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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争
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任譲

 329年


 正月、未だ東晋の成帝・司馬衍しばえんは石頭にいた。


 光禄大夫・陸曄りくようと弟の尚書左僕射・陸玩りくがん匡術きょうじゅつを説得し、苑城(台城。宮城)を挙げて西軍に帰順させた。


 百官が皆、苑城に赴き、陸曄を督宮城軍事に推した。


 陶侃とうかん毛寶もうほうに南城を守らせ、鄧岳とうがくに西城を守らせた。


 右衛将軍・劉超りゅうちょう、侍中・鍾雅しょうがと建康令・管斾かんはいらが策謀して、成帝を奉じて石頭から脱出し、西軍に赴こうとした。しかし事が漏れたため、蘇逸そいつがその将・平原の人・任譲じんじょうに兵を率いて入宮させ、劉超と鐘雅を捕えた。


 成帝は劉超らを抱きかかえて悲泣し、


「私の侍中と右衛を還せ」


 と言ったが、任譲は何も言うこともなく、二人を奪って殺した。


 この冷酷に見える任譲は若い頃から徳行がなかったという。そのため以前、太常・華恆かこうが本州の大中正になった時、彼の品(等級)を落としたことがあった。


 任譲が蘇峻の将になってからは、権勢に乗じて多くの者を誅殺したが、華恆に会ったらいつも恭敬になり、敢えて暴虐な真似をしなかった。


 鍾雅と劉超が死んだ時、蘇逸は併せて華恆も殺そうとしたが、任譲が心を尽くして救援したため、華恆は免れることができた。


 少し変わった人である。華恆への恨みでもありそうな過去がありながらそれを晴らそうという行動を取らず、恭敬になり、彼の命を救ってまでいる。複雑な感情を持っている人であると言えるだろう。


 冠軍将軍・趙胤ちょういんが部将・甘苗かんびょうを派遣して歴陽の祖約そやくを討たせ、敗った。祖約は夜の間に左右の者数百人を率いて後趙に奔った。


 祖約の将・牽騰さくとうが兵を率いて歴陽を出て、朝廷に降った。


 蘇逸(蘇峻の弟)、蘇碩そせき(蘇峻の子)、韓晃かんこうが協力して台城を攻め、太極東堂および祕閣を焼き尽くした。


 毛寶が城壁に登って数十人を射殺すると、韓晃が毛寶にこう言った。


「汝は勇猛果敢で名が知られているのに、なぜ出て闘わないのだ」


 毛寶はこう返した。


「君は健将として名が知られているのに、なぜ入って闘わないのだ?」


 韓晃は笑って退いた。この戦で数少ない清風を感じる瞬間であったと言える。


 東晋の朝廷の諸軍が石頭を攻めた。


 竟陵太守・李陽りようが蘇逸と柤浦で戦ったが、李陽の軍が敗れた。しかしそこに建威長史・滕含とうふんが精卒を率いて駆け付けて蘇逸を撃ったため、今度は蘇逸らが大敗した。


