輔車の理
353年
前涼の張重華が将軍・張弘と宋修を派遣して王擢と合流させ、歩騎一万五千を率いて前秦へ侵攻させた。
前秦の丞相・苻雄と衛将軍・苻菁がこれを拒み、龍黎で前涼の兵を大いに敗った。一万二千級を斬首して、張弘と宋修を捕虜にした。
王擢は秦州を棄てて姑臧に奔った。
前秦の景明帝・苻健は領軍将軍・苻願を秦州刺史に任命して上邽を鎮守させた。
張重華は再び王擢を派遣し、兵・二万を率いて上邽を伐たせた。秦州の多数の郡県がこれに応じた。苻願は戦って敗れ、長安に奔った。
張重華はこの機に東晋に上書して前秦討伐の許可を請うた。すると東晋は詔を発して張重華の位を涼州刺史から涼州牧に進めた。
前燕の景昭帝・慕容儁は後趙の衛尉だった常山の人・李犢が数千人の兵を集めて前燕に叛したため、衛将軍・慕容恪を派遣して李犢を討たせた。
李犢が投降したので、慕容恪はそのまま東に向かって魯口の呂護を撃った。
六月、前秦の苻飛が仇池の氐王(仇池公)・楊初を攻めたが、楊初が険阻な地を拠点にして前秦に対抗したため、前秦軍は敗れた。
そんな中、前秦の丞相・苻雄と平昌王・苻菁が歩騎・四万を率いて隴東に駐屯した。
景明帝が張遇の継母・韓氏を娶って昭儀にした。景明帝はしばしば衆人の中で張遇に、
「あなたは私の假子だ(「假子」は養子や義理の子を指す)」
と言っており、張遇はこれを恥じとした。
そこで張遇は、苻雄ら精兵が外に出た機会に、秘かに関中の豪傑と結び、苻氏を滅ぼしてからその地を挙げて東晋に投降しようと欲した。
七月、張遇が黄門・劉晃と謀り、夜、景明帝を襲うことにした。劉晃は門を開いて張遇を待つと約束した。
ところが、ちょうど景明帝が劉晃を外出するよう命令を出した。劉晃は固辞したが、やむなく外に出た。
張遇はそれを知らず、兵を率いて門に至ったが、結局、門は開かず、事が発覚して誅に伏した。
この事件がきっかけで、孔持が池陽で挙兵し、劉珍と夏侯顕が鄠で挙兵し、喬秉が雍で挙兵し、胡陽赤が司竹で挙兵し、呼延毒が灞城で挙兵した。その数は数万人に上り、それぞれが東晋に使者を派遣して兵を請うた。
それを受けて九月、前秦の丞相・苻雄は兵・二万を率いて長安に還った。
平昌王・苻菁を派遣して上洛を攻略させ、豊陽川に荊州を置き、歩兵校尉・金城の人・郭敬を刺史にした。
苻雄は清河王・苻法および苻飛と共に兵を分けて孔持らを討った。
姚襄は歴陽に駐屯していたが、前燕と前秦がまさに強盛な時だったため、北伐の志は抱かず、淮水を挟んで広く屯田を興し、将士の訓練に勤めていた。
寿春にいる殷浩は姚襄の強盛を嫌っていたため、姚襄の諸弟を幽囚し、しかもしばしば刺客を送って姚襄を刺殺しようとした。しかし姚襄には不思議な魅力があるのか刺客は皆、その状況を姚襄に告げた。
安北将軍・魏統が死に、弟の魏憬が代わって彼の配下を統領した。
殷浩は秘かに魏憬を派遣し、五千の兵を率いて姚襄を襲わせたが、逆に姚襄が魏憬を斬ってその兵を併せてしまった。
殷浩はますます姚襄を憎み、龍驤将軍・劉啓に譙を守らせてから、姚襄を梁国の蠡台に遷し、上表して梁国内史の任を授けた。
魏憬の子弟がしばしば寿春との間を往来していたため、姚襄はますます猜疑と懼れを抱き、参軍・権翼を使者にして殷浩に派遣した。
殷浩が権翼に言った。
「この身は姚平北と共に王臣となり、歓喜と憂愁を同じくしている。しかし姚平北はいつも挙動が勝手で、甚だしく輔車の理を失っている。このような状況は、どうして我々が望んでいることだろうか」
「輔車」は頬と歯茎の関係、または車体の添え板と車体の関係のことを指す。つまり「輔車の理」とは互いに助けあうという道理のことである
権翼はこう言った。
「姚平北は英姿が絶世で、数万の兵を擁していました。それなのに、遠く晋室に帰順したのは、朝廷に道があって、宰輔が明哲であるとみなしたためです。今、将軍は軽率に讒慝の言を信じており、姚平北との間に対立がありますが、愚見によるならば、猜嫌の発端はここにあり、彼にはありません」
殷浩はなおもこう言った。
「姚平北は品行が豪邁で、生殺を自由に行い、また、小人を放って我々の馬を略奪させた。王臣の姿とは、もとよりこのようなものなのか?」
権翼は答えた。
「姚平北は聖朝に命を帰順しました。どうして妄りに無辜を殺すことができるでしょうか。王法も許容しない姦悪な者を殺して、何の害があるのですか」
殷浩は続ける。
「それでは、馬を略奪したのはなぜだ」
権翼はその質問にも答える。
「将軍は姚平北が雄武で制御が難しいと考えており、最後は姚平北を討とうとされているため、姚平北は馬を取って自衛しようと欲しただけです」
殷浩は笑って、
「そのようになることはない」
と言った。
以前、殷浩が秘かに人を派遣して見返りとして関右の任を与えることを条件に梁安と雷弱児を誘い、景明帝を殺させようとした。
雷弱児は偽って賛同し、同時に自分を迎え入れるための兵を出すように請うた。
殷浩は、張遇が乱を為し、景明帝の兄の子に当たる輔国将軍・苻黄眉が洛陽から西に奔ったと聞いて、梁安らの事が成功したと判断した。
十月、殷浩が寿春を発ち、七万の兵を率いて北伐を開始した。兵を進めて洛陽を占拠し、園陵を修復しようと欲した。
吏部尚書・王彪之が会稽王・司馬昱に書を提出して、
「雷弱児らには、詐偽があるように思います。殷浩はまだ軽率に進むべきではありません」
と主張したが、司馬昱は従わなかった。
殷浩は姚襄を前駆に任命した。命令を受け、姚襄は兵を率いて北行すると、
「あそこまで疑われてなおも従うほど私は良い者ではない」
彼は殷浩が到着する時を計って、夜の間に兵に偽りの遁走をさせ、秘かに甲兵を伏せて待機させた。
殷浩は姚襄の兵が遁走したと聞くと、姚襄を追って山桑に至った。
「今だ」
姚襄が兵を放って殷浩の軍に襲い掛かった。殷浩は大敗して、輜重を棄てて走り、譙城を守った。姚襄は一万余人を捕獲・斬首し、殷浩の資財を全て回収してから、兄の姚益に山桑を守らせ、再び淮南に入った。
「殷浩は私が輔車の理を失っていると申したが、その理は信頼が無ければ為せないのではないのか。なあ殷浩よ」
彼はそう言ってため息をついた。
この状況を知った司馬昱が王彪之に言った。
「君の言は中らないことがない。張・陳(前漢の張良と陳平)でも君を越えられないだろう」
どんな優れた進言も受け入れられなければ、意味をなさない。司馬昱は優れた意見を取り入れ、決断する力に欠けていると言えるだろう。