前趙の滅亡
前趙の太子・劉熙は前趙帝・劉曜が捕えられたと聞いて大いに懼れ、南陽王・劉胤と謀って長安から上邽に遷ろうと考えた。
これに尚書・胡勲が言った。
「今は主君を喪ったとはいえ、境土はまだ完全で、将士も叛していません。とりあえずは力を併せて石勒を拒むべきです。我々の力が拒めなくなってから走っても晩くはありません」
劉胤は怒って胡勲が衆人の意志を挫いているとみなし、斬ってしまった。
その後、百官を率いて上邽に奔った。
諸征鎮も皆、守っている場所を棄ててこれに従い、関中が大いに混乱した。
将軍・蒋英と辛恕が数十万の兵を擁して長安を拠点とし、使者を送って後趙に降った。
後趙は石生を派遣して、洛陽の兵を率いて長安に赴かせた。
八月、前趙の南陽王・劉胤が数万の兵を率いて上邽から長安に向かった。
隴東、武都、安定、新平、北地、扶風、始平の諸郡に住む戎夏(異民族と漢人)が皆、兵を挙げてこれに応じた。
劉胤は仲橋に駐軍した。
後趙の石生は城に籠って守りを固め、救援要請を送ると中山公・石虎が騎兵二万を率いて救いに行った。
九月、石虎が義渠で前趙の兵を大破した。
劉胤は奔って上邽に還ったが、石虎が勝ちに乗じて追撃し、屍が千里に連なって上邽が潰滅した。
石虎は漢趙の太子・劉熙、南陽王・劉胤およびその将や王公・卿・校(軍官)以下、三千余人を捕えて全て殺した。
こうして前趙が滅亡し、中国は北方の後趙、西北の前涼、西南の成漢、東南の東晋の四国が並立することになった。
後趙は朝廷の文武百官や関東の流民、秦‧雍の大族九千余人を襄国に遷し、五郡の屠各・五千余人を洛陽で阬に処した(生き埋めにした)。
更に兵を進めて河西で集木且羌を攻め、これに勝って数万を捕虜にした。こうして秦・隴が全て平定された。
氐王・蒲洪と羌酋・姚戈仲が共に石虎に降った。石虎は上表して蒲洪を監六夷軍事に、姚弋仲を六夷左都督にした。その後、氐・羌の十五万落(戸)を司州と冀州に遷した。
以前、隴西の鮮卑・乞伏述延が苑川に居住しており、周辺の部落を侵して併合し、士馬が強盛になっていた。
前趙が亡びると、乞伏述延は懼れて麦田に遷った。乞伏述延の死後、子の乞伏傉大寒が立ち、乞伏傉大寒の死後、子の乞伏司繁が立った。
東晋の江州刺史・劉胤は驕慢さが日に日に甚だしくなり、専ら商販(商業、商売)に務めて、集めた財貨が百万に上った。しかもほしいままに酒を飲んで歓楽に耽り、政事を顧みなくなっていった。
十二月、東晋の成帝・司馬衍が詔を発して後将軍・郭黙を招き、右軍将軍に任命した。ところが、郭黙は喜んで辺将の任に就いていたため、宿衛になることを願わず、心情を劉胤に訴えた。
劉胤はこう言った。
「これは小人に口出しできることではありません」
胡三省によると、晋代以後、文武の士はそろって自分を「小人」と称していたという。
郭黙は召還に応じて朝廷に向かうことにし、劉胤に資金を求めた。しかし劉胤が与えなかったため、郭黙は劉胤を怨むようになった。
劉胤の長史・張満らはかねてから郭黙を軽視しており、正装せず裸のまま郭黙に会ったこともあった。そのため、郭黙は常に怨恨を抱くようになっていた。
臘日(十二月の祭祀の日)、劉胤が郭黙に豚や酒を贈ったが、郭黙は使者の前でそれを川の中に投じた。
ちょうど有司(官員)が上奏した。
「今、朝廷は空虚となり、百官にも禄がなく、ただ、江州からの輸送だけに頼っていますが、劉胤自身の商旅は路に相継ぎ、劉胤は私利によって公事を廃しています。劉胤の官を免じることを請います」
上奏文が朝廷に下されて追求されたが、劉胤はすぐに罪を認めようとせず、弁明ばかり行った。
この頃、僑人(外地から移住した人)・蓋肫が人の娘を奪って自分の妻にした。張満が蓋肫に命じて娘を家に還らせようとしたが、蓋肫はこれに従わず、郭黙にこう言った。
「劉江州は免官の命を受け入れず、秘かに異図(謀反の計画)を抱いており、張満らと日夜計議しています。ただ、郭侯一人を懼れており、先に除こうと欲しています」
郭黙はその通りだと思い、自分の徒を率いて、早朝に門が開くのを待って、劉胤を襲った。劉胤の将吏が郭黙を拒もうとしたので、郭黙が叱咤して言った。
「私は詔を被り、討伐すべき者がいる。動く者は三族を誅滅する」
郭黙は中に入って寝室に至り、劉胤を牽きずり出して斬首した。
その後、部屋を出て劉胤の僚佐・張満らを捕え、大逆の罪を誣告して、全て斬った。
その後、郭黙は劉胤の首を京師に送り、詔書(劉胤誅滅を命じる詔書)を偽造して内外にこの事を宣示した。更に劉胤の娘や諸妾および金宝を奪って船に還り、始めは都に下ると言ったが、暫くして劉胤の故府に留まることにした。
そして、譙国内史・桓宣を招こうとしたが、桓宣は任地を固守して従おうとしなかった。
賀蘭部および諸大人が共に拓拔翳槐を代王に立てた。
代王・拓拔紇那は宇文部に奔った。
拓拔翳槐は弟の拓拔什翼犍を人質として後趙に派遣し、和を請うた。
河南王・慕容吐延(慕容吐谷渾を継いだ)は雄勇であったが、猜疑が多かったため、羌酋・姜聡に刺された。
慕容吐延は剣を抜かずにその将・紇扢埿を招き、子の慕容葉延を輔佐して白蘭を守るように命じてから、剣を抜いて死んだ。
慕容葉延は孝順かつ好学で、
「礼によるなら、公孫の子は王父(祖父)の字を氏とするものだ」
と考えたため、その国を吐谷渾と号した。
これは周代において諸侯の子を公子、公子の子を公孫といい、公孫の子は王父(祖父)の字を氏とするものであったためである。