 蘇碩が数百の驍勇を率いて、秦淮水を渡って戦ったが、温嶠がこれを撃って斬った。


 韓晃らはそのことを知って懼れを抱き、兵を率いて曲阿の張健ちょうけんに就こうとしたが、門が狭くて一斉には外に出られないため、互いに踏みつけあって死者が万を数えた。


 西軍が蘇逸を獲て斬った。


 滕含の部将・曹據そうきょが成帝を抱きかかえて温嶠の船に奔った。成帝を見た群臣は頓首号泣して罪を請うた。


 西陽王・司馬羕しばきょうとその二子・司馬播しばはん司馬充しばじゅう、孫の司馬崧しばしゅうおよび彭城王・司馬雄しばゆうが併せて殺された。蘇峻に協力したためである。


 陶侃は任譲と旧知だったため、任譲のために命乞いを行った。


 しかし成帝は、


「この者は私の侍中と右衛を殺した者なので、赦すことはできない」


 と言って殺した。


 司徒・王導おうどうが石頭に入り、人に命じて故節を取りに行かせた。王導は王敦を討伐した時に符節を授かっていたが、石頭から出奔した時にそれを棄てていたのである。


 それに対して陶侃が笑って、


「蘇武の符節はそのようではなかったようだが」


 と言ったため、王導は慙色(慚愧の表情)を表した。前漢の蘇武は匈奴に捕えられても符節を守り続けた。それに比べ簡単に符節を捨てた彼を陶侃は笑ったのである。


 張健は弘徽こうびらが自分に対して二心を抱いていると疑い、全て殺してしまった。


 その後、水軍を率いて延陵から呉興に入ろうとした。それに対して揚烈将軍・王允之おういんしが張健と戦って大破し、男女一万余口を獲た。


 敗れた張健は韓晃、馬雄ばゆうらと西の故鄣に向かった。


 しかし郗鑒ちかんが参軍・李閎りこうを派遣して追撃させ、平陵山で追いついて全て斬った。


 当時は兵火の後で、東晋の宮闕が灰燼と化していたため、建平園を皇宮にした。


 温嶠は豫章への遷都を欲し、三呉の豪族は会稽に都を置くことを請うた。両者の論が紛糾して決断できなかったため、司徒・王導がこう言った。


「孫仲謀(孫権)も劉玄徳(劉備)も、共に『建康は王者が住む地だ』と言った。古の帝王は、必ずしも多寡に基づいて都を移したのではない。本業に務めて節約すれば、なぜ凋落を憂いる必要があるのだろうか。もし農事を修めなかったら、楽土でも廃墟になってしまう。そもそも、北寇が浮遊して我々の隙を伺っているので、一旦、弱い姿を示して、蛮越に逃げてから、そこで望実(名声と実力)を求めるのは、懼らく良計ではない。今はただ安静にしてここを鎮守するべきであり、そうすれば群情も自然に安んじるはずだ」


 こうして遷都は行われなかった。


 その後、褚翜ちょしょうを丹楊尹に任命した。


 当時は民物(民と物資)が喪失していたが、褚翜が散亡(離散逃亡した者)を集めて収容したため、京邑がやっと安定した。


 三月、東晋が蘇峻を平定した功績を論じて、征西大将軍・陶侃を侍中・太尉に任命し、長沙郡公に封じて、都督交広寧州諸軍事を加えた。


 車騎大将軍(または「車騎将軍」)・郗鑒を侍中・司空に任命し、南昌県公に封じた。


 平南将軍・温嶠を驃騎将軍・開府儀同三司とし、散騎常侍を加えて、始安郡公に封じた。


 陸曄の爵位を江陵公に進めた。


 その他にも侯・伯・子・男の爵位を下賜された者が甚だ多数おり、それぞれ差をつけて封拝(封爵・任官)された。


 卞壼と二子の卞眕、卞盱および桓彝、劉超、鍾雅、羊曼、陶瞻は、全て諡号を贈られた。


 路永ろえい、匡術、賈寧かねいは蘇峻の党でしたが、蘇峻が敗れる前に、蘇峻から去って朝廷に帰順した。


 王導が賞として官爵を与えようとしたが、温嶠がこう言った。


「路永らは皆、蘇峻の腹心で、最初に禍根を為したので、これ以上の罪はなく、晩くになって改悟したとはいえ、まだ前の罪を贖うには足りません。命が助かっただけでも、充分幸せなことです。どうしてまた褒寵(褒賞・寵遇)する必要があるのでしょうか」


