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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争

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司馬氏と王氏

 八月、東晋の梁州刺史・安南将軍・周訪しゅうほうが世を去った。


 周訪は善く士人を慰撫したため、衆人が皆、命を懸けて奮闘させることのできる名将であった。


 彼は王敦おうとんに不臣の心があると知って、心中で常に切歯(憤懣を表す)していた。そのため王敦も周訪が死ぬまでは、警戒して思うように動けなった。


「やっと死んでくれた」


 そう喜ぶ王敦は従事中郎・郭舒かくじょを派遣して襄陽軍を監督させたが、元帝が湘州刺史・甘卓かんたくを安南将軍・梁州刺史・督沔北諸軍事に任命して襄陽を鎮守させることにした。


 それを受けて郭舒が引き還そうとすると元帝が郭舒を招聘して右丞に任命しようとした。しかしこれに王敦は郭舒を留めて朝廷に送ろうとしなかった。


 東晋の柱の一つが折れた中、後趙王・石勒せきろくは中山公・石虎せきこを派遣し、歩騎四万を率いて徐龕じょかんを撃たせた。


 徐龕は妻子を送って人質とし、投降を乞うと、後趙王はこれに同意した。


 東晋の徐州刺史・蔡豹さいひょうが卞城に駐屯した。


 これを石虎が撃とうとしたため、蔡豹は退いて下邳を守ったが、そこに回り込んでいた徐龕に敗れた。


 石虎は兵を率いて封丘に城を築いてから引き還した。士族三百家を移して襄国崇仁里に置き、公族大夫を配置して統領させた。


 この頃、このような事件があった。


 後趙王は法を用いる姿勢が甚だ厳しく、「胡」という字を特に嫌って避けていた。


 宮殿が完成して門戸の禁令ができたばかりの時、酔った胡人が馬に乗ったまま止車門に突入したことがあった。


 石勒が大怒して宮門小執法・馮翥ふうしょを譴責すると、馮翥は恐惶して諱(忌避。「胡」という字を避けること)を忘れ、こう答えた。


「先ほど、酔胡(酔った胡人)がおり、馬に乗って馳せ入ったので、激しく叱責して防ごうとしましたが、話ができなかったのです」


 これに後趙王は怒るどころか笑って、


「胡人はまさに元々話をするのが難しいものだ」


 と言い、寛恕して罪を問わなかった。


 その後、後趙王は張賓ちょうひんに領選(官人登用の管理を兼任すること)させた。初めは官位に五品を定め、後に改めて九品を定めた。また、公卿および州郡に命じ、秀才・至孝・廉清・賢良・直言・武勇の士を毎年各一人挙げさせた。


 そのころ、東晋の徐州刺史・蔡豹は徐龕に敗れてから、建康を訪ねて罪に帰そうとしたが、北中郎将・王舒おうじょがそれを制止した。


 一方、東晋の元帝・司馬睿しばえいは「蔡豹が退いた」と聞いて、使者を派遣して捕えさせた。


 すると王舒が夜の間に兵を率いて蔡豹を包囲した。蔡豹は別の敵が攻めてきたと思い、麾下を率いて撃とうとしたが、詔が下されたと聞いて止めた。王舒が蔡豹を捕えて建康に送った。


