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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争
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皇帝の死、軍師の死

 この年、前趙の羊献容ようけんようが世を去った。何度も皇后の地位を追われながら、何度も皇后になり、それでもなお生き残った波乱の人生を歩んだ女性であった。


『いつ、どこで死ぬかわからない日々を過ごしてきましたが……まさか床の上で死ねるとは思えませんでした』


 死の間際、彼女は綠珠りょくじゅにそう語ったという。


「ふん、幸せなことよね」


 乱世という中、羊献容は翻弄されながらも最後まで生き残り、天寿を全うしてみせた。


「運も良かったと言えるでしょうけど……それができずに散っていく者たちの多いものよね」


 彼女はそう呟く。


『ねえ、あなたはこれからどうするの?』


『さあ、どうしましょうね』


『なら、私みたいなのを助けてあげて』


『なぜ?』


『なんとなく……お願い』


 羊献容の言葉を思い出しながら彼女は目を細める。


「まあこの時代、弱い立場だった連中に味方するのも面白いかもしれないわね」


 彼女はそう呟いて何処かへと消えて行った。





  七月、後趙の中山公・石虎せきこが太山を攻略し、徐龕じょがんを捕えて襄国に送った。


 後趙王・石勒せきろくは徐龕を囊(袋)に入れて、百尺の楼の上から落として殺し、王伏都らの妻子に命じて、徐龕の死体を割いて食べさせた。


 また、投降した徐龕の士卒三千人を阬(生き埋め)に処した。


 そんな中、東晋の兗州刺史・郗鑒ちかんは鄒山に十年おり、数万の兵を有していた。


 しかし戦が止まないため、百姓は饑饉に苦しみ、野鼠や蟄燕(冬の間、岩穴に隠れている燕)を掘って食糧にしていた。


 やがて、後趙に逼迫されたため、郗鑒は退いて合肥に駐屯した。


 尚書右僕射・紀瞻きせんが、郗鑒は声望が優れていて徳が高潔なので、朝廷に留まるべきだ、と考え、上書して召還するように請うた。


 そこで東晋の元帝・司馬睿しばえいは郗鑒を召して尚書に任命した。


 郗鑒が去ったため、徐・兗一帯では諸塢の多くが後趙に降った。後趙は守宰(郡県の長)を置いてそれらを慰撫した。


 


 八月、王敦おうとんが兄の王含おうふんを衛将軍にし、自ら寧益二州都督を兼任した。


 その数日後、荊州刺史・武陵侯・王廙おうよくが死んだ。


 それに合わせるように王敦は下邳内史・王邃おうすいを征北将軍・都督青徐幽平四州諸軍事に任命して淮陰を鎮守させ、衛将軍・王含を都督沔南諸軍事・領荊州刺史に、武昌太守・丹陽の人・王諒おうりょうを交州刺史に任命した。


