段文鴦
321年
二月、徐龕がまた衆人を率いて東晋に投降を請うた。
そのころ、前涼の張茂が霊鈞台を築き、土台の高さは九仞もあったという。
武陵の人・閻曾が夜に府門を叩いてこう叫んだ。
「武公(張軌の諡号)が私を遣わして、『なぜ民を労して台を築くのだ』と言わせました」
官員が妖言とみなして閻曾を殺すように請うたが、張茂は、
「私は確かに民を労している。閻曾は先君の命と称することで私を諫めたのだ。なぜ妖とみなすのか」
と言い、これを機に労役を中止した。
後趙の中山公・石虎は厭次で幽州刺史・段匹磾を攻撃し、孔萇が統内の諸城(段匹磾統治下の諸城)を全て攻略した。
段文鴦が段匹磾に言った。
「私は勇によって名が知られているので、民が恃みとしています。今、民が奪われているのを視ても救わないのは、臆病というものです。民が恃みとするところを失ったら、誰がまた我々のために命を棄てるでしょうか」
段文鴦は壮士数十騎を率いて出撃し、甚だ多数の後趙兵を殺したが、馬が疲労して、伏したまま起ちあがれなくなってしまった。
石虎が段文鴦に呼びかけた。
「あなたと私はどちらも夷狄なので、久しくあなたと共に一家になりたいと欲していました。今、天が私の願いに違えなかったので、ここで会うことができました。なぜまだ戦うのですか。武器を棄てることを請います」
しかし段文鴦は罵ってこう言った。
「汝は寇賊となり、死ぬべき日が来て久しくなる。私の兄(段疾陸眷)が私の策を用いなかったから、汝をここに至らせることができたのだ(段文鴦はかつて石勒との講和に反対していた)。私はたとえ闘って死んだとしても、汝のために屈することはないぞ」
段文鴦は馬から下りて困難な戦いを続け、長矛が折れても刀に持ち替えて戦いを止めなかった。
戦闘は辰(午前七時から九時)から申(午後三時から五時)に至った。
後趙兵が四面で馬羅披(馬の防具、泥除け)を解いて自分の盾にしながら前に進み、段文鴦を捕えようとした。
段文鴦はついに力が尽きて捕虜になり、城内の士気を一気に低下した。
これに恐れた段匹磾は単騎で東晋に帰順しようとした。
しかし邵続の弟・楽安内史・邵洎が兵をまとめて段匹磾の帰朝を妨害し、しかも東晋の使者・王英を捕えて石虎に送ろうとした。
段匹磾が色を正して邵洎を譴責し、こう言った。
「汝は兄の志を遵守することができず、私に迫って帰朝できないようにした。それだけでも既に甚だしいのに、更に天子の使者を捕えようと欲している。私は夷狄だが、このような事は聞いたことがないぞ」
邵洎は兄の子・邵緝、邵竺らと共に、棺を携えて(投降の姿)城を出て石虎に降った。
段匹磾も王英を南に帰らせてから、石虎に会いに行った。
段匹磾は石虎に会うとこう言った。
「私は晋の恩を受けており、志は汝を滅ぼすことにある。不幸にもここに至ったが、汝のために敬意を表すことはできない」
後趙王・石勒と石虎は段匹磾と兄弟の関係を結んでいたため、石虎はすぐに立ち上がって拝礼した。
石勒は段匹磾を冠軍将軍に、段文鴦を左中郎将に任命し、諸々の流民三万余戸を分散して本業に帰らせ、守宰(地方の長官)を置いて慰撫させた。
こうして幽・冀・并三州の地が全て後趙に入った。
段匹磾は後趙の儀礼・制度を受け入れず、常に晋の朝服を身に着けて晋の符節を持った。
久しくして、段匹磾、段文鴦、邵続とも後趙に殺された。
東晋の元帝・司馬睿が詔を発した。
「昔、漢の二祖(高祖と光武帝)および魏武(曹操)は、皆、良人なのに難に遭って奴隷になった者は、身分を回復した。西晋の武帝の時、涼州が敗亡して(涼州が鮮卑に占拠された事件を指す)、奴婢となっていた諸人も籍を回復されたものだ。これは累代の成規(代を重ねて守られてきた規則)である。よって、中原の良人で、難に遭って揚州諸郡の奴隷になった者は奴婢の身分を免じ、そうすることで徴兵、徭役の備えとする」
これは尚書令・刁協の謀によるものである。そのため、奴隷を奪われた豪族は刁協を怨むようになった。