 王導は中止した。


 右光禄大夫・陸曄を衛将軍・開府儀同三司にした。


 陶侃は江陵が偏遠なので、鎮を巴陵に遷した。


 朝議は温嶠を朝廷に留めて輔政させたいと思っていた。しかし温嶠は王導が先帝に委任されていたため、固辞して藩に還った。


 但し、京邑が荒廃して資用(物資、費用)を供出できなくなっていたため、資蓄(物資の貯蓄)を留めて器用(器物。必要物資)をそろえてから、武昌に還った。


 成帝が石頭を出た時、庾亮ゆりょうが成帝に謁見して、稽顙哽咽(叩頭してすすり泣くこと)した。成帝は詔を発して、庾亮を大臣と共に御座に登らせた。


 翌日、庾亮がまた泥首謝罪して(「泥首」は顔に泥を塗ること、または顔を地につけて叩頭すること)、引退を乞い、全門を挙げて山海に放逐されることを欲した。


 成帝は尚書や侍中を派遣し、手詔(直筆の詔)で慰喩してこう伝えた。


「これは社稷の難であり、舅(あなた。母の兄弟)の責任ではない」


 庾亮は上書して自らこう陳述した。


「祖約、蘇峻が凶逆をほしいままにしましたが、その罪は私から発したものです。一寸ごとに斬られて殺戮されたとしても、七廟の霊に謝り、四海の譴責を塞ぐには足りません。朝廷はまた何の道理によって私を人次(人臣の列)の中にならべ、私はまたどの顔によって自分を人理(人臣の道理)の中に列するのでしょうか。たとえ陛下が寛宥を垂らして、この庾亮の首を保全させたとしても、やはり私を棄てて、朝廷から追放するべきです。そうすれば、天下が勧戒の綱(善を勧めて悪を戒めるという原則・道理)を少しでも知ることができます」


 成帝は優詔(優待・慰喩を示す詔)を発して同意しなかった。それでも庾亮は山海に遁逃しようと欲し、暨陽から東に出た。


 しかし成帝が官員に詔を発して舟船を押収させたため、庾亮は山海への移住をあきらめて外地を鎮守することで、朝廷に貢献することを求めた。


 朝廷は庾亮を朝廷から出して都督豫州揚州之江西宣城諸軍事・豫州刺史に任命し、宣城内史を兼任させ、蕪湖を鎮守するように命じた。


 陶侃と温嶠は蘇峻を討伐した時、檄文を征鎮(各地の拠点)に送り、それぞれ兵を率いて入援させた。


 しかし、湘州刺史・益陽侯・卞敦べんとんは兵を擁したまま赴かず、軍糧も供給せず、ただ督護を派遣して、数百人を率いて大軍の後に従わせただけだったため、朝野で驚嘆し不思議がらない者はいなかった。


 蘇峻が平定されると、陶侃が上奏して、卞敦が軍の士気を挫き、傍観して国難に赴かなかったことを訴え、檻車で収監して廷尉に送るように請うた。


 王導は、喪乱の後には寛宥を加えるべきだと考え、卞敦を安南将軍・広州刺史に転任させたが、卞敦が病のため赴かないので、朝廷に召して光禄大夫・領少府にした。


 しかし卞敦は憂慮して死んでしまった。


 朝廷は卞敦に本官(元の官位)を追贈して散騎常侍を加え、諡号を「敬」とした。


 四月、東晋の驃騎将軍・始安公・温嶠が死に、豫章に埋葬された。東晋の混乱を何度も鎮めるために動いた名臣のあまりにも早い死であった。


 朝廷は温嶠のために、元・明二帝陵の北に大墓を造営しようとした。しかし太尉・陶侃が上表して諫めた。


「温嶠の忠誠は聖世において顕著になり、勲義は人神を感動させました。もし亡くなっても知覚があるなら、今日の労費の事をどうして喜ぶでしょうか。陛下の慈恩によって、移葬を停止することを願います」


 成帝は詔を発してこの意見に従った。


 温嶠の軍司であった平南軍司・劉胤りゅういんを江州刺史に任命した。


 陶侃と郗鑒がそろって劉胤は方伯(地方の長)の才ではないと言ったが、司徒・王導は従おうとしなかった。


 ある人が王導の子・王悦おうえつにこう言った。


「今は大難の後なので、綱紀が停滞しており、江陵から建康に至る三千余里では、流民が万を数えて江州に分布しています。江州は国の南藩であり、要害の地です。しかし劉胤は驕慢放縦な性によって、臥してこれに対しているので、たとえ外変がなくても必ず内患があるでしょう」


 しかし王悦は、


「これは温平南(平南将軍・温嶠)の意だ」


 と言った。


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