司馬瑋
楚王・司馬瑋という人は剛毅であるものの、ひねくれもので人殺しを好むという悪癖を持っていた。
そのため太宰・司馬亮と太保・衛瓘は彼を嫌い、彼の兵権を奪うべきであると考えるようになり、司馬瑋に代えて臨海侯・裴楷を北軍中候に任命しようとした。
このことに司馬瑋が憤怒したため、それを聞いた裴楷は中候の職を拝受しようとしなかった。
司馬亮は再び衛瓘と謀り、司馬瑋と諸王をそれぞれの封国に送り出そうとした。
「おのれぇ、太宰は我らをないがしろにするつもりか」
司馬瑋は激怒していると彼の寵愛している長史・公孫宏と舍人の岐盛の二人は司馬瑋に進言して賈南風に近づくように勧めた。
司馬瑋がそれに従うと賈南風は司馬瑋を朝廷に留めて領太子少傅に任命した。
かつて岐盛は楊駿と仲が良かったにも関わらず、彼の誅殺時には媚を売って生き残った。衛瓘は彼の節操の無さを嫌い、逮捕しようとした。
すると岐盛は公孫宏と謀り、司馬瑋の命と偽って、積弩将軍・李肇に賈南風の前で司馬亮と衛瓘を讒言させた。李肇は、
「司馬亮らが廃立を謀ろうとしています」
と告げた。
かねてから衛瓘を怨んでいた賈南風は司馬亮と共に執政を行い、自分の邪魔をすると思い、彼らの排除に動くことにした。
彼女の強さは決断力の速さと手段の選ばなさである。
六月、賈南風は西晋の恵帝・司馬衷に手詔(直筆の詔)を作らせて司馬瑋に下賜することにした。
「太宰(司馬亮)と太保(衛瓘)は伊・霍の事(伊尹と霍光の故事。君主を廃立して実権を握ること)を為そうと欲している。王(司馬瑋)は詔を宣布し、淮南、長沙、成都王に命じて諸宮門に駐屯させ、司馬亮および衛瓘の官を免じるべきである」
という内容である。
ここにある淮南王は司馬允、長沙王は司馬乂、成都王は司馬穎のことで、三人とも武帝の子、恵帝と司馬瑋の弟である。
夜、彼女は黄門を派遣して司馬瑋に詔を授けた。
司馬瑋が覆奏(上奏して内容を確認すること)しようとしたが、黄門がこう言った。
「事は漏洩を恐れます。覆奏は密詔の本意ではありません」
司馬瑋は単純な人物であり、その通りであると思うと同時に、これを機に怨みを晴らすことができると考え、ついに本軍(司馬瑋が掌管している北軍)を指揮し、矯詔(偽の詔)を発して三十六軍(洛城内外に駐留する三十六軍)を召集し、こう告げた。
「二公が秘かに叛乱を図ったため、私は今、詔を受けて中外諸軍を都督することになった。諸々の直衛(宿直・警衛)している者は、皆、厳しく警備を加えよ。外営にいる者は、それぞれ直接、行府(外地に設けられた軍務の官府)に赴き、天道に従っている者を助けて謀反した者を討て」
更に矯詔を発してこう宣言した。
「司馬亮と衛瓘の官属は一切を不問とし、全て罷免して解散させる。もし詔を奉じなければ、軍法によって処理する」
司馬瑋は公孫宏と李肇を派遣し、兵を率いて司馬亮の府を包囲させた。また、侍中・清河王・司馬遐(武帝の子。恵帝と司馬瑋の弟)に衛瓘を逮捕させた。
司馬亮の帳下督・李龍が司馬亮に言った。
「外で変事が起きました。これに対抗することを請います」
しかし司馬亮は李龍の意見を聴かなかった。この時点でそこまでの状況では無いと彼は思っていたようである。
すると突然、兵が壁に登って大呼した。
司馬亮はそれに驚き、
「私に二心はない。なぜこのような事になったのだ。詔書を見ることはできないのだろうか?」
公孫宏らは同意せず、兵に攻撃を促した。
長史・劉準が司馬亮に言った。
「これを観るに、姦謀に違いありません。府中には俊乂(優秀な人材)が林のようにいますので、まだ力戦できます」
司馬亮はやはり意見を聴かず、ついに李肇に捕えられた。司馬亮は嘆いて、
「私の忠心は天下に説明して示すことができる」
と言い、世子・司馬矩と共に死んだ。この司馬亮の死から、西晋王朝を滅亡に導くことになる「八王の乱」が始まることになる。
衛瓘の左右の者も司馬遐の矯詔を疑い、逮捕を拒むように請うた。まずは自ら上表し、答えを待ってから刑に就いても晩くはない、と進言します。しかし衛瓘も聴き入れなかった。
衛瓘が司空だった頃、帳下督・榮晦が罪を犯して排斥され。
