崇有論
この年、司徒・京陵公・王渾が世を去った。
それを受けて、九月、尚書右僕射・王戎(王渾の息子)を司徒に、太子太師・何劭を尚書左僕射にした。
王戎は三公に至ったが、時勢に流されるばかりで、世を矯正させることはなく、事を僚属に委ねて軽々しく遊覧に出かけるばかりであった。
しかも性格が貪婪かつ吝嗇で、所有する園田が天下に遍いたが、いつも自ら牙籌(計算に使う道具)を持ち、昼夜、計算して常にまだ足りていないようであった。
そんな彼の性格を表す逸話がいくつかある。
彼の家には良質な李の木があり、それから成る李を売っていたがそれを売った後、他人がその李が発芽して種を得ることを恐れたため、常に錐で種に孔をあけてから売った。
甥が結婚することになった際、その甥のため着物を用意してやって祝ったが、結婚した後にその甥に着物の代金を請求した。
娘が裴頠のところへ嫁入りした時、金数万を贈った。その後、彼女が里帰りしても王戎が不機嫌であった。娘が慌てて金を返すと彼は急に笑顔を見せた。
と、いったものである。どれも彼の金銭欲の強さがわかる逸話である。一方で、父が亡くなった際、父の涼州時代の故吏たちから銭数百万の香典が寄せられた際、彼は一切受けとらなかったという。
王戎は人材の表彰・抜擢においてはいつも虚名を重視し、不公平であった。
また、阮咸の子・阮瞻がかつて王戎に会った時、王戎が問うた。
「聖人(孔子)は名教を貴び、老荘は自然を明らかにした。その主旨は同じだろうか?」
すると阮瞻はこう答えた。
「将無同」
「将無同」は「同じではないことはない」、つまり「同じだ」という意味である。
胡三省はこの言葉に対して、
「直接『同じだ』と言わず、『同じではないことはない(将無同)』と言ったのは、晋人の会話の風格がこのようだったからだ。相手の発言が正しいと思っても、それを肯定する自分の発言に対して、責任を持とうとしなかったのである」
と、解説している。
王戎は久しく感嘆してから、阮瞻を招聘した。
当時の人々は阮瞻を「三語掾」と呼んだ。「将無同」の「三語」で「掾(官署の属員)」になった、という意味である。
当時、王戎の従弟・王衍が尚書令を、南陽の人・楽広が河南尹を勤めていた。どちらも清談を善くし、心は俗世以外の事にあったが、当世において名が重んじられたため、朝野の人が争って敬慕して彼らの真似を行ったという。
王衍と弟の王澄は人物の品評を好んだ。人々は彼らの評価を基準にしたという。
王衍は容貌が明秀だったため、若い頃、山濤が王衍を見て久しく感嘆し、
「どんな老婦がこのような子を生んだのだろうか」
と言うほどであった。しかし、彼は更にこう続けた。
「しかし天下の百姓を誤らせるのは、この人かもしれない」
その通りになるのだから彼の見識眼は流石である。
楽広は性格が淡白かつ倹約家で、世と競うことがなく、談論したらいつも簡約な言葉で道理を解析して人の心を満足させ、知らないことに対しては沈黙した。
人について論じる時はいつも必ず先に長所を称え、短所は語らなくても自然に明らかになったという。
王澄および阮咸と阮咸の甥・阮脩、泰山の人・胡毋輔之、陳国の人・謝鯤、城陽の人・王尼、新蔡の人・畢卓は皆、任放(束縛されないこと)を極めており、酔い狂って裸になってもそれを悪いこととはみなさなかった。
胡毋輔之がかつて痛飲した時、子の胡毋謙之がその様子を窺い見て、厳しい口調で父の字を呼んでこう言った。
「彦国よ、年老いたのだから、そのようにするべきではない」
しかし胡毋輔之は歓笑して子を招き入れ、一緒に酒を飲んだという。
畢卓はかつて吏部郎になったことがあった。その際、近所の家の主人が酒を醸造してしており、それが熟成すると、畢卓は酔った勢いで夜の間に酒甕の下に至り、酒を盗んで飲んだ。その結果、酒を管理する者に縛られることになった。
翌朝、人々が酒を盗んだ者を視ると吏部郎の畢卓であることに気づいた。
それを聞いた楽広は大いに笑って、