東晋が尚書僕射・戴淵を征西将軍・都督司兗豫并雍冀六州諸軍事・司州刺史に任命して合肥を鎮守させ、丹陽尹・劉隗を鎮北将軍・都督青徐幽平四州諸軍事・青州刺史に任命して淮陰を鎮守させた。それぞれに符節を授けて兵を統領させた。
どちらも名分は胡を討つためとされたが、実際は王敦に備えるための配置であった。
劉隗は外にいたが、朝廷の機密と士大夫の進退に関して、元帝は全て劉隗と密謀した。
そんな中、王敦が劉隗に書を送った。
「近頃は陛下の信任があなたに向けられている。今は大賊がまだ滅びず、中原が鼎沸(沸騰した鼎のように混乱していること)としているので、あなたおよび周生の徒(周生のような者達。「周生」は周顗を指す。王敦は以前から周顗を憚っていた)と一緒に、王室に対して尽力し、共に海内を静めたいと欲している。もしうまくいくことであったら、国運がそれによって興隆するだろう。もし失敗することであったら、天下には永遠に望みが無くなる」
婉曲に自分と結べという言葉である。
劉隗はこう答えた。
「『魚は江湖において互いに忘れ、人は道術(道義。道を得た世界)において互いに忘れる』
魚は広い江湖において自分が魚であることすら忘れて自由に泳ぎ回り、人は正しい道においてそれぞれ自由に行動するものである。『荘子』の言葉が元になっている。
続けてこう言った。
「『股肱の力を尽くし、忠貞によってそれを発揮する』(春秋時代、晋の大夫・荀息の言葉)』これが私の志です」
婉曲に王敦との協力を断る言葉である。返書を得た王敦は甚だしく怒った。
元帝が驃騎将軍・王導を侍中・司空・假節・録尚書・領中書監に任命した。
元帝は王敦が原因で王導も疏忌(猜疑して疎遠にすること)していた。
そこで、御史中丞・周嵩が上書した。
「王導は忠誠実直で誠を尽くしており、大業を輔佐して完成させました。見識見聞がない臣下の言を聴いて疑似の説(正しいようで間違っている説)に惑わされるべきではありません。旧徳を放逐して、佞臣と賢才を同列にしたら、過去の恩を損なって将来の患(王導が王敦と組むこと)を招くことになります」
元帝は頗る感寤し、そのおかげで王導も身を守ることができた。
胡三省は、
「周顗兄弟が王導を保護した」
と解説している。
東晋の鎮西将軍・豫州刺史・祖逖は、戴淵が呉士だったため、たとえ才望(能力と声望)はあっても大義(または大志)と遠見(深遠な見識)はないとみなしていた。しかも祖逖は自分で道を開いて河南の地を收復したのに、戴淵は悠然とした様子として一旦においてそれを統領しに来たので、心中で甚だ不服であった。
また、王敦と劉隗、刁協の間で対立が生まれており、いずれ内乱が起きると聞くと、
「今まさに王朝のために中原を奪還せんとしている時に、身内で争い続けている。これでは志が果たせるはずが無いではないか」
と、激昂して病を患った。
九月、祖逖が雍丘で世を去った。
その死を知った豫州の士女は父母を喪ったように悲しみ、譙・梁の間では皆、祠を建てて祀った。
王敦は久しく野心を抱いており、祖逖が死んだと聞いてますます憚ることが無くなった。
十月、東晋が祖逖の弟に当たる侍中・祖約を平西将軍・豫州刺史に任命して祖逖の兵を統領させた。
しかし祖約には綏御(安撫・制御)の才がなく、士卒が帰心するところとはなれなかった。
以前、范陽の人・李産が乱を避けて祖逖を頼っていたが、祖約の志が異常なのを見て、親しい人にこう言った。
「私は北方が鼎沸(鼎が沸くように混乱すること)としているので、遠くからここに来て、宗族を保全することを望んだ。しかし今、祖約が為していることを観るに、相応しくない志が彼にはある。私は故郷での婚姻を理由に帰るつもりだ。彼に仕えてまたこの身を不義に陥れるわけにはいかない。汝らも目前の利によって長久の策を忘れてはならない」
こうして李産は子弟十余人を率いて間道から郷里に帰った。