 十月、蔡豹は畏懦(臆病・惰弱の罪)によって斬られた。


 そんな中、東晋の王敦おうとんが武陵内史・向碩しょうせきを殺した。


 元帝がかつて江東を鎮守していた時(即位前)、王敦と従弟の王導おうどうが同心になって元帝を補佐し、元帝も誠意をもって信任していた。


 その後、王敦は征討を総監し、王導は機政(国家中枢の政務)を専らにするようになっていった。。


 また、王敦の群従(諸従兄弟、親戚)や子弟も顕要に分布したため、時の人はこの状態を称して、


「王(王氏)と馬(司馬氏)が天下を共にしている」


 と、言うようになった。


 しかし後に王敦は、自分の功績を恃みとし、しかも宗族も強盛になったため、しだいに驕慢放縦になっていった。


 元帝は王敦を畏れて憎悪し、劉隗りゅうかい刁協ちょうきょうらを引き入れて腹心にした。少しずつ王氏の権勢を抑制し、王導も徐々に疎外されるようになった。


 中書郎・孔愉こうゆが元帝に、


「王導は忠賢であり、佐命の勲(天命を輔佐した勲功)があるので、信任を加えるべきです」


 と陳述したが、元帝は孔愉を中書から出して司徒左長史にした。


 王導は任真推分(「任真」は自然、率直なこと、「推分」は自分の本分を守ること)な態度でいることができ、寡欲だったので、有識者は皆、


「王導は善く興廃に対処できる(地位や立場の昇降にうまく対応できる)」


 と称賛していた。しかし王敦はそのことにますます不平を抱き、ついに元帝との対立を深めていった。


 以前、王敦が呉興の人・沈充しんじゅうを招聘して参軍に任命した。


 沈充が同郡の銭鳳ぜのうを推薦したたため、王敦は銭鳳を鎧曹参軍にした。


 二人は巧みにおもねり、凶悪かつ狡猾で、王敦に異志があると知ると、秘かにそれを支持して王敦のために画策するようになった。王敦も二人を寵信したため、二人の権勢が内外を圧倒するようになっていった。


 王敦が上書して王導のために不遇を訴えた。その辞語には怨恨が表れていたという。


 王導はそれに封をして王敦に返したが(王導は尚書を主管しているので、先に王敦の上書を読むことができた)、王敦は再び送って上奏しました


 左将軍・譙王・司馬氶しばじょうは忠厚で志行(忠烈な志と行い)があったため、元帝に信任されていた。


 夜、元帝が司馬氶を召して王敦の上書を示し、こう言った。


「王敦は近年の功によって官位と職責が充分になっているのに、要求が止むことなく、言がこのようになっている。今後、どうなるだろうか?」


 司馬氶はこう答えた。


「陛下が早くこれを処理しなかったので、今日に至ったのです。王敦は必ず患を為します」


 劉隗が元帝のために謀を為し、心腹の臣を中央から出して地方を鎮守させた。


 ちょうど王敦が上表して、宣城内史・沈充を甘卓かんたくの代わりに湘州刺史に任命するように求めた。これに対して元帝が司馬氶に言った。


「王敦の姦逆は既に著しくなった。私が恵皇(恵帝)のようになるのは、遠くないだろう。湘州は長江上流の地勢を占拠しており、三州が隣接する要地を制御している。叔父あなたをそこに居させたいと欲するが、どうだ?」


 司馬氶は、


「臣下が詔命を承ったら、ただ力を尽くして行動するのみです。どうして辞退することがありましょうか。しかし湘州は蜀寇の余を経ており(杜弢の乱を経験したことを指す)、民も物も凋落・疲弊しているので、もしこの州を得ても、三年経たなければ戦事に赴くことはできません。三年に及ばないようなら、たとえ身を灰にしたとしても、益はないでしょう」


 元帝が王敦を警戒して自分を配置したい気持ちがあるが、土地の力が半減しているためどこまで力になれるか不明ということである。


 十二月、元帝が詔を発した。


「晋室の建国から、方鎮の任は親賢(親族と賢才)を並用してきた。よって譙王・氶を湘州刺史とする」


 長沙の人・鄧騫とうおうはこれを聞くや嘆いて、


「湘州の禍はここから始まるだろう」


 と言った。


 司馬氶が出発して武昌に至ると、王敦が宴を開いて司馬氶に言った。


「大王はかねてから佳士(高雅の士。品行・才学が優良な士)なので、恐らく将帥の才ではないでしょうなあ」


 よくもまあ本人の前で言って見せたものである。


 これに司馬氶はこう返した。


「あなたが見知っていないだけだ。鉛刀にどうして一割の用もないのだ」


 鉛の刀でも物を割ることができるのだから戦の才能が無くても勝てるという意味である。ここから「鉛刀一割」という成語ができた。


 王敦は銭鳳に、


「彼は懼れることを知らないのに壮語を学んだ。その不武(軍事に精通していないこと)を知るに足りる。彼は何も為すことができない」


 と言い、司馬氶が鎮に行くことに同意した。


 胡三省は、


「司馬氶は、忠は余りあるほどだったが才が足りなかった。王敦はそれを窺い見て何も為せないと知った」


 と解説している。王敦は野心を持つに相応しい才覚は確かにあるのである。


 当時、湘土は荒廃しており、公私とも困窮疲弊していた。


 司馬氶は自ら倹約に努め、心を尽くして平定・慰撫したため、甚だ能名(能力があるという名声)があると言われるようになった。


 


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