「名教の中にも自ずから歓楽の場所がある。なぜそのようにする必要があるのだ」
と言った。
かつて魏の何晏らが老荘思想を解釈し、論を立ててこう主張した。
「天地万物は、皆、無を本とする。無とは、万物を開いて事を成就させ、どこに行っても存在するものである。陰陽はこれに頼って変化生長し、賢者はこれに頼って徳を成す。だから無の功用とは、爵位が無くても貴いのである」
王衍らは皆、何晏らの思想を愛して重んじた。その結果、朝廷の士大夫が全て荒唐な虚妄を美とし、自分の職業を弛緩・廃止させるようになっていった。
これに対して裴頠が、『崇有論(「有」を貴ぶ論)』を著し、「無」を貴ぶ思想の弊害を説いた。以下、『資治通鑑』を元に簡単に紹介する。
「利と欲とは、減らすことはできても絶つことはできないものです。世事とは、節制することはできても完全になくすことはできません。思うに、高談の才を飾っている者は、深く形がある物の欠点を並べ、盛んに空無の美を述べています。しかしながら物体の欠点は形がありますが、空無の道理は考察が困難です。華美で、巧みな文は人を悦ばせることができ、真実のような言葉は人を惑わすに足ります。大衆はそれを聴いて眩まされ、既に完成した説に溺れています。たとえ反対意見があっても世間には通用せず、その気風に屈しています。だから虚無の理は誠に覆すことができないのです。一人が唱えたら百人が和し、虚無の道に向かったら戻ることなく、こうして世をまとめる政務が軽視され、功業がもたらす実際の利益が賎しめられ、遊蕩な行いが重んじられ、実際に国を治める賢才が軽視されるようになっています」
「人の情が向かう所は、誠に名と利です。そのため、文者はその辞を誇張し、訥者(発言が苦手な者)はその旨を称賛します。その結果、虚無を根拠に言を立てたら玄妙とみなされ、官位に居ながらその職に近づかなくても雅遠(優雅で世俗から遠いこと)とみなされ、身を奉じながらその廉操を失っても大度とみなされており、ゆえに砥礪の風(節を磨いて行いを正す気風)がますます衰退しています。放縦な者はこれによってあるいは吉凶の礼(冠婚葬祭等の儀礼)にも背き、挙止や儀容を疎かにし、長幼の序を軽視し、貴賎の等級を混乱させ、ひどい者は裸になって猥褻・軽慢にふるまい、どんなことでもやっており、士の行いが更に損なわれています」
「万物の中で形が有るものは、たとえ『無』から生まれたとしても、生まれたら『有』という状態になっており、既に『無』とは分かれているのです。よって『無』とは『有』が棄てたものなのです。だからこそ養って既に姿を変えた『有』は『無』によって完成できるものではなく、既に『有』となった形が有る民衆を治めるのは、無為によって実行できることではないのです。心(精神、思考。形がない存在)は形がある事物ではありませんが、事物を制すことが事物そのものではないからといって心を無とみなすことはできません。匠工の技は形がある器物ではありませんが、器物は必ず匠工の技によって制され、器物を制すことが器物そのものではないからといって、匠工の技が存在しないものとみなすことはできません。だからこそ重淵の魚を獲りたいと思ったら、寝て休むことによって獲られるものではなく、高い壁の上の禽獣を落としたいと思ったら、静かに拱手して坐ることによって成功できることでもないのです。このように観ると、成就して存在しているものは全て『有』なのです。虚無とは、既に存在する群生(一切の生物)に対して何の益があるのでしょう」
何もしないということが称賛されるばかりで、国家の運営さえも疎かになっているのが今の西晋王朝である。国家運営を成さなければ、被害を受けるのは国民である。国民は虚無の存在ではない。しかしながら多くの高官が国民の存在を無視して自分たちの快楽ばかりに目を向けている。そのことを変えなければならないと考えたのが裴頠である。
しかし虚無を崇める習俗が既に形成されていたため、裴頠の論も世を救うことができなかった。




