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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第五章 南北の激闘
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前燕の建国

 以前、東晋の謝尚しゃしょう戴施たいしに枋頭を占拠させた。


 戴施は冉魏の蒋幹しょうかんが救援を求めていると聞いて、倉垣から棘津に移って駐屯し、蒋幹の使者・繆嵩ぼくすう劉猗りゅうきを留めて伝国の璽を求めた。


 劉猗は繆嵩を鄴に還らせて蒋幹にこの事を報告した。しかし蒋幹は謝尚が鄴を救援できないのではないかと疑い、伝国の璽を与えるかどうか躊躇して決断できなかった。


 六月、戴施が壮士百余人を率いて鄴に入り、蒋幹を助けて三台を守った。


 戴施が偽って言った。


「今は燕寇が外におり、道路が通じていないので、敢えて璽を送ることはできない。あなたはとりあえずそれを出して私に預けよ。私が馳せて天子に報告しようではないか。璽が私の所にあると天子が聞いたら、あなたの至誠を信じ、必ずや兵糧を多く発して援助するだろう」


 これを信じた蒋幹は璽を出して戴施に預けた。


 戴施は督護・何融かゆうに食糧を迎え入れさせると宣言してから、秘かに何融に命じて、璽を隠し持って枋頭に送らせた。


 江南がまだ璽を得る前、中原の人々は東晋の皇帝を「白版天子」と呼んでいた。しかしながら今回、伝国の璽がやっと晋に戻ったのである。


 蒋幹が鋭卒五千と晋兵を率いて出撃したが、前燕の慕容評ぼようひょうがこれを大破し、四千級を斬首した。


 蒋幹は危機から脱して逃走し、城に入った。


 謝尚と姚襄ようじょうが共に許昌で張遇ちょうぐうを攻めた。


 長安に戻っていた前秦の景明帝・苻健ふけんが丞相・東海王・苻雄ふゆう、衛大将軍・平昌王・苻菁ふせいを派遣し、関東の地を攻略させて、歩騎二万を率いて張遇を救援させた。

 

 両軍が潁水の誡橋で戦い、謝尚らは大敗して死者が一万五千人に上った。謝尚は奔って淮南に還った。


 この時、姚襄が輜重を棄てて謝尚を芍陂に送ったため、謝尚は後事を全て姚襄に託した。


 殷浩いんこうは謝尚が敗れたと聞くと、退いて寿春に駐屯した。これにより、殷浩による北伐が終了したことになる。


 七月、前秦の丞相・苻雄が張遇および陳・潁・許・洛の民五万余戸を関中に遷し、右衛将軍・楊群ようぐんを豫州刺史に任命して許昌を鎮守させた。




 



 王午おうごは冉魏が滅んだと聞くと、自ら安国王を称した。因みに彼と共に行動していた鄧恆とうくは既に死んでいる。


 八月、前燕王・慕容儁ぼようしゅん慕容恪ぼようかく封奕ほうえき陽騖ようおうを派遣して王午を攻めさせた。


 王午は城門を閉じて守りを固め、冉操ぜんそう(冉閔の子)を燕軍に送った。燕軍は周囲の農作物を奪い取って還った。


 そんな中、冉魏の長水校尉・馬願ばがんらが鄴の城門を開いて燕兵を入れた。


 戴施と蒋幹は縄を垂らして城壁を降り、倉垣へ奔った。


 慕容評が冉魏の后・董氏と太子・冉智ぜんち、太尉・申鍾しんしゅ、司空・條枚しゅうぼくらおよび乗輿・服御を薊に送った。


 尚書令・王簡おうかん、左僕射・張乾ちょうけん、右僕射・郎粛ろうしゅくは自殺した。


 燕王は偽って、


「董氏が伝国の璽を得て献上した」


 と称し、奉璽君の号を下賜した。また、冉智には海賓侯の爵位を下賜した。申鍾は大将軍右長史に任命した。


 慕容評に命じて鄴を鎮守させた。











 東晋の桓温かんおんが梁州刺史・司馬勳((しばくん))に命じ、益州刺史・平西将軍・周撫しゅうぶを助けて涪城の蕭敬文しょうけいぶんを討たせ、これを斬った。


 東晋の殷浩が北伐した時、右軍将軍・王羲之おうぎしが書を送って止めようとしたが、殷浩は聴き入れようとしなかった。


 結局、殷浩は北伐に失敗して功なく引き還したが、また再挙を謀った。


 王羲之が殷浩に書を送ってこう伝えた。


「今、天下の人々は自分を守ることができないのではないかと恐れて、心を寒くしています、このような状況はもとより既に久しくなっています。力によって武功を争うというのは、為すべきことではありません。最近、内外の任にいる者は、まだ深謀遠慮がないのに、根本を疲弊させて、それぞれが自分の志に従って行動し、結局、一つの功も論じることができず、ついに天下に土崩の形勢を有させています。これらの事を任された者(暗に殷浩を指している)は、どうして四海の譴責を避けることができるでしょうか。今は軍が外で破れて資源がで尽きようとしているため、淮南を守るという志は、既に力が及ばなくなっています。江南に還って長江を保ち、督将はそれぞれ旧鎮に戻して、長江より外の地は懐柔するだけとするべきです。咎を認めて自分の身を責め、改めて善政を為して、賦役を省き、民と共に新たに始めれば、転倒の危機から救うこともできるでしょう。あなたは布衣から起きて天下の重責を任され、統領の任に当たったのに、敗喪がここに至りました。恐らく、全朝廷の群賢において、あなたと批難するものばかりでしょう。前事が功を為せなかったために、再び分外(度を越えた結果)を求めるようならば、たとえ宇宙が広くてもどこに身を置くことができるでしょう。これは私の愚かな智慧では理解できないことです」


