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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第四章 野望
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石宣

 348年


 四月、林邑王・范文はんぶんが九真を侵して士民の十分の八、九を殺した。


 その翌月の後趙では事件が起きていた。


 後趙の秦公・石韜せきとうは後趙の天王・石虎せきこに寵愛されていた。やがて天王は石韜を後嗣に立てたいと考えるようになったが、太子・石宣せきせんが年長だったため、躊躇して決断できずにいた。


 それにも関わらず、石宣が天王の意旨に逆らった際、天王は怒って、


「韜を後嗣に立てなかったことを後悔している」


 と発言した。これを聞いた石韜はますます驕慢になっていった。


 ある時、石韜が太尉府に梁の長さは九丈もある堂を造って宣光殿と名づけた。


 それを見た石宣は大いに怒って工匠を斬り、梁を断って去った。彼が起こった理由に関して胡三省が、


「その名(石宣の「宣」)を犯したからである」


 と解説している。


 すると石韜は怒って梁の長さを更に増やし、十丈に至らせた。


 石宣はこれを聞いて、寵信する楊柸ようはい牟成ぼうせい趙生ちょうせいにこう言った。


「凶豎(凶悪な小僧)は傲慢放縦で、敢えてこのようにしているのだ。汝らにこれを殺すことができたら、私が帝位に即いてから、韜の国邑を全て分けて汝らを封じようではないか。韜が死んだら、主上は必ず喪に臨む。私がその機に大事(主君の弑殺)を行えば、成功しないはずがない」


 楊柸らはこれを許諾した。


 八月のある夜、石韜が僚属と東明観で宴を開き、そのまま仏精舍で宿泊した。石氏(後趙)は鄴の東の城壁に東明観を建てた。仏精舍は仏寺のkとおで、僧徒による専精修行の地なので、「精舍」と言った。かつて、後漢の明帝が洛陽の門外に精舍を建てて、摂摩騰と竺法蘭を住ませたことがある。


 そこで、石宣は楊柸らを派遣し、獼猴梯に登って中に入らせた。因みに「獼猴梯」は長くて細い梯子のことである。梯子を登る人が獼猴(猿の一種)のようになるので、獼猴梯と言った。


 楊柸らは石韜を殺してから刀と箭(矢)を置いて去っていった。


 翌日、石宣がこの事を上奏した。


 天王は哀驚して気絶し、久しくしてからやっと蘇生した。


 天王が宮外に出て喪に臨もうとしたが、これを司空・李農りのうが諫めた。


「秦公を害した者が何者かはまだ分からず、賊は京師にいるので、陛下は軽率に外出すべきではありません」


 天王は外出を中止し、兵を整えて太武殿で哀悼した。


 石宣は石韜の喪に臨みに行ったが、哭すことなく、ただ「呵呵(笑い声)」と言い、衾(布団)をめくりあげさせて死体を観てから、大笑して去っていった。


 明らかに精神性に幼稚さのある男である。


 その後、石宣は大将軍記室参軍・鄭靖ていせい尹武いんぶらに罪を着せようとして、逮捕した。


 その行動を見て、天王は石宣が石韜を殺したのではないかと疑い、招こうとしたが、入朝しない恐れがあるため、偽って石宣の母・杜后が過度な哀傷によって危篤に陥ったと公言した。


 石宣は自分が疑われているとは思わず、中宮に入朝した。それを機に天王が石宣を拘留した。


 建興の人・史科しかが石宣の謀を知り、天王に告げた。


 天王が人を派遣して楊柸らを捕えさせようとしたが、楊柸と牟成は逃亡に成功した。しかし、趙生は捕らわれた。彼に詰問したところ、趙生は完全に罪を認めた。


 天王は悲怒がますます甚だしくなり、石宣を席庫(蓆をしまう倉庫)に幽囚して、鉄の輪で下顎を穿って鎖で繋げてから、石韜を殺した刀や箭(矢)を取ってその血を舐め、哀号が宮殿を振動させた。


 仏図澄ぶっとちょうが、


「宣と韜はどちらも陛下の子です。今、韜のために宣を殺したら、禍を重ねることになります。陛下がもし慈愛を加えるようならば、福運はまだ長くなりますが、もし必ず誅殺するようなら、宣は彗星となって下り、鄴宮を掃くことでしょう」


