無視できない存在
十月、姚弋仲が使者を派遣して東晋に投降を請うた。
十一月、東晋が姚弋仲を使持節・六夷大都督・督江北諸軍事・車騎大将軍・開府儀同三司・大単于・高陵郡公にした。また、その子・姚襄を持節・平北将軍・都督并州諸軍事・并州刺史・平郷県公にした。
逄釣が逃亡して渤海に帰り、旧衆を招き集めて燕に叛した。
しかし楽陵太守・賈堅が人を送って郷人に告諭させ、成敗を示したため、逄釣の部衆は徐々に離散した。それにより、逄釣は東晋に奔った。
これ以前に、東晋の征西大将軍・桓温が石氏の乱を聞いて上書し、出兵して中原を経略する許可を請うていた。
しかしこの事に対し、長く朝廷からの回答がなかった。
「殷浩が私の邪魔をしているのか。あれに」
桓温は朝廷が殷浩に頼って自分に対抗していると知り、甚だ憤怒していたが、かねてから殷浩の為人を知っていたため、畏れることはなかった。
当時は国にこれといった禍がなかったため、桓温は朝廷や殷浩とそのままの関係を保ったまま年を経たが、連絡を取り合うだけで、八州(桓温が最初に都督した荊・司・雍・益・梁・寧の六州と後に都督を加えられた交・広の二州を指す)の士衆や資財・税収が国家のために用いられることは、ほとんどなく、独占状態であった。
十二月、桓温はしばしば北伐の許可を求めていたが、朝廷が同意しなかった。
「軟弱どもが」
痺れを切らした桓温は改めて上表してから勝手に行動を起こした。四、五万の兵を率いて北伐を開始し、流れに乗って長江を下り、武昌に駐軍した。
桓温の東下を知った朝廷は大いに懼れた。
殷浩は位から去って桓温を避けようと欲し、また、騶虞幡(進軍を止めさせる時に使う旗)を使って桓温の軍を止めさせようとした。
吏部尚書・王彪之が会稽王・司馬昱に言った。
「これらは全て殷浩自らのための計であって、社稷を保つことができる計ではなく、殿下のためになる計でもありません。もし殷浩が職を去れば、人心が離散して、天子が独坐するようになります。その際に当たったら、責任を負う者が必要になり、そのような者は殿下の他に誰がいるでしょうか」
また、殷浩にもこう言った。
「桓温がもし上奏して罪を問うようならば、あなたはその罪悪の筆頭となりましょう。このように大事を任されて、しかも対立が既に形成されたにも関わらず、匹夫になろうと欲して、どうして身を守ることができましょうか。とりあえずは静観して待つべきです。相王(司馬昱)から手書を送らせて、誠意を示し、彼のために成敗を述べれば、彼は必ず撤兵します。もしそれに従わなければ、中詔(皇帝直筆の詔)を送ります。それでも従わなければ、正義によって桓温を裁くべきです。どうして理由もなく慌てて行動し、自ら先に転覆しようとするのですか」
殷浩はこう言った。
「大事を決するというのは、誠にもともと難しいことなので、最近、私を悩ませていたが、あなたのこの謀を聞いて、始めて考えをまとめることができた」
王彪之は王彬(東晋の明帝時代、叛逆を謀る王敦を諫めた)の子である。
撫軍司馬・高崧が司馬昱に言った。
「王は書を到らせて禍福を諭すべきです。桓温は自ずから撤兵するでしょう。もし彼がそうしなかったら、すぐに六軍の車を整えます。こうすれば逆順が明確になりましょう」
高崧は席に着いて司馬昱のために桓温に送る書の草稿を書いた。
「寇難は平定すべきであり、時機には応じるべきである。このようにするのは実に国の遠図、経略の大計であり、この好機を拡大できるのは、あなたの他に誰がいるだろうか。しかし、軍を興して兵を動かすことになったら、資実(充実した物資)を根本とするべきである。輸送の難しさは、古人が難としたことであり、開始時に容易だとみなして熟慮しないというわけにはいかない。あなたの出兵に躊躇しているのは、ただこれだけが原因である。ところが、あなたの出兵あったので、衆人が驚くこととなっており、あなたも流言や議論を少しは聞いていると思う。人とは失うことを患いたら、何でもするものだ(『論語』の言葉)。あるいは敵は動静を聞いただけで混乱し、一時にして崩散するかもしれない。しかしもしそうならなかったら、名望と実績を共に喪い、社稷の事が去ってしまうだろう。全て私が闇弱で、徳信が明らかではないので、民衆を鎮静化し、険阻な地を守って城を連ねることで国を守るということができずにいる。そのため、内は心中で恥じ入り、外は良友に対して申し訳なく思っている。私とあなたは、職責に内と外の違いはあるが、社稷を安んじて国家を守るという点においては一致している。天下の安危とは、明徳があるかどうかによって決まる。先に国を安寧にすることを思い、その後、外を図るべきである。帝業の基礎を克隆させ、大義を顕著にする、これはあなたに期待していることだ。嫌疑や不満を抱いているからといって、私の小さな誠意を述べ尽くさずにいることはできない」
司馬昱の書を読んだ桓温はすぐに上書し、謝辞を届けると、撤兵して鎮に還った。このように桓温に対してもはや無視できない状況にあるのが今の東晋の朝廷であった。
「気分は楚の荘王よ」
桓温はかつて鼎の軽重を問うた楚の荘王の気分になれたことに笑いながら、去っていった。
その後、東晋の朝廷が郊祀を行おうとした。
会稽王・司馬昱が王彪之に意見を求めてこう問うた。
「郊祀を行うに当たって大赦を行うべきか?」
王彪之はこう答えた。
「中興以来、郊祀には往往にして赦がありましたが、愚見によるならば、常にそうするのは適切ではありません。凶愚の人は郊祀の度に必ず大赦があると思い、幸運を求めて、邪心を生むようになります」
司馬昱はこの意見に従った。