って盱眙に駐屯し、流民を招掠(招いたり奪うこと)した。その衆は七万人に上ったという。


 その後、姚襄は守宰を分置し、農業を奨励・監督した。


 彼は律儀なところがあり、使者を建康に派遣して殷浩の罪状を述べると共に併せて混乱を招いたことを自ら陳謝した。


 東晋朝廷は詔を発して謝尚しゃしょうを都督江西淮南諸軍事・豫州刺史に任命し、歴陽を鎮守させた。


 謝尚は姚襄の歓心を得ていたため、朝廷は謝尚に姚襄を招撫させ、同時に備えとしたのである。









 354年


 張祚が自ら涼王を称し、建興四十二年から和平元年に改めた。


 張祚は妻の辛氏を王后に、子の張太和ちょうたいわを太子に立てた。また、弟の張天錫ちょうてんしを長寧侯に、子の張庭堅ちょうていけんを建康侯に、張曜霊ちょうようれいの弟・張玄靚ちょうげんせいを涼武侯に封じ、百官を置いた。


 更に天地の郊祀を行い、天子の礼楽を用いた。


 張祚による一連の行動に対して、尚書・馬岌ばきゅうが切諫したが、罪に坐して免官された。郎中・丁琪ていきが更に諫めて言った。


「我々は武公(張軌の諡号)以来、代々臣節を守り、忠誠を抱いて謙譲を実行し、五十余年になります。だから一州の衆によって全国の敵に対抗することができ、軍を毎年起こしても、民が疲労を告げなかったのです。殿下の勲徳はまだ先公ほど高くありません。それなのに、急いで革命(天命を改めること。帝王の位に即くこと)を謀るとは、私には正しい事には見えません。彼ら士民が命に従っており、四遠が帰心しているのは、我々なら晋室を奉じることができるからです。今、あなたは自ら尊位に即きましたが、中外が離心してしまうので、どうして一隅の地をもって天下の強敵を拒むことができるでしょうか」


 張祚は大いに怒って闕下で丁琪を斬った。


 このことに対し、胡三省は、


「古より諫臣を殺戮して亡びなかった者はいない」


 と苦言を述べている。


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