 と言ったが、天王は従わなかった。


 天王は鄴の北に柴を積ませ、その上に樹標(木の柱)を建て、樹標の先端に鹿盧(轆轤)を置いて縄を通し、柴に梯子をもたれかけさせた。その後、石宣を柴山の下に送り、石韜が寵信していた宦者・郝稚かくすい劉霸りゅうはに石宣の髪を抜かせ、舌を抽出させ、石宣を牽いて梯を登らせてから、郝稚が石宣の顎に縄を通し、鹿盧を絞めて石宣の体を上げさせた。続けて劉霸が石宣の手足を断ち、目をえぐって腸を潰した。これは石韜が負傷した位置と同じ場所であった。


 最後に四面から火を放ち、煙炎が天に接した。


 天王は昭儀以下数千人を従えて、中台(この「中台」は三台の中台で、銅爵台を指す)に登ってこの様子を観覧し、火が消えてから、灰を回収して諸門の交道(交差路)に分散して置かせた。


 更に天王は石宣の妻子九人を殺した。石宣の少子はまだ数歳で、天王もかねてから愛していたため、天王は抱きかかえて泣き、赦免しようとした。しかし大臣が同意せず、天王の懐から奪って殺した。石宣の少子は天王の衣服を引っ張って大叫し、帯が切れるほどであった。


 天王はこれがきっかけで発病することになる。


 天王は更に后(石宣の母・杜氏)を廃して庶人にした。


 四率(東宮に属す左・右・前・後の四率)以下三百人と宦者五十人が誅殺され、皆、車裂・節解(四肢を切断する刑)のうえ漳水に棄てられた。


 東宮(太子宮)は掘り起こされて猪(豚)や牛を飼うことになった。


 東宮の衛士・十余万人を全て流刑に処して涼州を守備させた(後趙はまだ涼州を占拠していないため、金城に涼州を置いていた)。


 これ以前に趙攬ちょうらんが天王にこう言った。


「宮中で変事が起きるので、それに備えるべきです」


 石宣が石韜を殺すと、天王は趙攬がこの事を知っていたのに報告しなかったのではないかと疑い、誅殺した。


 暫くしてから天王は新たに太子を立てることについて討議した。


 太尉・張挙ちょうきょが言った。


「燕公・ひんには武略があり、彭城公・じゅんには文徳があります。陛下の選択に従うまでです」


「汝の言は正に我が意を啓発させた」


 天王がそう言ったところで戎昭将軍・張豺ちょうざいが言った。


「燕公は母が賎しく、また本人もかつて過ちを犯しました(石斌が張賀度を殺そうとしたことを指す)。彭城公の母は、以前、太子の事が原因で廃されたので、今、彼を立てたら、私は彭城公が恨みを抱き続けているのではないかと恐れます。陛下は慎重にお考えになるべきです」


 石遵は元太子・石邃と母が同じで、二人の母・鄭氏は石邃が誅殺された際、天王皇后を廃された。


 以前、天王が上邽を攻略した時、張豺が漢趙帝(前趙主・劉曜)の幼女・安定公主を獲て、殊色(特別な美貌)があったため、天王に納めた。石虎は劉氏を寵愛し、後に斉公・石世せきせいが生まれた。


 張豺は、天王が老いて病を患ってから、石世を後嗣に立てようと欲している、と考えた。また、劉氏が太后になれば、自分が輔政できる地位に立てることになる。そう考えた彼は実際に石世が後嗣になるように願い、張豺は天王にこう言った。


「陛下は太子を二回立てましたが、その母はどちらも倡賎の出身だったため、禍乱が相継ぎました。今回は母が貴くて子が孝順な者を択んで立てるべきです」


 天王は、


「汝は何も言うな。私は太子がどこにいるか知っている」


 と応えた。


 天王は再び群臣と東堂で討議して、こう言った。


「私は三斛の純灰で自らこの腸を洗浄したいくらいだ。なぜ悪子ばかり生んでしまい、彼らは年が二十を越えたらすぐに父を殺そうと欲した。今、世は十歳になったばかりで、二十になる頃には、私は既に老いている」


 天王は張挙や李農と議を定め、公卿に命じて、石世を太子に立てるように請う上書をさせた。


 大司農・曹莫そうぼくが署名しようとしなかったため、天王が張豺を派遣して理由を問わせると、曹莫は頓首してこう言った。


「天下の大任とは、幼い者を立てるべきではないので、署名できないのです」


 天王はそれを聞いて、


「曹莫は忠臣だが、まだ私の意に達していない。張挙と李農は私の意を知っている。二人になら、彼を諭させることができるだろう」


 こうして石世が太子に立てられ、劉昭儀が后になった。


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