その頃、後趙王は武郷の耆旧(声望がある高齢者)を全て召して襄国を訪ねさせ、共に坐して歓飲した。
彼が微賎だった時、隣に李陽という男が住んでおり、しばしば漚麻の池(「漚麻」は麻を水に浸して発酵させること)を争って殴り合っていた。そのため李陽は恐れて、今回の宴に来ようとしなかった。
そのことを知った後趙王は、
「李陽は壮士だ。漚麻は布衣の恨である(漚麻の件は、平民だった頃の恨み)。俺はまさに天下を兼併しようとしている。どうして匹夫(平民)を讎とすることがあろうか」
と言い、急いで李陽を招いて一緒に飲んだ。
更に彼は李陽の腕を引いて、
「俺はお前の拳をあきるほど浴びたが、お前も俺の拳をあきるほど浴びた」
と言い、これを機に李陽を参軍都尉に任命した。
その後、後趙王は武郷を豊・沛(西漢皇室の故郷)に比して三世の賦役を免除した。
また当時、民が本業を回復したばかりで資産や貯蓄が豊かではなかったため、酒の醸造を厳しく禁止する法令を制定した。
郊祀や宗廟ではすべて醴酒(甘酒)が用いられ、禁令が行われて数年後には、酒を醸造する者がいなくなったという。
そのようなことをしている中、後趙王は祖逖が死んだことを知った。
「そうか祖逖が死んだか」
「後を継いだのは弟の祖約であるとのこと、大した人物ではありません。これで豫州は我らのものになるのは時間の問題と言えましょう」
石虎がそう言う中、後趙王は張賓に言った。
「やつに百万の軍があれば、どうだっただろうか?」
「我々は並んで首だけになっていたかもしれません」
「やつが俺の配下だったら、どうだっただろうか?」
「大王が、天下を取るのが容易になったことでしょう」
「もし、俺がやつの配下だったらどうだっただろうか?」
「大王は祖逖を殺害し、独立なさることでしょう」
それを聞いた後趙王は笑った。
「その通りだ。流石は右侯よ」
彼はからからと笑いながら、
「祖逖は良いやつだった」
と、呟き酒を飲んだ。
十二月、東晋が慕容廆を都督幽平二州東夷諸軍事・車騎将軍・平州牧に任命し、遼東郡公に封じた。単于は以前のままである。
東晋の元帝・司馬睿は謁者を派遣して現地で印綬を授け、慕容廆が承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって官司・守宰(自分の官署・官吏や地方の長官)を置くことを許可した。
そこで慕容廆は僚属を配置し、裴嶷と游邃を長史に、裴開を司馬に、韓寿を別駕に、陽耽を軍諮祭酒に、崔燾を主簿に、黄泓と鄭林を参軍事に任命した。
この中の鄭林はかつて慕容廆から車牛・粟帛を贈られたが、全て受け取らず、野を耕して暮らしていたが、この事があったため、慕容廆に任用されたようである。
そしてここで慕容廆は子の慕容皝を世子に立てた。
東横(学舎。「東庠」とも書く)を建てて平原の人・劉讃を祭酒に任命し、慕容皝と諸生に命じて共に学業を受けさせた。慕容廆も暇ができたら自ら東横に臨んで聴講したという。勉強好きな人である。
慕容皝は雄毅(勇武剛毅)で権略が多く、経術を好んだため、国人に称賛されていた。
慕容廆は慕容翰を遷して遼東を鎮守させ、慕容仁に平郭を鎮守させた。
慕容翰は民夷を撫安して甚だ威恵があり、慕容仁も能力、名声がそれに次いでいたという。
拓跋猗㐌の妻・惟氏が代王・拓跋鬱律の強盛を嫌い、自分の子にとって不利になるのではないかと恐れたため、鬱律を殺して子の拓跋賀傉を立てました。大人の死者が数十人に上った。
この時、鬱律の子・拓跋什翼犍はまだ幼く、襁褓にいた。母の王氏が袴の中に隠してこう祈った。
「天がもし汝を活かそうとしているなら、泣いてはなりません」
拓跋什翼犍は久しい間、泣くことなく、禍から逃れることができた。彼は後に代国の王となり、更には彼の子孫が北魏を作ることになる。
惟氏が国政を専制するようになり、使者を送って後趙を聘問させました。後趙の人はこの使者を「女国使」と呼んだという。