 その後、王敦は王諒に命じて、交州刺史・脩湛しゅうじんと新昌太守・梁碩りょうせきを逮捕して殺させようとした。


 王諒が脩湛を誘い出して斬ったものの、梁碩は挙兵して龍編で王諒を包囲した。


 東晋の祖逖が死んでから、後趙がしばしば河南を侵し、襄城と城父を攻略して譙を包囲した。


 後趙軍が豫州刺史・祖約そやくの別軍を破った。それを受けて祖約は後趙軍を防げなくなったため、退いて寿春を拠点にした。


 後趙が陳留を取り、梁・鄭の間がまた騷然とした。


 そんな中、元帝は憂憤のため病を患い、閏十一月、元帝は内殿で世を去った。享年・四十七歳であった。


 司空・王導おうどうが遺詔を受けて新帝を輔政することになった。


 元帝という人は恭倹は余りあるほどであったが、明断が不足しており、そのため大業をまだ回復できないうちに、内部で禍乱が興ったと称された。


 彼の後を受け継いだのは太子・司馬紹しばしょうである。彼は皇帝の位に即き、大赦を行った。


 司馬紹の諡号は明帝というため、以後、東晋の明帝と書くことにする。


 明帝は幼い頃から聡明だったため、元帝に寵愛された。


 彼がまだ数歳だった頃、元帝(即位前の西晋時代)の膝の前に坐っていると、ちょうど長安から使者が来た。


 元帝がそれを機に明帝に問うた。


「汝は日(太陽)と長安のどちらが遠いと思うか?」


 明帝はこう答えた。


「長安が近いです。人が日(太陽)から来たとは聞いたことがないので、はっきりと知ることができます」


 元帝はこれを異とした(普通の子の答えではないと思った)。


 翌日、群僚と宴を開き、また明帝に同じ質問をすると、彼はこう答えた。


「日が近いです」


 元帝は色を失って、


「なぜ前回言ったことと異なるのだ?」


 と問うた。すると明帝はこう答えた。


「目を挙げたら日が見えますが、長安は見えません」


 元帝はますます奇とした(特別視した)という。


 その後、成長していった明帝は極めて孝順で、文武の才略があり、賢才を敬って客を愛し、文辞(文章・文学)を好む人物となっていった。


 当時の名臣である王導を始め、庾亮ゆりょう温嶠おんきょう桓彝かんそう阮放げんぼくら、全て明帝に優待された。


 かつて、聖人に対する真假の意(聖人の真偽に関する意見)について論じたことがあったが、王導らは彼を言い負かすことができなかった。


 また、明帝は武芸に習熟し、善く将士を慰撫した。そのおかげで、当時の東朝(東宮。太子宮)は済済(人材が豊富な様子)として、遠近が帰心していたという。













 十二月、前趙帝・劉曜りゅうようが自分の父母を粟邑に埋葬して大赦を行った。


 陵下の周りは二里、陵上の高さは百尺もあり、合計六万の人夫が用いられて、百日かけてやっと完成した。役者は夜も脂燭を使って作業を継続し、民がこれを甚だ苦とした。


 これに対して、游子遠ゆうしえんが諫めたが、前趙帝は聴き入れなかった。前趙帝という人は情が深すぎるところがある。


 前涼の張茂ちょうもが将軍・韓璞かんぼくを派遣し、兵を率いて隴西・南安の地を取らせ、秦州を置いた。南陽王・司馬保が既に死に、陳安ちんあんでは隴西・南安の地を有すことができなくなったため、張茂がこれを取ったのである。


 その頃、慕容廆ぼようかいが世子・慕容皝ぼようこうを派遣して段末柸を襲わせた。


 慕容皝は令支に入って居民千余家を奪い、帰還した。



 この頃、右司馬・程遐ていかは長史の張披ちょうひを大いに信任していたが、張賓は張披の才能を評価して別駕に推挙し、政事に参画させるということがあった。


 程遐は張披が自分の下を離れた事に不満を抱き、同時に張賓の権勢が盛んであることにも敵意を示すようになった。


 後趙王・石勒せきろくの世子の石弘せきこうの母は程遐の妹だったため、それを利用して密かに朝廷における地位を奪おうと画策した。程遐は妹の程氏(石弘の母)へ、


「張披は張賓と共に遊侠をなし、その門客は日に日に増えて百を超え、物を望めば誰しもがそれを送るような有様だ。これは社稷の利とはなりえない。張披を除いて国家を安んじるべきである」


 と讒言し、後趙王にこの事を伝えるよう頼んだ。程氏はこれを石勒に伝えると、石勒は張披に緊急の召集を掛け、すぐに来なかった事を理由にして殺害してしまった。


 この一件は張賓の耳にも届いたが、程遐の企みと知って敢えて何も反論しなかったという。


 その後、まもなく濮陽侯・張賓ちょうひん(諡号は景侯)は世を去った。


 後趙王はそのことを知ると哀哭して激しく悲痛して、こう言った。


「天は俺の大事を成就させようと欲しないのか。なぜ俺の右侯を奪うのがこのように早いのか」


 張賓が計画を立てる際は、動静を良く図って機会を逃さず、失敗する事は無かったという。後趙王の基業において張賓の功績はあまりにも多大であったため、石勒からの寵遇は破格であり、当時の群臣の中で及ぶものはなかった。


 しかし、張賓は謙虚に振る舞う事を忘れず、下士官に対しては胸襟を開いて接したため、賢者・愚者の区別なく心を寄せない者はいなかった。


 後趙王ですら朝会の度に必ず容貌を正してから接する程であり、石勒は常々張賓を賛嘆して、


「俺がいつも大事に臨み、思いを巡らして考えを纏める前に、右侯(張賓)はすでに決心しているのだ」


 と語っていたという。

 

 さて、程遐が張賓に代わって右長史になった。


 後趙王は程遐と議論して意見が合わないと、常に嘆いて、


「右侯が俺を捨てて去ったために、俺はこのような輩と事を共にさせるようになった。酷いことではないか」


 と言い、終日涙を流したという。

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