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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争

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游子遠

 後趙の孔萇こうちょう段匹磾だんひつていを攻めたが、戦勝に恃んで備えを設けなかったため、段文鴦だんぶんおうが襲撃して大破した。


 そのころ、京兆の人・劉弘りゅうこうが涼州天梯山に客居しており、妖術で衆人を惑わしていた。劉弘に従って教えを受けた者は千余人もおり、西平公(諡号は元公)・張寔ちょうしょくの左右の者も皆仕えるようになっていた。


 帳下・閻渉えんちょくと牙門・趙卬ちょうこうはどちらも劉弘の郷人でした。


 劉弘が二人に、


「天が私に神璽を与えた。私は涼州の王になるべきだ」


 と語ると、二人はそれを信じ、秘かに張寔の左右の者十余人と共に張寔殺害を謀って、劉弘を主に奉じようとした。


 張寔の弟・張茂ちょうもがこの陰謀を知り、劉弘の誅殺を請うた。張寔は牙門将・史初ししょに命じて劉弘を逮捕させたが、史初が至る前に閻渉らが刃を懐に隠して侵入し、外寝で張寔を殺した。


 劉弘は史初が来たのを見て、


「張寔は既に死んだ。私を殺して如何するのだ」


 と言った。史初は怒って劉弘の舌を斬ってから逮捕し、姑臧の市で車裂に処した。併せて党与数百人も誅殺した。


 張寔の子・張駿ちょうしゅんはまだ幼かったため、左司馬・陰元いんげんらは張茂を推して涼州刺史・西平公にした。


 張茂は境内で特赦を行い、張駿を撫軍将軍にした。


 







 六月、趙将・解虎かいこと長水校尉・尹車いんしゃが反叛を謀って巴酋・句徐こじょ厙彭しゃほうらと結んだが、事が発覚して解虎、尹車とも誅に伏した。


 前趙帝・劉曜りゅうようは、句徐、厙彭ら五十余人を阿房に幽囚して殺そうとした。


 光禄大夫・游子遠ゆうしえんが、


「聖王が刑を用いる時は、ただ元凶を誅すだけです。多くを殺すべきではありません」


 と言って諫争し、叩頭して血を流した。


 すると、前趙帝は怒って游子遠が叛逆を助けていると思い、囚禁してした。


 句徐、厙彭らは全て殺され、その死体は市に十日間曝されてから川に投げ捨てられた。


 この事件がきっかけで巴衆がことごとく反し、巴酋・句渠知こうきょちを推して主に立てた。自ら「大秦」と称して平趙元年に改元した。


 四山の氐人、羌人、巴人、羯人で句渠知に応じた者が三十余万人もおり、関中が大いに混乱して、昼でも城門が閉ざされるようになった。


 游子遠が獄中からも上表して諫争した。しかし前趙帝は自分の手で上表を破り棄て、


「大荔奴め」


 大荔は異民族のこと。胡三省は游子遠のことを「戎(異民族。大荔)の出身だったのだろう」と述べている。


「やつは自分の命が短いことを憂いず、まだ敢えてこのようにするとは、早く死にたいのか」


 と言うと、左右の者に叱咤して速く殺すように命じた。


 中山王・劉雅りゅうが郭汜かくし朱紀しゅき呼延晏こえんあんらが諫めて言った。


「游子遠は幽囚されていつ死ぬかもわからないにも関わらず、なお諫争を忘れていません。これは忠心の極みと言えましょう。陛下が彼を用いないとしても、どうして殺す必要があるのでしょうか。もし游子遠が朝に誅殺されたら、私らも夜に死んで、陛下の過失を明らかにします。天下が陛下を捨てて去ったら、陛下は誰と天下を共にするのでしょうか?」


 前趙帝は怒りを解いて、やっと游子遠を赦免した。


 その後、前趙帝が勅令を発して内外に戒厳させ、自ら句渠知を討伐しようとした。


 しかし游子遠がまた諫めた。


「陛下がもし私の策を用いることができるなら、一月で平定できます。陛下が親征する必要はありません」


 それを聞いて、


「ならば、試しに策を語ってみよ」


 と、策を言うように前趙帝が促すと游子遠が言った。


「彼は大志があって不相応な野望を図ろうと欲したのではなく、ただ陛下の威刑を畏れて死から逃げようと欲しただけです。陛下は広く大赦を行い、彼らと新たに始めるべきです。先日、解虎・尹車らの事に連座した家の老弱で官奴として奚官(官署名)に没入された者は、皆、釈放して家に帰し、互いに誘い合って帰順させ、旧業に復すことを許可するべきです。彼らが既に生路を得たら、句渠知らはどうして投降しないと言えましょうか。もしその中に自分の罪が重いことを知って、集結したまま解散しない者がいたら、私に弱兵・五千を貸すことを願います。必ずや陛下のために彼らを梟(首を斬って晒す刑)に処してみせましょうぞ。このようにしなかったら、今、反者は山を満たして谷を覆っているので、天威をもって臨んだとしても、恐らく一年や一月で除けるものではありません」


 漢趙帝は大いに悦び、即日、大赦を行った。


 また、游子遠を車騎大将軍・開府儀同三司・都督雍秦征討諸軍事に任命した。


 游子遠が雍城に駐屯すると、十余万人が投降し、軍を安定に移すと、離反した者が全て降った。しかし、句氏の宗党五千余家だけは陰密を守った。


 游子遠は進攻して句氏を滅ぼし、その後、兵を率いて隴右を巡行した。


 これ以前に氐・羌の十余万戸が険阻な地を拠点にして帰服せず、その酋・虚除権渠きょじょけんきょが自ら秦王を号していた。


 游子遠が前進してその営壁に向かうと、虚除権渠は兵を出して拒んだが、五戦して全て敗れたため、投降しようとした。


 しかし虚除権渠の子・伊餘いじょが衆人に向かって大言した。


「以前、劉曜が自ら来たのに、我々をどうすることもできなかった。その偏師ならなおさらだ。なぜ投降するのだ」


 伊餘は強兵・五万を率いて、早朝、游子遠の塁門に迫った。


 游子遠の諸将が出撃を欲したが、游子遠は、


「伊餘は勇悍で、当今において敵がおらず、率いている兵も我々より精鋭だ。また、その父が敗れたばかりなので、まさに怒気が盛んになっている。その鋭鋒は当たるべきではない。時間をおいて、敵の気を尽きさせてから撃った方がいい」


 と言い、営壁の守りを堅めて戦おうとしなかった。


 伊餘には驕りがあり、備えをしていなかった。游子遠はそのことを知ると、夜の間に兵を整えて、寝る場所で朝食をとらせた。


 早朝、ちょうど大風が吹いて砂塵で空が暗くなった。


「好機である」


 游子遠は兵を全て率いて出撃し、伊餘を急襲した。伊餘は生捕りされ、その兵も全て捕虜になった。


 権渠は大いに懼れ、被髪・剺面(「被髪」は髪を束ねないこと、「剺面」は刀で顔に傷つけること)して投降を請うた。


 游子遠がこれを前趙帝に報告した。


 権渠は征西将軍・西戎公に任命され、伊餘兄弟とその部落二十余万口は権渠から分けて長安に遷された。そして前趙帝は游子遠を大司徒・録尚書事にした。

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― 新着の感想 ―
[一言] 游子遠、突然資料から消える人ですね、最後の諫言が命取りだったのか、普通に病か…
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