この時、榮晦も司馬遐に従っており、衛瓘を逮捕すると、すぐに衛瓘および子や孫合わせて九人を殺した。司馬遐はこれを制止できなかった。
衛瓘の孫である衛璪と衛玠はこの時、医者の家におり、難を免れることができた。
岐盛が司馬瑋に進言した。
「このまま兵勢に乗じて賈・郭を誅し、そうすることで王室を正して天下を安んじるべきです」
今、自分たちに良い顔をしている賈南風らは必ずや自分たちに牙を向くのはずなのである。
しかし司馬瑋は躊躇して決断できなかった。
ちょうど空が明るくなった。
太子少傅・張華が董猛を使って賈南風にこう説いた。
「楚王が既に二公を誅したので、天下の威権が全て彼に帰しています。あなた様は何をもって自らを安んじるのでしょうか。司馬瑋を専殺の罪(勝手に重臣を殺した罪)によって誅すべきです」
今、大軍を有している司馬瑋は邪魔になると考えていた賈南風は、
(早く動くことが肝心か……)
と、思い張華の進言に納得した。
当時は内外が混乱しており、朝廷も恟懼(恐れて混乱すること)してどうすればいいか分からない状態であった。そこで張華が恵帝に報告し、殿中将軍・王宮を派遣して、騶虞幡を持って衆人を指揮させた。王宮が、
「楚王は詔を偽った。彼の指示を聴いてはならない」
と言うと、衆人は皆、武器を放って逃走した。司馬瑋の左右には一人もいなくなり、彼はもはや為す術がなく、捕えられて廷尉に下された。
数日後、司馬瑋は斬られた。「八王の乱」における二人目の犠牲者である。
処刑される時、司馬瑋は懐から青紙の詔(司馬亮粛清を命じた詔)を出し、涙を流して監刑尚書・劉頌に示し、こう言った。
「幸いに先帝のおかげでこの世に生まれながら、このような冤罪を受けることになるとは……」
公孫宏と岐盛も併せて三族を皆殺しにされた。
司馬瑋が兵を動かした時、隴西王・司馬泰(司馬馗の子。司馬馗は司馬懿の弟です)が兵を整えて司馬瑋を助けようとしたが、祭酒・丁綏が諫めた。
「あなた様は宰相となったので、軽率に動くべきではありません(当時、司馬泰は司空)。しかも夜中に起きた非常事態なので、人を派遣して確実な消息を審理するべきです」
司馬泰はこの意見に従って行動を起こさなかった。
衛瓘の娘が国臣(国君の臣属)に書を送った。
「父の名諡(名声・諡号)が顕かになっていないのに、一国がこの事に対して。黙ったまま無言でいることを、いつも不思議に思っています。『春秋』の義が失われていることについて、その責任はどこにあるのでしょうか?」
すると衛瓘の元部下であった太保主簿・劉繇らが黄幡(黄色い旗)を持って登聞鼓(諫言する時に敲く太鼓。「登聞鼓」の名は魏・晋の間に始まった)を敲き、上言した。
「先頃、矯詔の者(司馬遐)が至ると、衛瓘は即時、章綬を奉送して単車で命に従いました。矯詔の文の通りならば、公の官を免じるだけのはずでしたが、元給使・榮晦がすぐに公の父子および孫を捕え、一時に斬戮しました。真偽を検証し尽くして明確な刑を加えることを乞います」
恵帝は詔によって榮晦を族誅した。
また、追って司馬亮の爵位を恢復し、諡号を「文成」とした。
衛瓘は蘭陵郡公に追封して諡号を「成」とした。
この後、賈南風が朝廷で専権し、親党に任を委ねるようになった。賈模を散騎常侍に任命して侍中を加えた。
賈謐と賈南風が謀り、張華は庶姓(異姓。賈氏ではないこと)なので逼上の嫌(皇帝を脅かしているという疑い)がなく、儒雅(学識が深いこと)で策略があり、衆望を集めていたため、朝政を委ねようと欲した。
しかし躊躇して決断できないため、裴頠に意見を求めた。郭槐(賈后の母)が裴頠の従母(母の姉妹)だったため、賈南風らは裴頠を信頼していたため彼に意見を求めたのである。
裴頠も賛成したため、張華を侍中・中書監に任命し、裴頠も侍中にした。
また、安南将軍・裴楷を中書令にして侍中を加え、右僕射・王戎と並んで機要を管理させた。
張華は帝室に忠を尽くして過失や遺漏を補い、賈南風も凶険とはいえ、張華を敬重した。
賈模と張華、裴頠が同心になって輔政したおかげで、数年の間は、暗君が上にいても朝野は安静を保った。これは張華らの功であると評価されている。




