楊駿
楊駿は賈南風が陰険かつ凶暴でありながら権略が多かったため、嫌っていた。
そこで甥(姉妹の子)の段広を散騎常侍にして機密を管理させ、張劭を中護軍にして禁兵を掌管させた。全ての詔命は西晋の恵帝・司馬衷が読み終ってから楊太后に提出され、その後、施行された。
楊駿が為す政事は厳格かつ複雑で人の意見を聴かなかったため、中外の多くの人が憎んだ。
「董卓さえ少しは人の話を聞いた。あれはそれ以下だ」
と、噂するほどであった。
馮翊太守・孫楚(魏の孫資の孫)が楊駿に言った。
「あなた様は外戚として伊・霍(伊尹・霍光)の任にいるため、至公、誠信、謙順をもってこれを行うべきです。今は宗室が強盛なのに、あなた様は彼らと共に万機(各種の重要な政務)に参与することなく、内に猜疑・嫉妬を抱き、外に個人的に親しくしている人ばかりを樹立しているので、禍が至るまで日がありません」
楊駿は諫言に従わなかった。
弘訓少府・蒯欽は楊駿の姑(父の姉妹)の子であったが、しばしば直言によって楊駿に逆らったため、他の者が皆、蒯欽のために懼れた。
しかし蒯欽はこう言った。
「楊文長(文長は楊駿の字)は暗愚とはいえ、人に罪がなかったら妄りに殺すことはできないということを知っている。彼は私を疎遠にするだけであり、私は疎遠にされたら禍から免れることができるだろう。こうしなかったら、彼と一緒に族滅されることになる」
楊駿が匈奴東部の人・王彰を招聘して司馬に任命したが、王彰は逃避して受け入れようとしなかった。
その友・新興の人・張宣子が不思議に思って問うと、王彰はこう答えた。
「古より、一姓から二人の皇后が出て、敗れなかった者はいない。しかも楊太傅は小人を親近して君子を疏遠にしており、専権して放縦なので、敗れるまで日が無いだろう。私は海を越えて塞を出ることでこれを避けても、まだ禍が及ぶことを懼れている。どうして招聘に応じられようか。しかも、武帝は社稷の大計を思わず、嗣子は既に重荷を負うことができず、遺命を受けた者もまた相応しい人ではない。天下の乱はすぐに訪れる」
八月、恵帝が広陵王・司馬遹を皇太子に立てた。
中書監・何劭が太子太師に、衛尉・裴楷が少師に、吏部尚書・王戎が太傅に、前太常・張華が少傅に、衛将軍・楊済が太保に、尚書・和嶠が少保になった。
太子の実母・謝氏を淑媛にした。
賈南風は常に謝氏を別室に置き、太子と会うことを許さなかった。
以前、和嶠が従容(落ち着いた様子)として武帝にこう言ったことがあった。
「皇太子(恵帝)には淳古の風(純朴で古風な気質)がありますが、末世は詐術が多いので、恐らく陛下の家事を全うさせることができないでしょう」
武帝は沈黙した。
後に和嶠が荀勗らと共に武帝に侍った時、武帝が言った。
「太子は最近入朝した時、少し成長していた。卿らは世事について太子と語ってみよ」
荀勗らは太子と語って戻ってから、そろって太子の明識雅度を称賛し、
「誠に明詔(武帝の言葉)の通りです」
と言った。しかし和嶠は、
「聖質(太子の資質)は初めの通りです」
と言った。武帝は不快になって去っていった。
恵帝が即位してから、和嶠が太子・司馬遹に従って入朝した。すると賈南風が恵帝から和嶠にこう問わせた。
「卿は昔、私が家事を全うできないと言ったが、今日、私は即位することができたではないか?」
和嶠はこう答えた。
「私は昔、先帝に仕え、そのような言がありました。その言が証明されないのは国の福です」
291年
正月、恵帝が元旦の朝会に臨んだが、楽舞を設けず、詔を発した。
