戦乱の燻り
初めましての方からお久しぶりの方まで大田牛二です。今回は八王の乱から五胡十六国時代を書いていこうと思います。
皆様のご感想、ご指摘お待ちしております。
中国の北部に流れる雄大な黄河を二人の男が眺めている。一人は黄色い服を身にまとい、地に座り、琴を奏でいた。もう一人は仮面をつけ、琴を奏でる男の傍らで静かに佇んでいた。
空に太陽が輝き、大地と黄河を照らす中、黄色い服の男は静かでどこか悲しみのある曲を奏でていた。そうまるでそれは……
「鎮魂歌のようだ」
仮面の男は呟くように言った。
「どうしてそのようなものを奏でている」
「これから先のことを思えば、奏でたくなるとは思わないか?」
黄色い服の男はおどけるようにそう言った。
「目の前に広がるこの雄大なる黄河が赤く染まろうとしている」
彼は淡々と静かに、曲を奏でている。
「我々はこの黄河と共に育ち、発展していった。その黄河を失い、さらには数多の命によって赤く染まろうとしているのだ。鎮魂歌の一つぐらい奏でたくなるとは思わないか?」
「黄河だけではないだろう」
「ああ、もちろん」
仮面の男の言葉に黄色い服の男は手を広げる。
「ここら一帯、いやその先の大地が赤く染まっていくだろう。かつての戦乱と同じように、いやそれ以上のものが繰り広げられることだろう」
彼はそこまで言って再び、奏で始める。
「悲しいことだ。だが……」
曲の終わりを告げる琴線を震わせ、黄色い服の男は言った。
「それ以上に、我々人がその戦乱の先にどんな光景を見ることになるのか。そのことに面白さを感じている」
「業の深いことだ」
「全くだねぇ」
黄色い服の男は苦笑しながら仮面の男の言葉にうなずいた。そして、黄河を見つめる。黄河はその視線に対し、何も告げることはなく、悠々と流れるのみであった。
約四百年続いた漢王朝が傾き、数多の英傑による群雄割拠の時代を経て天下は三分され、三人の皇帝が並び立って争う三国時代。その戦乱の時代を天下統一をもって終わらせたのは三国の内の一つであった魏の内部で権力を握り、台頭した司馬氏の晋であった。
晋の初代皇帝は後世において西晋の武帝と呼ばれている司馬炎である。
天下統一を成し遂げた彼が先ず、行ったのは司州を置いて司隸が統括する郡を属させることで天下を十九州にすることであった。
全国の郡国の数は百七十三、戸数は二百四十五万九千八百四十となった。
ここに十九州を列記する。
司州(元司隷。治所は洛陽)、兗州(廩丘)、豫州(項)、冀州(房子)、并州(晋陽)、青州(臨菑)、徐州(彭城)、荊州(襄陽。後に江陵)、揚州(寿春。後に建業)、涼州(武威)、雍州(京兆)、秦州(上邽)、益州(成都)、梁州(南鄭)、寧州(雲南)、幽州(涿)、平州(昌黎)、交州(龍編)、広州(番禺)。
続けて武帝は詔を下した。
「昔、漢末に四海が分裂してから、刺史は、内は民事に親しみ、外は兵馬を統率するようになった。しかしながら今、天下は一つになった。そこで各地の武器を収蔵し、刺史は職を分けて、全て漢氏の故事(前例)のようにするべきである。そして、悉く州郡の兵を去らせ、大郡には武吏百人を置き、小郡には五十人を置くことにする」
つまり州の責任者であった刺史の職責を漢代のように郡県の長吏を察挙することだけに限定させ、兵の数を減らすということであった。
これに対し、晋に滅ぼされた呉に仕えていた交州牧・陶璜が上書した。
「交・広は東西が数千里にわたり、服従しない者が六万余戸もおり、官役に服従している者に至っては、五千余家しかおりません。この二つの州は唇と歯の関係にあり、兵だけがこれを鎮守できます。また、寧州の諸夷が上流に接して占拠し、水陸が並んで通じています。まだ州兵を削減して防備の薄さを示すべきではありません」
僕水、葉楡水、労水、橋水という四つの川が寧州から出て交・広領域に入る水路とかつて蜀に仕え、晋の元でも活躍した霍弋が寧州から楊稷らを派遣して陸路をもって交・広を攻略しようとするなど、交通の便がとてもよいにも関わらず、その交通の要所を服従していない諸民族が有しているのである。これに対抗するために武力を有しておくべきということである。
僕射・山濤も、
「州郡の武備を去らせるべきではありません」
と反対した。
しかしながら武帝はこれらの意見を聴かなかった。彼にとって二人が警戒している諸民族など脅威に感じなかったのだろう。天下統一という大事業を成し遂げた自信と安堵が彼にあったためであろう。
(それにもう戦は良かろう……)
長い戦乱は終わったのである。平和な時代であるべきだと彼は思っていたのである。
しかしながらこの武帝の判断によって永寧(晋の恵帝の年号)以後、盗賊が群起してもそれに対抗する備えが州郡になく、制御できなくなってしまったため、天下が大いに乱れていくことになる。
また、このような状態に対して刺史は後漢末期の群雄割拠のころのように兵民の政を兼ねることになり、逆に地方の軍権が大きくなって、中央の意思に従わないようになる。
また、漢魏以来、羌・胡・鮮卑の降者は多くが塞内の諸郡に住んでいたが、統治に対する憤懣や怨恨が原因でしばしば長吏を殺害するようになり、徐々に民の禍患になっていた。
この状況に対して侍御史・西河の人・郭欽が上書した。
「戎狄は横暴かつ凶悍で、古の時代から災いを成しておりました。魏の初めは民が少なかったため、西北諸郡は皆、戎狄の居住地となり、内は京兆、魏郡、弘農に及ぶまで往往にして戎狄が住むようになりました。今、彼らは服従しているとはいえ、もし百年の後に風塵の警(兵乱による警報)があれば、胡騎が平陽、上党から三日も経たずに孟津に至り、北地、西河、太原、馮翊、安定、上郡は全て戎狄の庭になってしまうことでしょう。呉を平定した武威と謀臣・猛将の智略・戦略に乗じて、徐々に内郡の雑胡を辺地に移し、四夷の出入りに対する防備を厳しくし、先王の荒服の制を明らかにするべきです。これが万世の長策です」
『荒服の制』とは五服の制度のことで、天子が住む地を中心にして、その近くから甸服・侯服・綏服・要服・荒服という五つの区域を設け、一番遠い荒服の地に蛮夷が住むという制度のことである。
しかしながら武帝はこの意見を採用しなかった。
(こちらに従っているものに対してやるべき行為ではない)
歴代の王朝の開祖の中で、武帝は寛容な人物であったと言える。それは敵国の重臣を抜擢する姿勢や魏の皇族の禁錮を解くなどの姿勢からも見える。
『資治通鑑』の注釈を行った胡三省は内地に住むようになった戎狄について、
「後の諸胡乱華の張本(諸異民族が中華を乱す要因。十六国時代が始まる原因)となる」
と書いている。
天下統一を成し遂げ、平和に向かっていくはずだった時代に戦乱の時代への燻りが見え隠れしていたのであった。




