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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争
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張茂

 324年


 東晋の会稽内史・周札しゅうれいは一門から五侯が出て、宗族が強盛になっていた。そのため呉士で比べられる者がいなかった。王敦はこれを嫌った。


 王敦が病を患った時、銭鳳が王敦に対して早く周氏を除くように勧め、王敦は納得した。


 周嵩しゅうすうは兄・周顗の死が原因で、心中で常に憤憤としていた。


 王敦は子がいなかったので、王含の子・王應おうりょを養って後嗣にしたが、かつて周嵩が衆人の中で、


「王應は兵を統率するべきではない」


 と言ったため、王敦はそれを憎んでいた。


 周嵩と周札の兄の子・周莚しゅうていはどちらも王敦の従事中郎になっていた。


 この頃、道士・李脱りだつが妖術によって衆人を惑わし、士民の多くが李脱を信じて仕えるようになっていた。


 王敦が、


「周嵩、周莚と李脱は造反を為そうと謀っている」


 と誣告し、周嵩、周莚を捕えて軍中で殺した。李脱も建康の市で斬られた


 また、参軍・賀鸞がおうを派遣して呉の沈充しんじゅうと協力させ、周札の諸兄の子を全て殺させた。


 その後、沈充と賀鸞が兵を進めて会稽を襲った。周札は抗戦の果て戦死した。


 






 後趙の将兵都尉・石瞻せきせんが下邳と彭城を侵し、東莞と東海を取った。


 兗州刺史・劉遐((りゅうか)は退いて泗口を守った。


 後趙の司州刺史・石生せきせいが前趙の河南太守・尹平いんへいを新安で攻めて斬った。石生は五千余戸を奪って帰還した。


 この後、二趙が本格的に対立するようになり、日々互いに攻撃や略奪を繰り返したために、河東・弘農の間では民が困窮して生活できなくなっていった。


 石生が許昌・潁川を侵したことにより、捕虜が万を数えた。彼は続けて陽翟の郭誦かくようを攻めたが、郭誦は石生と戦って大破した。


 石生は退いて康城を守った。


 後趙の汲郡内史・石聡せきそうは石生が敗れたと聞いて、馳せて救援に向かった。兵を進めて司州刺史・李矩りくと潁川太守・郭黙かくもくを攻め、どちらも破った。


 






 成漢の武帝・李雄りゆうの后・任氏には子ができず、妾の子が十余人いた。


 武帝は兄・李蕩の子である李班りはんを太子に立てて、任后に母として育てさせた。


 群臣が諸子を太子に立てるように請うたが、武帝はこう言った。


「私の兄は先帝(景帝・李特。李蕩と李雄の父)の嫡統であり、奇才と大功があったが、事が成就しようとした時に、早世してしまった。私は常にこれを悼んできた。しかも、班は仁孝で好学なので、必ず先烈(先人の功業)を担うことができる」


 太傅・李驤りじょうと司徒・王達おうたつが諫めた。


「先王は後嗣を立てる時に必ず自分の子を選びましたが、これは定分(定められた名分)を明らかにして簒奪を防ぐためです。宋の宣公と呉の餘祭から教訓を観るに足ります」


 春秋時代、宋の宣公と呉の餘祭は、自分の死後に弟を立てさせ、その結果、国を乱すことになったということである。


 しかしながら武帝は諫言を聞かなかった。


 李驤が退出してから涙を流して言った。


「乱はここから始まるだろう」


 李班の為人は謙恭で士にへりくだり、動けば礼法を遵守した。そのため、いつも大議があるたびに、武帝は李班に参与させた。


 







 五月、前涼の張茂ちょうもが病を患い、世子・張駿ちょうしゅんの手をとって、泣いてこう言った。


「我が家は代々、孝友・忠順によって名が知られ、称えられてきた。今は天下が大いに乱れているが、汝はこれ(孝友忠順な家風)を継承し、失ってはならない」


 張茂は更に令を下してこう言った。


「私の官(官位。漢趙から与えられた涼州牧・涼王の位号)は王命によるものではない。状況に応じてとりあえず為した事なので、どうして栄誉とみなせるだろう。私が死んだ日には、白帢(白い帽子。仕官していない者が被るもの)によって棺に入れよ。朝服によって納棺してはならない」


 その日、張茂が死んだ。


 当時、西晋の愍帝の使者・史淑ししゅくが姑臧にいた。長安が陥落してから史淑は帰る場所がなくなったため、姑臧に留まっていたのである。


 左長史・氾禕はんい、右長史・馬謨ばばくらが史淑を使って張駿を大将軍・涼州牧・西平公に任命させ、境内の囚人を赦免した。


 前趙帝・劉曜りゅうようが使者を送って張茂に太宰の官位を追贈し、諡号を成烈王とした。また、張駿を上大将軍・涼州牧・涼王にした。

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― 新着の感想 ―
[一言] >道士・李脱が妖術によって こういう奴らのほうが、妖怪連中より社会に害をあたえるのがなんとも。
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