 王羲之は会稽王・司馬昱にも書を送った。


「人臣となったら、その主を尊んで、主が前世と並ぶくらい隆盛することを願わない者がいるでしょうか。得難い時運に遇った時ならなおさらです。しかし、力が及ばないところがあるようならば、どうして軽重を量らずに行動できるでしょう。今は確かに喜ぶべきではありますが、内を向いて自分を顧みたら、憂いるべきことが喜ぶべきことよりも重くなっています。功績はまだ期待できず、残った民は殲滅し、労役には際限がなく、徴収が日に日に重くなっているのに、区区とした呉越によって天下の十分の九を計画したら、滅亡の他に何を待つのでしょうか。それなのに、自分の徳も力も量らず、疲弊しなければ止めようとしない、これは国内が心を痛めて哀悼していることなのに、敢えて誠実を吐こうとする者もいません。過去は諫めることができませんが、将来は変えることができるものです(『論語』の言葉)。殿下が改めて再三思案することを願います。まずは敵が我々に勝てなくなるような基礎を作り、根が立って勢いが挙がるのを待ってから、北伐を謀っても晩くはありません。そうしなければ、鹿が遊ぶのは林や薮の中だけではなくなるでしょう。殿下が暫くは虚遠の懐(広遠すぎて実情に合わない思い)を廃すことで倒懸の急から救うことを願います。そのようにすれば、殿下は滅亡の危機をもって存続と為し、禍を転じて福と為した、ということができます」


 しかし殷浩と司馬昱は王羲之の意見に従わなかった。


 九月、殷浩は兵を率いて北伐を開始し、泗口に駐屯しました。河南太守・戴施を派遣して石門を拠点にさせ、滎陽太守・劉遯りゅうとんを派遣して倉垣を守らせた。


 殷浩は軍興(軍事行動を起こすこと。または軍用のために物資を徴収すること)を理由に、太学の生徒を解散させた。ここから学校が廃されることになった。


 十月、謝尚が冠軍将軍・王俠おうきょうを派遣して許昌を攻めさせ、攻略した。


 前秦の豫州刺史・楊群は退いて弘農に駐屯した。


 東晋朝廷は謝尚を召して給事中に任命し、石頭を守らせた。


 






 後趙の旧将で兵を擁して州郡を割拠していた者達が、それぞれ使者を派遣して燕に降った。


 燕王は王擢おうてきを益州刺史に、夔逸きょういつを秦州刺史に、張平ちょうへいを并州刺史に、李歴りれきを兗州刺史に、高昌こうしょうを安西将軍に、劉寧りゅうねいを車騎将軍に任命した。


 前秦の丞相・苻雄が隴西で東晋の秦州刺史・王擢おうてきを攻めた。王擢は逼迫して涼州に奔った。苻雄は引き還して隴東に駐屯した。


 前涼の張重華ちょうじゅうかは王擢を征虜将軍・秦州刺史に任命し、特別に寵遇した。


 慕容恪が安平に駐屯し、食糧を蓄えて攻具を整え、王午を討とうとした。


 その途上、中山の人・蘇林そりんが無極で兵を起こして天子を自称したため慕容恪は魯口から引き還して蘇林を討った。


 閏月、燕王が広威将軍・慕輿根ぼよこんを派遣し、慕容恪を助けて蘇林を攻撃させた。蘇林は斬られた。


 討伐対象だった王午はその将・秦興しんよに殺されたが、呂護りょごが秦興を殺してまた安国王を自称した。


 燕の群僚が燕王・慕容儁に対して共に尊号を進上した。慕容儁はこれに同意した。


 十一月、燕王が始めて百官を置き、国相・封奕を太尉に、左長史・陽騖を尚書令に、右司馬・皇甫真こうほしんを尚書左僕射に、典書令・張悕ちょうきを右僕射に任命します。その他の文武諸官も、それぞれの官位を拝受した。


 燕王が皇帝の位に即いて大赦した。自分が伝国の璽を獲たと称して、元璽元年に改元した。


 武宣王(慕容廆)を追尊して高祖武宣皇帝とし、文明王(慕容皝)を追尊して太祖文明皇帝とした。


 慕容儁の国は歴史上「前燕」と呼ばれており、慕容儁の諡号は「景昭帝」であるため以後、彼は前燕の景昭帝・慕容儁と記す。


 この時、東晋の使者がちょうど前燕に至った。


 景昭帝は使者にこう言った。


「汝は還って汝の天子に報告せよ。私は人々が困窮しているのを受けて、中原に推されて既に帝になった」


 景昭帝は司州を中州に改め、龍都に留台(留守中の政府)を建てて、玄菟太守・乙逸おついつを尚書に任命して留務(留台の政務)の全権を委ねた。


 

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