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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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裁けない王朝

張華ちょうか殿が政治を担うことになったそうだ」


 慕容廆ぼようかい徐郁じょいくにそう言った。


「ええ、そのようじゃのう」


「王朝はこれで良くなるだろうか?」


 最近の王朝の混乱を知っているだけにこれで落ち着くのだろうかと思ったため彼はそう言った。しかし徐郁は首を振った。


「王朝を良くするのは果断を持って改革を行う必要がある。本来、武帝の世で行うべきであったことを今の時代からしっかりとした改革を行うべきであったものを速めて行っていかなければならない。張華殿にその果断を行えるほどの強さを有していない」


「だが、今回は賈后の支持を受けているのだろう。外戚の強い支持を持ってすれば可能ではないだろうか?」


「そうじゃな。それが漢の呂氏であったのであれば、できたかもしれん」


 呂太后の世であれば、できたかもしれない。


「だが、賈后の器量は呂太后の器量には及んでいない。己の欲望を優先しすぎてしまうあの女の元では張華殿だけでなく、漢王朝の名臣たちでも力を発揮することはできないだろう」


(まさか悪女と謳われた呂太后がいればと思う時代があるとはな……)


「しばらく静かな時代を作る。それだけしかできないでしょうな」


「それすらも難しいのだからやはり張華殿は優れた方なのだろうな」


 慕容廆の言葉に徐郁は頷きつつも、


「だからこそ、良い終わりを迎えられないでしょうな」


 と、呟いた。






 292年


 二月、楊太后が金墉城で死んだ。しかしながらその死は正常なものではなかった。


 当時、楊太后にはまだ侍御が十余人いたが、賈南風かなんふうはそれを全て奪って楊太后の膳(食事)を絶ったことで、八日後に楊太后は餓死したのである。


 更に賈南風は楊太后の霊が現れて先帝に冤罪を訴えるかもしれないと恐れ、楊太后の死体を下に向けて納棺し、しかも諸々の厭劾の符書(魔除けの符書)や薬物等を施した。


 残酷な行為である。


 294年


 司隸校尉・傅咸ふいが世を去った。


 傅咸は剛強かつ簡潔な性格で風格が厳格であった。


 司隸校尉になったばかりの時、上書して、


「賄賂の流行は、深く絶つべきである」


 と言った。


 当時は朝政が弛緩しており、権勢を握る豪族や貴族がほしいままにしていたため、傅咸は上奏して河南尹・せん(澹は河南尹の名。姓は不明)らの官を免じ、京師を粛然とさせた。


 また一人、西晋王朝を支える臣が去ってしまったと言えるだろう。


 295年


 十月、武庫で火災があり、歴代の宝および二百万人の器械(二百万人分に相当する器具、兵器)が焼毀された。


 因みに歴代の宝というのは漢の高祖・劉邦が白蛇を斬った剣、王莽の頭、孔子の靴といったものである。それらが全て焼かれてしまったのである。


 十二月、そのため新たに武庫を造り、大いに兵器を調達した。


 その頃、拓跋禄官たくばつろかんがその国を三部に分けた。


 一部は上谷の北、濡源(濡水の源)の西に住み、拓跋禄官が自ら統領した。一部は代郡参合陂の北に住、まわせ、兄・沙漠汗の子・猗㐌(いい)に統領させ、一部は定襄の盛楽故城に住まわせ、猗㐌の弟・猗盧いろに統領させた。


 猗盧は用兵を善くし、西に向かって匈奴や烏桓の諸部を撃ち、全て破るほどであった。


 代の人・衛操えいそうとその従子・衛雄えいゆうおよび同郡の箕澹きえいが拓跋氏に投じ、「晋の人間を移住させましょう。猗盧殿らが招聘すれば彼らはやって来ます」


 と、猗㐌や猗盧を説得して晋人を招納(招いて受け入れること)するように進言した。


 猗㐌はこれを悦び、彼らに国事を任せた。その結果、晋人で帰附する者がしだいに増えていった。


 彼ら拓跋氏は後に代国、北魏を建国する基礎がここで作られていくことになる。










 296年


 中書監・張華は司空になった。これまでの政治手腕を評価された形である。しかし、そんな彼に難しい内容の事件が起きた。


 夏、匈奴・郝散かくさんの弟・度元どげんと馮翊・北地の馬蘭羌、盧水胡が共に反し、北地郡を攻めてその太守・張損ちょうそんを殺した。


 馮翊太守・欧陽建おうようけんはそれを受けて郝度元と戦ったものの、欧陽建は敗れた。


 これにより、征西大将軍・趙王・司馬倫しばりん(司馬懿の子)と雍州刺史・済南の人・解系かいけいが討伐に当たったが、司馬倫は傲慢で反乱を起こした者たちを侮り、軍備をしっかりと整えなかったため、勝利することができなかった。


 また、司馬倫は琅邪の人・孫秀そんしゅうを寵愛しており、孫秀が解系と反乱への軍事作戦に関して争い、互いに上奏を行い、どちらも相手を非難した。欧陽建も司馬倫の罪悪について上表を行った。


「そもそもこの反乱は趙王が善政を行わなかったため起こったのである」


 という内容である。


 その結果、朝廷は司馬倫が関右を混乱させたという理由で召還して車騎将軍に任命し、太子太保・梁王・司馬肜しばとうを征西大将軍・都督雍涼二州諸軍事にして関中を鎮守させることにした。


