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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争
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前趙の滅亡

 前趙の太子・劉熙りゅうきは前趙帝・劉曜が捕えられたと聞いて大いに懼れ、南陽王・劉胤りゅういんと謀って長安から上邽に遷ろうと考えた。


 これに尚書・胡勲こくんが言った。


「今は主君を喪ったとはいえ、境土はまだ完全で、将士も叛していません。とりあえずは力を併せて石勒を拒むべきです。我々の力が拒めなくなってから走っても晩くはありません」


 劉胤は怒って胡勲が衆人の意志を挫いているとみなし、斬ってしまった。


 その後、百官を率いて上邽に奔った。


 諸征鎮も皆、守っている場所を棄ててこれに従い、関中が大いに混乱した。


 将軍・蒋英しょうえい辛恕しんじょが数十万の兵を擁して長安を拠点とし、使者を送って後趙に降った。


 後趙は石生せきせいを派遣して、洛陽の兵を率いて長安に赴かせた。


 八月、前趙の南陽王・劉胤が数万の兵を率いて上邽から長安に向かった。


 隴東、武都、安定、新平、北地、扶風、始平の諸郡に住む戎夏(異民族と漢人)が皆、兵を挙げてこれに応じた。


 劉胤は仲橋に駐軍した。


 後趙の石生は城に籠って守りを固め、救援要請を送ると中山公・石虎せきこが騎兵二万を率いて救いに行った。


 九月、石虎が義渠で前趙の兵を大破した。


 劉胤は奔って上邽に還ったが、石虎が勝ちに乗じて追撃し、屍が千里に連なって上邽が潰滅した。


 石虎は漢趙の太子・劉熙、南陽王・劉胤およびその将や王公・卿・校(軍官)以下、三千余人を捕えて全て殺した。


 こうして前趙が滅亡し、中国は北方の後趙、西北の前涼、西南の成漢、東南の東晋の四国が並立することになった。


 後趙は朝廷の文武百官や関東の流民、秦‧雍の大族九千余人を襄国に遷し、五郡の屠各・五千余人を洛陽で阬に処した(生き埋めにした)。


 更に兵を進めて河西で集木且羌を攻め、これに勝って数万を捕虜にした。こうして秦・隴が全て平定された。


 氐王・蒲洪ふこうと羌酋・姚戈仲ようよくちゅうが共に石虎に降った。石虎は上表して蒲洪を監六夷軍事に、姚弋仲を六夷左都督にした。その後、氐・羌の十五万落(戸)を司州と冀州に遷した。


 以前、隴西の鮮卑・乞伏述延こふくじゅつえんが苑川に居住しており、周辺の部落を侵して併合し、士馬が強盛になっていた。


 前趙が亡びると、乞伏述延は懼れて麦田に遷った。乞伏述延の死後、子の乞伏傉大寒が立ち、乞伏傉大寒の死後、子の乞伏司繁が立った。













 東晋の江州刺史・劉胤りゅういんは驕慢さが日に日に甚だしくなり、専ら商販(商業、商売)に務めて、集めた財貨が百万に上った。しかもほしいままに酒を飲んで歓楽に耽り、政事を顧みなくなっていった。


 十二月、東晋の成帝・司馬衍しばえんが詔を発して後将軍・郭黙かくもくを招き、右軍将軍に任命した。ところが、郭黙は喜んで辺将の任に就いていたため、宿衛になることを願わず、心情を劉胤に訴えた。


 劉胤はこう言った。


「これは小人に口出しできることではありません」


 胡三省によると、晋代以後、文武の士はそろって自分を「小人」と称していたという。


 郭黙は召還に応じて朝廷に向かうことにし、劉胤に資金を求めた。しかし劉胤が与えなかったため、郭黙は劉胤を怨むようになった。


 劉胤の長史・張満ちょうまんらはかねてから郭黙を軽視しており、正装せず裸のまま郭黙に会ったこともあった。そのため、郭黙は常に怨恨を抱くようになっていた。


 臘日(十二月の祭祀の日)、劉胤が郭黙に豚や酒を贈ったが、郭黙は使者の前でそれを川の中に投じた。


 ちょうど有司(官員)が上奏した。


「今、朝廷は空虚となり、百官にも禄がなく、ただ、江州からの輸送だけに頼っていますが、劉胤自身の商旅は路に相継ぎ、劉胤は私利によって公事を廃しています。劉胤の官を免じることを請います」


 上奏文が朝廷に下されて追求されたが、劉胤はすぐに罪を認めようとせず、弁明ばかり行った。


 この頃、僑人(外地から移住した人)・蓋肫こうしゅんが人の娘を奪って自分の妻にした。張満が蓋肫に命じて娘を家に還らせようとしたが、蓋肫はこれに従わず、郭黙にこう言った。


「劉江州は免官の命を受け入れず、秘かに異図(謀反の計画)を抱いており、張満らと日夜計議しています。ただ、郭侯一人を懼れており、先に除こうと欲しています」


 郭黙はその通りだと思い、自分の徒を率いて、早朝に門が開くのを待って、劉胤を襲った。劉胤の将吏が郭黙を拒もうとしたので、郭黙が叱咤して言った。


「私は詔を被り、討伐すべき者がいる。動く者は三族を誅滅する」


 郭黙は中に入って寝室に至り、劉胤を牽きずり出して斬首した。


 その後、部屋を出て劉胤の僚佐・張満らを捕え、大逆の罪を誣告して、全て斬った。


 その後、郭黙は劉胤の首を京師に送り、詔書(劉胤誅滅を命じる詔書)を偽造して内外にこの事を宣示した。更に劉胤の娘や諸妾および金宝を奪って船に還り、始めは都に下ると言ったが、暫くして劉胤の故府に留まることにした。


 そして、譙国内史・桓宣かんせんを招こうとしたが、桓宣は任地を固守して従おうとしなかった。


 






 賀蘭部および諸大人が共に拓拔翳槐たくばつえいかいを代王に立てた。


 代王・拓拔紇那たくばつこつなは宇文部に奔った。


 拓拔翳槐は弟の拓拔什翼犍たくばつふよくけんを人質として後趙に派遣し、和を請うた。


 河南王・慕容吐延ぼようとえん(慕容吐谷渾を継いだ)は雄勇であったが、猜疑が多かったため、羌酋・姜聡きょうそうに刺された。


 慕容吐延は剣を抜かずにその将・紇扢埿を招き、子の慕容葉延ぼようはえんを輔佐して白蘭を守るように命じてから、剣を抜いて死んだ。


 慕容葉延は孝順かつ好学で、


「礼によるなら、公孫の子は王父(祖父)の字を氏とするものだ」


 と考えたため、その国を吐谷渾と号した。


 これは周代において諸侯の子を公子、公子の子を公孫といい、公孫の子は王父(祖父)の字を氏とするものであったためである。


 

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