仏図澄
後趙の征虜将軍・石遇が襄陽で桓宣を攻めたが、勝利できなかった。
そんな九月、後趙の天王・石虎が鄴に遷都し、大赦を行った。
以前、後趙の明帝は、天竺の僧・仏図澄が成敗を豫言して、しばし成果があったため、仏図澄に敬事していた。
後漢の時代から仏教を広めようと中国に多くの渡来僧が来ていた。仏図澄もその一人で、中国に仏教を広めた人物として重要な人物である。
天王が位に即くと、ますます謹んで仏図澄を奉じるようになり、衣服は綾錦で作り、車は彫輦(彫刻が施された車)にした。
朝会の日には、太子や諸公が仏図澄を扶翼して上殿させ、主者(朝会の儀礼を担当する官)が「大和尚」と唱えると、席にいる者が皆、立ち上がり、彼を迎えた。
また、天王は司空・李農に命じて朝夕に様子を伺う挨拶をさせ、太子と諸公にも五日ごとに朝見させた。
国人もこれに感化されて、大多数の者が仏に仕えるようになった。仏図澄がいる場所を向いて鼻をかんだり唾を吐いたりしようとする者がいなくなったという。
争って寺廟が造られ、人々が髪を剃って出家した。
しかし出家する者の真偽が混沌としており、あるいは賦役を避けるために出家したふりをする者も現れるようになったため、天王が詔を下して中書に問うた。
「仏は国家が奉じているものだが、里閭の小人で爵秩がない者も、仏に仕えるべきだろうか?」
著作郎・王度らが討議して言った。
「王者の祭祀には典礼が具わっています。仏は外国の神であり、天子や中原が祭祀・尊奉すべきものではありません。漢代にその道が伝えられたばかりの時は、ただ西域の人が都邑に寺を建てて奉じることを許しただけで、漢人は皆出家できず、魏の世もそうでした。今、公卿以下に禁令を出し、寺を詣でて焼香・礼拝してはならないことにして、趙人で仏僧になった者は初めの服(華人の服装)に戻させるべきです」
天王は詔を発してこう言った。
「私は辺鄙な地に生まれたが、かたじけなくも諸夏の君となった。祭祀に至っては、本来の習俗に従うべきである。但し夷・趙の百姓で喜んで仏に仕えている者は、特にこれを許可する」
この天王の許可によって本来、漢族に広めることを禁止されていた仏教を広めることができるようになった。このことによってやがて仏教は中国にも根付き、日本にも伝わることになるのである。
成漢の哀帝の舅(母の兄弟)・羅演が漢王相・天水の人・上官澹と謀り、成漢帝・李期を殺して哀帝の子を立てようとした。
しかし事が発覚したため、成漢帝は羅演、上官澹および李班の母・羅氏を殺した。
成漢帝は既に自分が志を得たと思い、諸旧臣を軽んじて、尚書令・景騫、尚書・姚華、田褒、中常侍・許涪らを信任するようになった。刑賞といった大政は全てこの数人が裁決し、公卿にはほとんど関与させなかった。
田褒には他に才がなかったが、かつて武帝に対して李期を太子に立てるように勧めたことがあったため、寵任された。
こうして成漢の紀綱が隳紊(衰敗・混乱)し、李雄の業が衰え始めた。
慕容仁が王斉ら(東晋の使者)を東晋に送り還した。
王斉らは海道から棘城に向かったが、暴風に遭遇したため、王斉は到着できなかった。
十二月、徐孟らが棘城に至り、慕容皝は始めて東晋の朝命を受けた。
段氏と宇文氏がそれぞれ使者を派遣して慕容仁を訪ねさせた。使者は平郭城外で宿泊した。しかし、慕容皝の帳下督・張英が百余騎を率いて間道から潜行し、これを襲撃した。張英は宇文氏の使者十余人を斬り、段氏の使者を生捕りにして帰った。
張軌と二子の張寔、張茂は代々河右を保って拠点にしていたが、軍旅の事がない年はなかった。
張駿が位を継いでから、やっと境内が徐々に安定するようになった。
張駿は勤めて諸政務を修め、文武諸官を総領し、皆にその能力を発揮させることができたので、民が富んで兵が強くなり、遠近に称賛され、賢君とみなされた。
張駿が将・楊宣を派遣して亀茲と鄯善を伐たせると、西域諸国の焉耆、于窴らが皆、姑臧を訪ねて朝貢した。
張駿は姑臧南に五殿を造った後、官属が皆、張駿に対して臣と称すようになった。
張駿は秦・雍を兼併しようと考えていた。そこで参軍・麴護を東晋に派遣して上書し、こう主張した。
「石勒と李雄は既に死にましたが、石虎と李期が反逆を受け継ぎ、万民が主から離れて、徐々に世を経ています。先老は既に没落し、後生は旧事を知らないので、慕恋の心が日に日に遠くなり、日に日に忘れられています。司空・鑒(郗鑒)、征西・亮(征西将軍・庾亮)らに勅令して江・沔に舟を浮かべさせ、涼州の兵と共に首尾をそろえて大挙することを乞います」