 解系と弟の御史中丞・解結かいけつの二人はどちらも上表して、孫秀を誅殺して氐・羌に謝すことを請うた。


 張華がこの事を梁王・司馬肜に報告して孫秀を誅殺するように勧めると、司馬肜は許諾した。


 しかし孫秀の友人・辛冉しんぜんが孫秀のために司馬肜を説得し、


「氐・羌は自ら反したのです。孫秀の罪ではありません」


 と言ったため、孫秀は誅殺から免れることができた。この奇妙なまでの馴れ合いがこの当時の貴族たちの姿である。


 司馬倫は洛陽に至ってから孫秀の計を用いて深く賈・郭と交わり、賈南風は大いに司馬倫を愛信するようになっていった。信頼を得たと考えた司馬倫は録尚書事の職位を求め、また、尚書令を求めた。


 それを張華と裴頠はいぎが頑なに反対し、止めた。これらの事があったため司馬倫と孫秀は張華らを怨むようになっていった。


 八月、解系は郝度元に再び、敗れた。


 秦・雍の氐・羌はこの勢いを受けてことごとく叛し、氐帥・斉万年せいばんねんを主に立てた。斉万年は帝を僭号して涇陽を包囲した。


 十月、朝廷は雍・涼二州で特赦を行った。反乱に対してのことだろうが、遅すぎる。


 御史中丞・周處しゅうきょは官員を弾劾して権戚(権勢を持つ皇族)も避けることなく、かつて梁王・司馬肜が法に違えた時も調査・弾劾を行った。そのためそう言った者たちに嫌われていた。彼がかつて呉に仕えていた人物であったというのも影響があっただろう。


 十一月、詔によって周處を建威将軍に任命し、振威将軍・盧播ろはんと共に安西将軍・夏侯駿かこうしゅんに隷属させ、斉万年を討伐させることにした。また、梁王・司馬肜を好畤に駐屯させた。


 更に支援のため揚烈将軍・巴西の人・趙廞ちょうけんを益州刺史に任命し、梁・益の兵糧(軍の食糧、または兵と食糧)を徴発して雍州の氐・羌討伐を援けさせることにした。


 これを受け、中書令・陳準ちんじゅんが朝廷に言った。


「夏侯駿と梁王はどちらも貴戚であり(司馬師の妻・景懐皇后が夏侯氏だったので、夏侯駿は外戚に当たる)、将帥の才はなく、進んでも名声を求めず、退いても罪を畏れることがありません。周處は呉人で忠厚実直で、勇猛果敢なので、彼を仇とする人はいても援ける人はいません。積弩将軍・孟観もうかんに詔し、精兵一万人を率いて周處の前鋒とさせるべきです。そうすれば、必ずや敵を殲滅できましょう。逆にそうしなければ、梁王は周處を先鋒にさせて、これを援けずに陥れるので、敗戦は必至でしょう」


 朝廷はこの意見に従わなかった。


 斉万年は周處が来たと聞くとこう言った。


「周府君はかつて新平太守になり、文武の才があった人物である。もし大将として来たのならば、当たることはできない。しかしもし人の下にいるのであれば、彼は虜になるだろう」


 かつて略陽の清水氐・楊駒ようくが仇池に住んでいた。


 仇池は方百頃で、傍の平地は二十余里あり、四面は険峻で高い山に囲まれていた。山路は羊の腸のように狭くて屈曲しており、三十六回曲がってやっと山頂に登れるという難所である。


 楊駒の孫・楊千万ようかんばんの代に至って魏に帰順し、百頃王に封じられた。


 更に楊千万の孫・楊飛龍ようひりゅうの代になるとしだいに強盛になり、略陽に移住した。


 楊飛龍は甥(姉妹の子)・令狐茂搜れいこもうそうを自分の子にした。令狐茂搜は姓を楊にし、楊茂搜ようもうそうと称した。


 十二月、楊茂搜がこの斉万年の乱を避け、略陽から部落四千家を率いて仇池に還り、その地を守り、自ら輔国将軍・右賢王を号した。


 関中の人士で乱を避けた者が多数頼って来た。楊茂搜はそれを迎え入れて慰撫し、去りたい者がいたら、護衛したうえで資金を与えて送り出した。


 後に彼が作った勢力は前仇池と呼ばれることになる。


 297年


 正月、斉万年は梁山に駐屯した。七万人の衆を擁していた。


 梁王・司馬肜と夏侯駿が周處に命じて五千の兵で斉万年を撃たせた。


 周處が、


「軍に後続がなければ、必ず敗れます。これは身が亡ぶだけでなく、国に恥をもたらすことになります」


 と言ったが、司馬肜と夏侯駿は諫言を聴かず、出兵を強制した。


「ここで死ぬか……」


 周處はそう呟いた。


 周處と盧播、解系が六陌で斉万年を攻撃した。周處の軍士が食事をする前に司馬肜は周處を催促して速やかに前進するように命じた。


「徹底しているな……」


 彼は苦笑しつつ出陣し、斉万年の軍と激突した。


 戦いは朝から暮れに至るまで続き、周處の軍が甚だ多数の敵を斬獲したが、弓の弦が切れて矢が尽きても救兵が至らず、朝廷の軍が敗戦した。左右の者が周處に撤退を勧めたが、周處は剣に手を置き、


「これは私が節を尽くして命を棄てる時である」


 と言い、力戦して死んだ。


 朝廷は司馬肜の過失とみなしたが、その罪を裁くことはできなかった。


 皇族、貴族を裁くことのできない王朝の姿がこれである。

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― 新着の感想 ―
[一言] >楊太后は餓死したのである この死に方は他には武霊王くらいですかね。
[一言] >まさか悪女と謳われた呂太后がいればと思う時代があるとはな…… アレなとこがめだつものの優秀ではありましたからね、問題は親族にろくなのがいなかったことかな。
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