「私は早く不幸に遭い、喪の中にいて久しく患いているが、幸いにも祖宗が残した霊と宰輔の忠賢に頼って、微細な身をもって帝位に即くことができた。しかし大道に対して暗く、教えに対して明るくないので、戦戦兢兢として、夜晩くまで川を渡る時のように慎重にしている。最近、悲哀・混迷の際(武帝崩御の際)に、三公・股肱が社稷の重みを思い、翼室の典(皇室を輔佐するという法)を遵守し、なおも長く先皇の制を奉じたいと欲したので、それによって永熙の号を有した(前年四月の改元を指す。「熙」は光明、興盛や吉祥の意味がある)。しかしそれから日月が進んで既に新年に及んだ。新たな元号を開始して紀年を改めるのは、古くからの制度である。よって永熙二年を改めて永平元年とする」
こうして永平元年に改元された。
恵帝は詔を発して子弟および群官が陵墓の拝謁することを禁じた。
賈南風が太子妃だった頃、嫉妬によって自らの手で数人を殺したことがあり、また、妊娠した妾に戟を投げつけて、胎児が戟の刃と一緒に落ちたこともあった。
武帝は激怒し、金墉城を修築し、彼女を廃してそこに移そうとした。
しかし荀勗、馮紞、楊珧および充華(九嬪の一つ)の趙粲が共に賈南風を援けてこう言った。
「賈妃は年少です。嫉妬とは婦人の常情であり、成長したら自然によくなります」
楊太后もこう言った。
「賈公閭(公閭は賈充の字)は社稷において大勲がありました。太子妃は親しくもその娘です。たとえ嫉妬することがあったとしても、どうしてすぐに先徳を忘れることができるでしょう」
これによって賈南風は太子妃を廃されずにすんだ。
その後、楊太后はしばしば賈妃を誡厲(戒め励ますこと)した。
「煩い婆ね」
しかしながら賈南風は楊后が自分を助けたことを知らず、逆に皇太后が武帝の前で自分を陥れたと思い、楊后を恨むようになっていた。
そのため恵帝が即位してから、賈南風は婦道を守っているとして楊太后に仕えようとしなかった。
また、彼女は政事に干預しようとしたが、太傅・楊駿によってそれを抑えられていた。
殿中中郎・渤海の人・孟観と李肇はどちらも楊駿に礼を用いられなかったため、秘かに楊駿を陥れようとし、
「楊駿が社稷を危うくしようとしている」
と言った。
黄門・董猛は以前から東宮で仕えており、寺人監(宦官の長)になった。そこで賈南風は秘かに董猛を送り、孟観、李肇と共に楊駿を誅殺して太后を廃す計画を謀らせた。
更に李肇を送って汝南王・司馬亮にこの事を告げ、兵を挙げて楊駿を討たせようとした。しかし司馬亮は同意しなかった。
「慎重過ぎて臆病とはあれのことよ」
李肇はそう毒づくと次に都督荊州諸軍事・楚王・司馬瑋(武帝の子。恵帝の弟)に告げた。すると司馬瑋は喜んで同意し、入朝の許可を求めた。
司馬瑋は幼い頃から果断で鋭敏であり、勇鋭であった。そのため楊駿はかねてから彼のことを畏れていた。そのため朝廷に召したいと思いながらもできずにいた。今回、司馬瑋が自ら入朝の許可を求めたので、これを機に同意した。
鎮南将軍・楚王・司馬瑋および鎮東将軍・都督揚州諸軍事・淮南王・司馬允(武帝の子。恵帝と司馬瑋の弟)が来朝した。
三月、孟観と李肇は状況を恵帝に報告し、夜の間に詔を作った。楊駿の謀反を誣告して中外に戒厳させ、使者に詔を持たせて派遣し、楊駿を廃して臨晋侯のまま家に帰らせるとした。
同時に、東安公・司馬繇(琅邪王・司馬覲の弟。司馬覲は司馬伷(琅邪武王)の子で、司馬伷は司馬懿の子)に殿中の四百人を率いて楊駿を討たせた。
楚王・司馬瑋が司馬門に駐屯し、淮南相・劉頌を三公尚書にして殿中に屯衛させた。
段広が跪いて恵帝に、
「楊駿は孤公(妻を失った男)で後嗣がいません。どうして造反する道理がありましょうか。陛下が慎重に調べることを願います」
と言ったが、恵帝は答えなかった。
胡三省はこう述べている。
