表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

102/226

祖逖

 前趙帝・劉曜りゅうようが太学を建てた。


 民から神志(精神と知性)が優れていて教育を受けるのに相応しい者を千五百人選抜し、儒臣を選んで教えさせた。


 その後、酆明観および西宮を築き、滈池に陵霄台を建てた。また、霸陵(西漢文帝陵)の西南に寿陵(生前に造る墓陵)を造営した。


 それに侍中・喬豫きょうぞう和苞わほうが上書して諫めた。


「衛の文公は乱亡の後を継承しましたが、費用を節約して民を愛し、宮室の造営が時節と制度を得ていたので、康叔の業を興して九百の祚(国運)に延ばすことができました」


 春秋時代、衛は狄人に滅ぼされてしまうという事件があった。その状況の中、斉の桓公の支援もありつつ

 も衛の文公が復興させたおかげで、康叔から始まる衛の国運を、秦に滅ぼされるまでの九百余年に延ばすことができたということである。


「以前、詔書を奉じて酆明観を造営した時、市道の細民は皆、その奢侈を謗って『この一観の功(事業、労力)を用いれば、涼州を平定するに足りるだろうに』と申していたものです。今また阿房を真似て西宮を建てようと欲し、瓊台(夏桀・殷紂が建てた玉台)に法って陵霄を起こそうと欲しておられますが、それによる労力・費用は酆明の億万倍になり、もしそれを軍旅の資本にすれば、呉・蜀(東晋と成漢)を兼併して斉・魏(曹嶷と後趙)を統一することができましょう。また、聞くところによると、寿陵を営建して、周囲は四里、深さは三十五丈もあり、銅で棺を造り、装飾は黄金を使うとのことですが、功費がこのようであったのであれば、恐らく国内で処理できるものを超えております。秦始皇は、下は地下水を塞ぎましたが、土がまだ乾かないうちに破壊されました。古から滅亡しなかった国はなく、破壊されなかった墓もありません。だから聖王の質素な埋葬とは深遠な考慮によるものなのです。陛下は中興の日にありながら、なぜ亡国の事を追おうとされているのですか?」


 最期の言葉は前趙帝は靳氏の難を平定して自立したため、中興と称されていたためである。


 前趙帝が詔を下した。


「二侍中は懇懇(誠意ある様子)として古人の風があり、社稷の臣ということができる。ここに宮室の諸役を悉く中止し、寿陵の制度は一切を霸陵の法に準じることにする。喬豫を安昌子に、和苞を平輿子に封じ(どちらも子爵)、並んで諫議大夫を兼任させる。これを天下に布告して、我が朝廷は過失を聞くことを欲していると知らしめよ」


 また、酆水囿を省いて貧民に与えた。


 彼は諫言に耳を傾けることのできる人である。それだけでも国君として、趙漢の昭武帝・劉聡よりも上であると言えるだろう。


 彼は名君になれる素質を持っていた。それでも彼は志を果たせなかった。あまりにも強い相手を敵に回していたからなのか。それともそういう運命だったのか。










 この頃、東晋の祖逖そてきの将・韓潜かんせんと後趙の将・桃豹とうひょうが陳川故城を分けて占拠していた。桃豹は西台に住んで韓潜は東台に住み、桃豹は南門から出入りして韓潜は東門から出入りし、互いに堅守して四十日が経っていた。


 祖逖はその状況の中、布袋に土を入れて米が入っているように見せ、千余人にそれを運んで東台に上らせ、また、数人に本物の米を担いで道で休息さした。


 桃豹の兵がそれを追うと、休んでいた兵が擔(肩に担ぐ棒)を棄てて逃走した。


 桃豹の兵は久しく飢えていたため、晋兵の米を得て、祖逖の士衆は豊飽(食糧が豊富で満腹な状態)だと思い、ますます懼れるようになっていった。


 後趙の将・劉夜堂りゅうやどうが千頭の驢馬で食糧を運んで桃豹に送ろうとした。


 しかしそれを祖逖が察知し、韓潜および別将・馮鉄ふうてつに汴水で迎撃させ、全て獲得した。


 桃豹はこの状況を受け、夜に遁走して東燕城に駐屯した。


 祖逖は韓潜に兵を進めさせ、封丘に駐屯して桃豹に迫らせた。馮鉄が二台を占拠し、祖逖は雍丘を鎮守した。


 その後も祖逖はしばしば兵を派遣して後趙の兵を邀撃させた。


 祖逖に帰順する後趙の守備兵や営塁が甚だ多くなり、後趙の境土が徐々に縮小していった。


 これ以前は趙固、上官巳、李矩りく郭黙かくもくが互いに攻撃しあっていたが、祖逖が使者を馳せさせ、彼らを和解させて利害を示したため、皆が祖逖の指揮を受けるようになっていった。


 七月、東晋の元帝・司馬睿しばえいはこれを評価して詔によって祖逖に鎮西将軍を加えた。


 祖逖は軍にいて将士と甘苦を共にし、自分を律して施しに務め、農業を奨励・監督し、新たに帰附した者を受け入れて慰撫し、疏賎の者(関係が遠い者や身分が低い者)でも皆、恩礼をもって交わった。


 河上の諸塢で、これ以前から後趙に人質を置いている者は、全て両属(晋趙両方に仕えること)を許可し、時には游軍を送って諸塢を侵犯するふりをして、まだ彼らが晋に帰順していない姿を示した。


 塢主は皆、恩を感じ、後趙に異謀があるとすぐ秘かに報告するようになっていった。こうして祖逖は戦勝が多くなり、黄河以南の多くの者が後趙に叛して晋に帰順するようになっていった。


 祖逖は兵を鍛えて穀物を蓄え、河北を取る計を為した。


 後趙王・石勒せきろくはこれを患い、幽州に命じて祖逖のために祖父と父の墓を修築させ、守冢(墓守)を二家置いた。


 また、後趙王はこれを機に祖逖に書を送り、通使(使者を往来させること)と互市(市を開いて交易すること)を求めた。


 祖逖は返答の書を送らなかったものの、互市には同意して十倍の利益を収めた。


「無礼なやつのくせに利益だけは取るのですな」


 石虎せきこがそう言ったが、後趙王は、


「やつと俺は言葉を交わさなくてもわかるってことさ」


 と言って気にしなかった。


 祖逖の牙門・童建どうけんが新蔡内史・周密しゅうみつを殺して後趙に降ったということがあった。


 しかし後趙王は童建を斬り、首を祖逖に送ってこう伝えた。


「叛臣・逃吏は私の深く憎む者である。将軍が悪とする者は、私にとっても悪である」


 祖逖はこれを深く感謝し、この後、後趙の人が叛して祖逖に帰順しても、祖逖は全て受け入れず、諸将が後趙の民を侵暴することも禁止した。これにより、辺境の間がわずかに休息を得たという。


「石勒という男はこういうことができる男だったのか……」


 祖逖は以前から石勒を残虐な蛮族と見下していたが、その評価を改めるようになった。


「同時にそれはやつにはとてつもない志があるということだろう」


 同時に石勒を以前よりも警戒するようになり、北伐の準備を更に強固に進めた。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