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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争
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前趙帝・劉曜

 十一月、後趙王・石勒せきろくは前趙帝・劉曜りゅうようによって包囲された洛陽を自ら兵を率いて救おうとしたが、僚佐・程遐ていからが固く諫めてこう言った。


「劉曜は千里に深入りしているので、その形勢は久しく支えることができません。大王が自ら動くべきではなく、もし動いたら万全ではなくなります」


 これを聞いて後趙王は大いに怒って剣に手を置き、程遐らを叱咤して退出させた。


「右侯……」


 彼は嘆いた。張賓が居れば、素晴らしい策を提示してくれたはずである。その彼がいないことに彼は嘆いたのである。


「どうしたものか……」


 そう呟いた時、ふとある男が思い浮かんだ。


「まだやつの意見を聞いていない」


 後趙王は牢屋にいた徐光じょこうを釈放させ、招くことにした。かつて自分を怒らせた男であるが、処刑する気には何故かならず、ここまで生かしてきた人物である。


 徐光が来ると彼にこう言った。


「劉曜は一戦の勝利に乗じて洛陽を包囲した。凡人どもは皆、その勢いには当たることができないと思っている。しかし劉曜は帯甲(甲冑を着た将兵)が十万もいながら、一城を攻めて百日経っても克てずにいる。軍が長期の出兵で衰えたら、兵が怠惰になるものなので、我々の初鋭(勢いを失っていない精鋭)でこれを撃てば、一戦で擒にできると思わないだろうか。もし洛陽が失陥したら、劉曜は必ずや自ら冀州に攻めて来ることだろう。黄河から北に席巻して来たら、我が大事が去ることになる。程遐らは私が行くことを欲しないが、お前はどう思うか?」


 徐光はこう答えた。


「劉曜は勢いに乗じていますが、兵を進めて襄国に臨むことはできず、逆に洛陽を包囲しています。ここから、彼には何も為せないことが分かります。大王の威略によってこれに臨めば、彼は必ず旗を望み見ただけで奔敗することでしょう。天下を平定するのは、今の一挙にかかっています。機会を失ってはなりません」


 石勒は笑って、


「徐光の意見が正しい」


 と言い、内外に戒厳させて、諫言する者がいたら斬ることにした。


 石堪せきかん石聡せきそうおよび豫州刺史・桃豹とうひょうらにそれぞれ現有の衆を統率させて、滎陽で集結させた。


 中山公・石虎せきこが兵を進めて石門を占拠し、石勒も自ら歩騎四万を率いて金墉に向かい、大堨(渡し場の名。延津の近く)から黄河を渡った。


 後趙王が徐光に言った。


「劉曜が成皋関で兵を集結させているなら、上策だ。洛水で阻むようなら、その次だ。そのまま洛陽の包囲を続けるようならば、擒になるだけだろう」


 十二月、後趙の諸軍が成皋に集まった。歩卒六万、騎兵二万七千という数である


 石勒は漢趙の守備兵がいないのを見て大いに喜び、手を挙げて天を指してから額に手を当てて、


「これは天意だ」


 と言った。


(天が俺に勝てと言っている)


 人から獣と見下されてきた自分に天が勝てと言っているのである。


(俺たちにも天を動かす志がある。そういうことだろう劉淵……)


