張茂
324年
東晋の会稽内史・周札は一門から五侯が出て、宗族が強盛になっていた。そのため呉士で比べられる者がいなかった。王敦はこれを嫌った。
王敦が病を患った時、銭鳳が王敦に対して早く周氏を除くように勧め、王敦は納得した。
周嵩は兄・周顗の死が原因で、心中で常に憤憤としていた。
王敦は子がいなかったので、王含の子・王應を養って後嗣にしたが、かつて周嵩が衆人の中で、
「王應は兵を統率するべきではない」
と言ったため、王敦はそれを憎んでいた。
周嵩と周札の兄の子・周莚はどちらも王敦の従事中郎になっていた。
この頃、道士・李脱が妖術によって衆人を惑わし、士民の多くが李脱を信じて仕えるようになっていた。
王敦が、
「周嵩、周莚と李脱は造反を為そうと謀っている」
と誣告し、周嵩、周莚を捕えて軍中で殺した。李脱も建康の市で斬られた
また、参軍・賀鸞を派遣して呉の沈充と協力させ、周札の諸兄の子を全て殺させた。
その後、沈充と賀鸞が兵を進めて会稽を襲った。周札は抗戦の果て戦死した。
後趙の将兵都尉・石瞻が下邳と彭城を侵し、東莞と東海を取った。
兗州刺史・劉遐((りゅうか)は退いて泗口を守った。
後趙の司州刺史・石生が前趙の河南太守・尹平を新安で攻めて斬った。石生は五千余戸を奪って帰還した。
この後、二趙が本格的に対立するようになり、日々互いに攻撃や略奪を繰り返したために、河東・弘農の間では民が困窮して生活できなくなっていった。
石生が許昌・潁川を侵したことにより、捕虜が万を数えた。彼は続けて陽翟の郭誦を攻めたが、郭誦は石生と戦って大破した。
石生は退いて康城を守った。
後趙の汲郡内史・石聡は石生が敗れたと聞いて、馳せて救援に向かった。兵を進めて司州刺史・李矩と潁川太守・郭黙を攻め、どちらも破った。
成漢の武帝・李雄の后・任氏には子ができず、妾の子が十余人いた。
武帝は兄・李蕩の子である李班を太子に立てて、任后に母として育てさせた。
群臣が諸子を太子に立てるように請うたが、武帝はこう言った。
「私の兄は先帝(景帝・李特。李蕩と李雄の父)の嫡統であり、奇才と大功があったが、事が成就しようとした時に、早世してしまった。私は常にこれを悼んできた。しかも、班は仁孝で好学なので、必ず先烈(先人の功業)を担うことができる」
太傅・李驤と司徒・王達が諫めた。
「先王は後嗣を立てる時に必ず自分の子を選びましたが、これは定分(定められた名分)を明らかにして簒奪を防ぐためです。宋の宣公と呉の餘祭から教訓を観るに足ります」
春秋時代、宋の宣公と呉の餘祭は、自分の死後に弟を立てさせ、その結果、国を乱すことになったということである。
しかしながら武帝は諫言を聞かなかった。
李驤が退出してから涙を流して言った。
「乱はここから始まるだろう」
李班の為人は謙恭で士にへりくだり、動けば礼法を遵守した。そのため、いつも大議があるたびに、武帝は李班に参与させた。
五月、前涼の張茂が病を患い、世子・張駿の手をとって、泣いてこう言った。
「我が家は代々、孝友・忠順によって名が知られ、称えられてきた。今は天下が大いに乱れているが、汝はこれ(孝友忠順な家風)を継承し、失ってはならない」
張茂は更に令を下してこう言った。
「私の官(官位。漢趙から与えられた涼州牧・涼王の位号)は王命によるものではない。状況に応じてとりあえず為した事なので、どうして栄誉とみなせるだろう。私が死んだ日には、白帢(白い帽子。仕官していない者が被るもの)によって棺に入れよ。朝服によって納棺してはならない」
その日、張茂が死んだ。
当時、西晋の愍帝の使者・史淑が姑臧にいた。長安が陥落してから史淑は帰る場所がなくなったため、姑臧に留まっていたのである。
左長史・氾禕、右長史・馬謨らが史淑を使って張駿を大将軍・涼州牧・西平公に任命させ、境内の囚人を赦免した。
前趙帝・劉曜が使者を送って張茂に太宰の官位を追贈し、諡号を成烈王とした。また、張駿を上大将軍・涼州牧・涼王にした。