「段広は楊駿の甥(姉妹の子)である。楊駿は段広を近侍にして恵帝の左右の者が自分を離間させることを防ごうとしたが、結局、無益だった」
皮肉の込められた言葉である。
当時、楊駿は曹爽の故府に住んでおり、家は武庫の南に位置していた。宮内で異変が起きたと聞き、衆官を召して討議した。
太傅主簿・朱振が楊駿に勧めた。
「今、内で変が起きましたが、その意図は知ることができます。間違いなく宦官が賈后のために謀を設けたのであり、あなた様に不利を為そうとしているのです。雲龍門を焼いて彼らを脅し、首謀者の首を要求して、万春門を開き、東宮および外営の兵を率いて、皇太子を擁して入宮し、姦人を捕まえるべきです。そうすれば、殿内が震懼し、必ずや首謀者を斬って送って来ます。もしそうしなければ、難から免れることはできないでしょう」
雲龍門は洛陽宮城の正南門で、万春門は東門である。
楊駿は臆病だったため、決断できず、こう言った。
「雲龍門は魏の明帝が造ったものであり、功費が甚だ大きかった。どうしてそれを焼くことができるか」
侍中・傅祗が楊駿に申し出て、尚書・武茂と共に入宮して事勢を観察することを請うた。同時に群僚にも、
「宮中を空にするべきではない」
と言い、揖礼して階を下りた。衆人も皆、走り去った。
武茂だけがまだ坐っていたが、傅祗が振り返って、
「汝は天子の臣ではないのか。今、内外が隔絶され、国家の所在が分からない。なぜ安んじて坐っていられるのだ」
と言うと、武茂も驚いて立ち上がった。
傅祗の言葉にあった「国家」とは「天子」という意味である。後漢以来、「国家」は「天子」の意味として使われるようになったという。
楊駿の党に属す左軍将軍・劉豫が門に布陣していた。右軍将軍・裴頠(裴秀の子)に遇ったので、楊駿の所在を問うと、裴頠は騙してこう言った。
「先ほど、西掖門で公が乗る素車(白い車)に遇った。公は二人の部下を従えて西に出た」
劉豫は驚き、
「私はどこに行くべきだ?」
と、言うと裴頠は、
「廷尉に至るべきだ」
と、答えた。それによって劉豫は裴頠の言に従い、兵を棄てて去った。
暫くして、詔によって裴頠が劉豫の代わりに左軍将軍を兼任することになり、万春門に駐屯した。
楊太后が帛に字を書いて信書とし、城外に射て、
「太傅を救った者には賞がある」
と告げた。だが、ここで頭が廻るのが賈南風である。これを利用して、
「太后も共に反した」
と宣言したのである。
暫くすると、殿中の兵が外に出て楊駿府を焼いた。また、弩手に命じて閣上から楊駿府に臨ませ、矢を射させたので、楊駿の兵は皆、外に出られなくなった。
楊駿は馬厩に逃げてそこで殺された。
孟観らは楊駿の弟・楊珧、楊済と、張劭、李斌、段広、劉豫、武茂および散騎常侍・楊邈、中書令・蒋俊、東夷校尉・文鴦を捕らえ、全て三族を皆殺しにした。死者が数千人に上った。
楊珧が刑に臨んだ時、東安公・司馬繇にこう告げた。
「上奏文が石函(宗廟の石の箱)にあります。張華が知っています」
楊珧は楊氏が武帝の皇后に立てられることに反対した過去がある。
衆人は鍾毓の例に基いて無罪とすべきだと考えたが、司馬繇は同意せず、賈氏の族党も刑を実行するように催促した。
鐘毓の例とは鐘毓は鐘会の兄であったが、鐘会が謀反に失敗した後も、鐘毓の家族は赦されたことである。
楊珧が号叫して止まないため、刑者が刀で頭をたたき割った。
司馬繇は諸葛誕の外孫(娘の子)に当たり、文鴦を嫌っていたため、今回、文鴦も楊駿の党とみなして誅殺した。かつての猛将と言えども過去の因縁に巻き込まれてしまった。
その夜、誅賞の判断が全て司馬繇から出された。
司馬繇の威が内外を振るわせたため、王戎が司馬繇に、
「大事の後は権勢に対して慎重になさるべきです」
と言ったが、司馬繇は従わなかった。




