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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第三章 闘争

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邵続

 蒲洪ふこうが前趙に降った。これを受け、前趙帝・劉曜りゅうようは蒲洪を率義侯に封じた。


 屠各(匈奴の部族)の路松多ろしょうたが新平、扶風で挙兵して晋王・司馬保しばほに附いた。


 司馬保はその将・楊曼ようあん王連おうれんに陳倉を占拠させ、張顗ちょうがい周庸しゅうように陰密を占拠させ、路松多に草壁を占拠させた。


 秦・隴に住む氐人や羌人の多くがこれに応じた。


 前趙帝はそれを受け、諸将を派遣して攻撃させたが、克てなかったため、自ら兵を率いて出撃した。


 翌年、320年の正月、前趙帝は陳倉を攻めた。


 王連は戦死し、楊曼は南氐に奔った。


 前趙帝は兵を進めて草壁を攻略し、路松多は隴城に奔った。更に前趙帝は陰密を攻略した。


 晋王・司馬保は懼れて桑城に遷った。


 前趙帝が長安に還り、劉雅りゅうがを大司徒に任命した。


 張春ちょうしゅんはその間に、晋王・司馬保を奉じて涼州に奔ろうと謀った。それを受け、張寔ちょうしょくがその将・陰監いんかんを派遣し、兵を率いて司馬保を迎えさせた。但し、公には補佐のためと宣言したものの、実際には司馬保の前進を拒むことが目的であった。


 そんな中、段末柸だんまつは段匹磾だんひつていを攻めて破った。


 段匹磾が東晋の冀州刺史・邵続しょうぞくに言った。


「私は本来、夷狄ですが、義を慕ったために家を滅ぼしました。あなたが久要(旧約。314年、段匹磾は邵続に書を送って共に司馬睿に帰順した)を忘れていないようならば、共に末柸を撃つことを請います」


 邵続はこれに同意した。段匹磾と共に末柸の後を追って撃ち、大破した。


 段匹磾と弟の段文鴦だんぶんおうが薊を攻めた。


 後趙王・石勒せきろくは邵続の形勢が孤立していると知り、中山公・石虎せきこに兵を指揮させ、厭次を包囲させた。また、孔萇こうちょうに邵続の別営十一カ所を攻撃させ、全て攻略した。


 二月、邵続が自ら兵を出して石虎を撃とうとした。しかし石虎が騎兵を伏せて後ろを断ち、邵続を捕えた。


 石虎は邵続を使って厭次城を投降させようとした。


 しかし邵続は兄の子・邵竺しょうじくらにこう呼びかけた。


「私の志は報国を欲していたが、不幸にもこのようになってしまった。汝らは努力して段匹磾を奉じ、主とせよ。二心を抱いてはならない」


 段匹磾が薊から戻ったが、厭次に至る前に、


「邵続が既に敗れた」


 と聞き、衆人が懼れて離散した。更に石虎に道を塞がれた。


 しかし段文鴦が親兵数百を率いて力戦したおかげで、やっと城に入ることができた。邵続の子・邵緝しょうせき、兄の子・邵存しょうぞん、邵竺らと共に城に籠って守りを固めた。


 石虎はその場で邵続を殺さず、襄国に送った。


 石勒は徐光じょこうを派遣して、


「我が国家は符に応じて乱を鎮め、これにより八方が帰属した。我の威名は伝播し、遺晋は恐れて遠く揚越の地へと逃げ去った。にもかかわらず汝は司馬睿8しばえい)を奉じ、地方において跋扈し続けて我の王命を受けようとしなかった。夷狄は君主とするに足りぬとでも言いたいのか。汝には見識が備わっていないのか。国には刑罰の定めがあるが、これを甘んじて受けるか」


 と邵続を責めた。邵続は、


「晋末に飢饉や乱があり、これを避ける所は無かった。私は郷宗を糾合し、老幼の命を全うしようとしたのだ。大王が事業を始めた際には人質を納めたが、誠意は感じられず仁慈を蒙ることもなかった。遺晋に帰すことを決め、任を受けて寵遇を授かったからには、忠節を尽くすことを誓い、二心を抱くことなど無い。厚恩を受けながら主君を何度も変えるような人物が、明朝において受け容れられないであろう。周文は東夷に生まれ、大禹は西羌から出た。帝王が興るのはただ天命によるものであり、徳の招くところが常とはならぬものだ」


 と言うと、石勒はその忠誠心に感心した。そして、張賓ちょうひんに命じて邵続のために館を準備させ、従事中郎に任じて衣食を供するなど厚遇した。更に、


「今後、戦に勝って士人を捕えても、勝手に殺してはならない」


 という命を下した。


 石勒はしばしば人を派遣して邵続の様子を観察させ、報告を受けると感嘆して、


「これこそ真の高人である。彼のようにならずして、どうして貴に足りようか」


 と言い、その清廉な振る舞いを称え、しばしば穀帛を下賜した。また、朝会に臨む度に感歎し、彼を引き合いに出しては官僚らを励ましたという。


 邵続が攻撃された時、東晋の吏部郎・劉胤りゅういん(元は邵続に仕えていた)がそれを聞いて東晋の元帝に言った。


「北方の藩鎮は既に消え尽くし、ただ邵続だけが残っています。もしまた石虎に滅ぼされたら、義士の心を孤立させ、朝廷に帰る路を断たせることになってしまいます。愚見によるならば、兵を発してこれを救うべきです」