 後趙王は甲冑をたたんで人馬に牧(声を立てないために口に入れる木片)をくわえさせ、間道から兼行して鞏・訾の間に出た。


 この時の前趙帝は専ら寵臣と飲博(飲酒や賭博)をしており、士卒を慰撫していなかった。左右に諫める者がいても、前趙帝は怒って妖言とみなし、斬ってしまっていた。


 後趙軍が既に渡河したと聞いて、やっと滎陽の守備を増やして黄馬関を閉じることを議論し始める有様であった。


 間もなくして、洛水の斥候が後趙の前鋒と交戦し、羯人を捕えて前趙帝に送った。


 前趙帝が問うた。


「大胡(石勒)は自ら来たのか?その衆はどれほどだ?」


 羯人はこう言った。


「王が自ら来た。軍の勢いは甚だ盛んだ」


 漢趙帝は顔色を変え、金墉の包囲を撤収させて洛西に陣を構えた。十余万の兵がおり、陣は南北十余里に渡った。


 しかし後趙王はそれを眺め見るとますます喜び、左右の者に、


「祝賀することになる」


 と言って、歩騎四万を率いて洛陽城に入った


 石虎が歩卒三万を率いて城北から西に向かい、前趙の中軍を攻めた。


 石堪、石聡らもそれぞれ精騎八千を率いて城西から北に向かい、前趙の前鋒を撃ち、西陽門で大戦した。


 後趙王も自ら甲冑を身に着けて、閶闔門を出て挟撃した。


 前趙帝は若い頃から酒が好きで、末年になったら更に甚だしくなっていた。後趙王が至った時も戦の前に数斗の酒を飲んでいた。


 この時、常に乗っている赤馬が理由もなく跼頓したため、前趙帝は小馬に乗ることにした。出陣に及んで更に一斗余の酒を飲んだ。


 因みに「跼」は脚を曲げたまま伸ばせなくなること、「頓」は首を下げたまま挙げられなくなることである。馬が転んだまま立ち上がれなくなったようである


 前趙帝は西陽門に至ってから、陣を指揮して平地で陣を構えさせた。ところが、その機に乗じて石堪が攻撃を開始し、前趙兵は大いに潰えた。


 前趙帝は昏酔状態で退走したが、馬が石渠に落ちて、冰上に転落した。十余カ所に傷を負い、三カ所の傷が内臓に達した。こうして前趙帝は石堪に捕えられた。


 後趙王は前趙兵を大破して五万余級を斬首した。その後、令を下した。


「擒にしたいと思っていたのは一人だけであり、今、既にそれを獲た。よって、将士に鋒を抑えて鋭を止めるように勅令し、敵兵には自由に帰順の路に就かせることにする」


 前趙帝が石勒に会って言った。


「石王は重門の盟をしっかり覚えているか?」


 310年に当時、始安王だった前趙帝と後趙王が共に河内を包囲した時の事を指すようである。


 後趙王は徐光からこう言わせた。


「今日の事は、天がそうさせたのだ。また何を言う必要があるか」


 兵を還し、征東将軍・石邃せきすいに兵を率いて劉曜を護送させた。因みに石邃は石虎の子である。


 前趙帝の傷がひどかったため、馬輿(馬車)に乗せて、医者の李永りえいに同乗させた。前趙帝が襄国に至ると後趙王は彼を永豊小城に住ませて妓妾を与え、兵を配置して包囲させた。


 また、劉岳りゅうがく劉震りゅうしんらを派遣し、男女を従わせて、盛服(華美な衣服)で会いに行かせた。どちらも捕虜となっていた人物である。


 前趙帝は彼らに言った。


「私は貴公らが灰土になって久しいと思っていた。石王の仁厚によって、全て寛恕されて今に至っていたのか。私は石佗を殺したことを、とても後悔している。今日の禍は、自分で招いたものだ」


 前趙帝は劉岳、劉震らを留めて終日宴を開いてから去らせた。


 後趙王は前趙帝から太子・劉熙りゅうきに信書を書かせて、速く投降するように諭させた。


 しかし劉曜は、劉熙と諸大臣に、


「社稷を維持せよ。私のために意思を変えてはならない」


 と、だけ命じた。


 後趙王はこれを見て憎み、久しくして前趙帝を殺した。


 前趙帝・劉曜という人は決して無能の人物ではなかった。戦においては強く、政治手腕が無いわけではなかった。しかしながら多くの敵を自ら作ったために国力を高めることができず、戦争ばかりであった。そして繰り返し、自ら戦に動かなければならず安定した政務を行うことができなかった。そのため自らの滅亡を速めてしまった。




 

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