游子遠
後趙の孔萇が段匹磾を攻めたが、戦勝に恃んで備えを設けなかったため、段文鴦が襲撃して大破した。
そのころ、京兆の人・劉弘が涼州天梯山に客居しており、妖術で衆人を惑わしていた。劉弘に従って教えを受けた者は千余人もおり、西平公(諡号は元公)・張寔の左右の者も皆仕えるようになっていた。
帳下・閻渉と牙門・趙卬はどちらも劉弘の郷人でした。
劉弘が二人に、
「天が私に神璽を与えた。私は涼州の王になるべきだ」
と語ると、二人はそれを信じ、秘かに張寔の左右の者十余人と共に張寔殺害を謀って、劉弘を主に奉じようとした。
張寔の弟・張茂がこの陰謀を知り、劉弘の誅殺を請うた。張寔は牙門将・史初に命じて劉弘を逮捕させたが、史初が至る前に閻渉らが刃を懐に隠して侵入し、外寝で張寔を殺した。
劉弘は史初が来たのを見て、
「張寔は既に死んだ。私を殺して如何するのだ」
と言った。史初は怒って劉弘の舌を斬ってから逮捕し、姑臧の市で車裂に処した。併せて党与数百人も誅殺した。
張寔の子・張駿はまだ幼かったため、左司馬・陰元らは張茂を推して涼州刺史・西平公にした。
張茂は境内で特赦を行い、張駿を撫軍将軍にした。
六月、趙将・解虎と長水校尉・尹車が反叛を謀って巴酋・句徐、厙彭らと結んだが、事が発覚して解虎、尹車とも誅に伏した。
前趙帝・劉曜は、句徐、厙彭ら五十余人を阿房に幽囚して殺そうとした。
光禄大夫・游子遠が、
「聖王が刑を用いる時は、ただ元凶を誅すだけです。多くを殺すべきではありません」
と言って諫争し、叩頭して血を流した。
すると、前趙帝は怒って游子遠が叛逆を助けていると思い、囚禁してした。
句徐、厙彭らは全て殺され、その死体は市に十日間曝されてから川に投げ捨てられた。
この事件がきっかけで巴衆がことごとく反し、巴酋・句渠知を推して主に立てた。自ら「大秦」と称して平趙元年に改元した。
四山の氐人、羌人、巴人、羯人で句渠知に応じた者が三十余万人もおり、関中が大いに混乱して、昼でも城門が閉ざされるようになった。
游子遠が獄中からも上表して諫争した。しかし前趙帝は自分の手で上表を破り棄て、
「大荔奴め」
大荔は異民族のこと。胡三省は游子遠のことを「戎(異民族。大荔)の出身だったのだろう」と述べている。
「やつは自分の命が短いことを憂いず、まだ敢えてこのようにするとは、早く死にたいのか」
と言うと、左右の者に叱咤して速く殺すように命じた。
中山王・劉雅、郭汜、朱紀、呼延晏らが諫めて言った。
「游子遠は幽囚されていつ死ぬかもわからないにも関わらず、なお諫争を忘れていません。これは忠心の極みと言えましょう。陛下が彼を用いないとしても、どうして殺す必要があるのでしょうか。もし游子遠が朝に誅殺されたら、私らも夜に死んで、陛下の過失を明らかにします。天下が陛下を捨てて去ったら、陛下は誰と天下を共にするのでしょうか?」
前趙帝は怒りを解いて、やっと游子遠を赦免した。
その後、前趙帝が勅令を発して内外に戒厳させ、自ら句渠知を討伐しようとした。
しかし游子遠がまた諫めた。
「陛下がもし私の策を用いることができるなら、一月で平定できます。陛下が親征する必要はありません」
それを聞いて、
「ならば、試しに策を語ってみよ」
と、策を言うように前趙帝が促すと游子遠が言った。
「彼は大志があって不相応な野望を図ろうと欲したのではなく、ただ陛下の威刑を畏れて死から逃げようと欲しただけです。陛下は広く大赦を行い、彼らと新たに始めるべきです。先日、解虎・尹車らの事に連座した家の老弱で官奴として奚官(官署名)に没入された者は、皆、釈放して家に帰し、互いに誘い合って帰順させ、旧業に復すことを許可するべきです。彼らが既に生路を得たら、句渠知らはどうして投降しないと言えましょうか。もしその中に自分の罪が重いことを知って、集結したまま解散しない者がいたら、私に弱兵・五千を貸すことを願います。必ずや陛下のために彼らを梟(首を斬って晒す刑)に処してみせましょうぞ。このようにしなかったら、今、反者は山を満たして谷を覆っているので、天威をもって臨んだとしても、恐らく一年や一月で除けるものではありません」
漢趙帝は大いに悦び、即日、大赦を行った。
また、游子遠を車騎大将軍・開府儀同三司・都督雍秦征討諸軍事に任命した。
游子遠が雍城に駐屯すると、十余万人が投降し、軍を安定に移すと、離反した者が全て降った。しかし、句氏の宗党五千余家だけは陰密を守った。
游子遠は進攻して句氏を滅ぼし、その後、兵を率いて隴右を巡行した。
これ以前に氐・羌の十余万戸が険阻な地を拠点にして帰服せず、その酋・虚除権渠が自ら秦王を号していた。
游子遠が前進してその営壁に向かうと、虚除権渠は兵を出して拒んだが、五戦して全て敗れたため、投降しようとした。
しかし虚除権渠の子・伊餘が衆人に向かって大言した。
「以前、劉曜が自ら来たのに、我々をどうすることもできなかった。その偏師ならなおさらだ。なぜ投降するのだ」
伊餘は強兵・五万を率いて、早朝、游子遠の塁門に迫った。
游子遠の諸将が出撃を欲したが、游子遠は、
「伊餘は勇悍で、当今において敵がおらず、率いている兵も我々より精鋭だ。また、その父が敗れたばかりなので、まさに怒気が盛んになっている。その鋭鋒は当たるべきではない。時間をおいて、敵の気を尽きさせてから撃った方がいい」
と言い、営壁の守りを堅めて戦おうとしなかった。
伊餘には驕りがあり、備えをしていなかった。游子遠はそのことを知ると、夜の間に兵を整えて、寝る場所で朝食をとらせた。
早朝、ちょうど大風が吹いて砂塵で空が暗くなった。
「好機である」
游子遠は兵を全て率いて出撃し、伊餘を急襲した。伊餘は生捕りされ、その兵も全て捕虜になった。
権渠は大いに懼れ、被髪・剺面(「被髪」は髪を束ねないこと、「剺面」は刀で顔に傷つけること)して投降を請うた。
游子遠がこれを前趙帝に報告した。
権渠は征西将軍・西戎公に任命され、伊餘兄弟とその部落二十余万口は権渠から分けて長安に遷された。そして前趙帝は游子遠を大司徒・録尚書事にした。