 元帝はこの意見に従うことができなかった。


 邵続が敵の手に陥ちると、元帝は詔を下し、邵続の位を子の邵緝に授けて任官した。


 前趙の将・尹安いんあん宋始そうし宋恕そうじょ趙慎ちょうしんの四軍が洛陽に駐屯して叛し、後趙に降った。


 ところが、後趙の将・石生せきせいが兵を率いて赴くと、尹安らは再び叛して晋の司州刺史・李矩りくに降った。


 李矩は潁州太守・郭黙かんもくを派遣して、兵を率いて入洛させた。


 石生は宋始の一軍を捕虜にしてから、北に向かって渡河した。


 この後、河南の民は皆、相継いで李矩に帰順し、洛陽が空になった。


 








 三月、慕容廆ぼようかいが派遣した裴嶷はんぎょくが建康に至り、前年、宇文氏から得た玉璽三紐を献上した。


 裴嶷は盛んに慕容廆の威徳を称賛し、賢人・俊才が皆、慕容廆に用いられていることを語った。東晋朝廷が始めて慕容廆を重視するようになった。


 元帝が裴嶷に言った。


「汝は中朝(中原の朝廷。西晋)の名臣だったので、江東に留まるべきだ。私は別に詔を発し、龍驤(慕容廆)に汝の家属を送らせよう」


 しかし裴嶷はこう言った。


「私は若い時から国恩を蒙り、宮中を出入りしました(裴嶷は西晋時代に中書侍郎、給事黄門郎を歴任していた)。もしまた皇帝の車を奉じることができるならば、それは光栄の極みというべきものです。しかし、旧京が陥落して山陵が発掘・破壊され、たとえ名臣・宿将でも雪恥できる者がいないのに、慕容龍驤だけは王室に忠を尽くし、凶逆を除くことを志しているので、私に万里を越えて誠心を伝えさせました。今、私が来たにも関わらず、帰らなかったら、必ず朝廷がその辺鄙を理由に慕容廆を棄てたと考え、義に向かう心を孤立させ、賊の討伐を怠らせることになります。これは私が甚だ惜しむことです。だから、敢えて私情に従って公事を忘れることができないのです」


 元帝は、


「汝の言う通りだ」


 と言い、使者を派遣して裴嶷に従わせ、慕容廆を安北将軍・平州刺史に任命した。













 晋王・司馬保の将・張春と楊次ようじは別将・楊韜ようとうと不和だったため、司馬保に楊韜の誅殺を勧め、更に陳安を攻撃する許可を請うた。しかし司馬保はどちらの意見にも従おうとしなかった。


 五月、張春と楊次はそのことに怒り、司馬保を幽閉して殺した。


 司馬保は体が肥大で、重さが八百斤もあった。寝るのが好きで、読書を愛したが、暗弱で決断力がなかったため、最後は難に及んだと評された。


 司馬保には子がいなかったため、張春は宗室の子・司馬瞻しばせんを世子に立てて、自ら大将軍を称した。


 しかし、司馬保の部衆は離散し、涼州に奔った者が一万余人いた。


 この状況を受けて陳安が前趙帝に上表して司馬瞻らを討つように請うた。


 漢趙帝は陳安を大将軍に任命して司馬瞻を撃たせた。司馬瞻は殺され、張春は枹罕に奔った。陳安は楊次を捕え、司馬保の柩の前で斬って祭ってから、天子の礼で上邽に埋葬した。


 司馬保には元王という諡号が贈られた。


 そのころ、東晋の羊鑒ようかん徐龕じょがんを討伐したが、下邳で兵を止めて、敢えて前に進もうとしなかった。


 徐州刺史・蔡豹さいひょうは檀丘で徐龕を敗り、徐龕は後趙に救援を求めた。


 後趙王・石勒はその将・王伏都おうふくとを派遣して援けさせ、更に張敬ちょうけいに兵を率いて後援とさせた。


 ところが石勒は徐龕に対して要求するものが多く、しかも王伏都が淫暴だったため、徐龕は患いを抱くようになった。


 張敬が東平に到着すると、徐龕は自分を襲いに来たものと疑い、王伏都ら三百余人を斬って、また東晋に投降を請うた。


 石勒は大いに怒って張敬に命を発し、険要な地を占拠して守らせた。


 東晋の元帝も徐龕の反覆を嫌ったため、投降を受け入れず、羊鑒と蔡豹に勅令して、即時、兵を進めて討つように命じた。


 しかし羊鑒がやはり恐れて躊躇して進まないため、尚書令・刁協ちょうきょうが上奏して羊鑒を弾劾した。


 元帝は羊鑒に対して死罪は免じたものの、官籍から除名し、代わりに蔡豹にその兵を統領させることにした。


 王導おうどうは相応しくない人材(羊鑒)を推挙した責任を負って、自ら位を落とすことを乞うたが、元帝は同意しなかった。

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