Cafe Shelly 愛しの君へ
一目惚れ、というのはこのことを言うのだろう。
といっても、ボクが彼女に一目惚れしたのは小学校五年生、十一歳の時。相手は年上。しかも十歳も上だった。
「みなさん、はじめまして。今日から三週間、みなさんと一緒に過ごすことになりました。教育実習の佐山響子といいます。仲良くしてくださいね」
ロングヘアーで活発なイメージ。けれど体は小さい方。うちのクラスの女子の、背の高い飯島さとみより小さくて、そしてかわいらしい。さすがに小学生とはいわなくても、下手をすると中学生くらいにも見えそうな感じがする。
そういうボクは、背は小さい方。うちの小学三年生の弟の友達より小さいので、それがコンプレックスではある。
けれど、気持ちだけは負けていない。ちょっと大人びた行動をしようとするんだけど、見た目と合っていないので自分でも滑稽だと思う。
そんなボクが、響子先生に一目惚れ。今まで好きだと思った女子は何人かいる。けれど、今までにない衝撃だったのは間違いない。
「みんなの名前、早く覚えたいから気軽に声をかけてね」
その日から、響子先生はボクたちの人気者となった。一緒に遊んでくれるし、勉強も熱心に教えてくれる。
「みちたかくん、何つくってんの?」
昼休み、響子先生から突然声をかけられたときには、本当にドキッとした。ボクの趣味は切り絵。去年図工の授業でやって以来、その面白さにひかれて。今ではプロが使うような工作ナイフを使って、ずいぶんと小さなものまで切れるようになった。
昼休みになると、他の連中は校庭で遊ぶのが当たり前だった。しかしボクは昼休みには教室で、一人で切り絵をしたり、そのための下書きをつくったりしている。
そんなボクのことを、クラスのみんなは「根暗だ」とか「変わってる」なんて言っているけれど、だからといっていじめられているわけではない。事実、図工の時間になるとボクのことを一目置いているのを感じる。
「えっと、切り絵をつくってるんです」
「へぇ、おもしろそうね。今までどんなのつくったの?」
「えっと、主にアニメのキャラクターとかが多いんですけど」
「ねぇ、今度先生にも見せてよ。参考になりそうだし」
このとき、響子先生の顔がすごく近くて、心臓がドキドキしていたのがよくわかった。ひょっとしたら、響子先生にも心臓の音を聞かれたのではないかと思ったくらいだ。
「は、はいっ」
思わず声が裏返ってしまった。
これが恋ってやつなんだな。同級生の女の子では抱くことができない、このドキドキ感。おかげで頭の中は響子先生でいっぱいだった。
そうして気がついたら三週間が経っていた。切り絵のお陰で、響子先生とは少し近づけた気がしたけれど、それ以上のことはない。まぁ、当たり前だけど。
いよいよ響子先生とのお別れの日。実はボクはあるものを用意していた。切り絵で作った告白。といっても、ラブレターではない。響子先生の似顔絵と、自分の似顔絵、そこにハートマークをつけたもの。ボクの渾身作だ。あとはこれをいつ渡すか。
「これでみなさんとはお別れですが、この三週間は私の中では宝物になっています。またみなさんが大きくなったら、どこかで会えるといいですね。そのときは気軽に声をかけてくださいね」
もちろん、そうするつもりだ。だって、響子先生と離れたくないんだから。
結局、帰りの会が終わるまで告白の切り絵を渡すことはできなかった。だから、帰りに待ち伏せをすることにした。
校門のところで、響子先生が出てくるのをひたすら待つ。校舎にはほとんど人がいなくなった。残っているのは先生たちだけ。
しばらくして、五人の人影が見えた。
「あ、来た!」
五人の中にひときわ背の低い姿がある。それが響子先生。ボクは勇気を出して、五人の前に出た。
「響子先生っ!」
「あら、みちたかくん。どうしたの?」
「あの、あの…響子先生に渡したいものがあって」
ボクは両手で、頭を下げながら作った切り絵の入った封筒を手渡した。自分としてはプロポーズのつもりだ。
「へぇ、中、見ていい?」
「あ、えっと、できたら一人で見て下さい」
「わかった、帰ってから見るね。ありがとう」
そう言って、他の四人と一緒に響子先生は去っていった。でも、本当にこれで良かったのだろうか?なんだかちょっと後悔が残る。
家に帰って、しばらくボーッとしてしまった。テレビを見ているものの、内容は頭に入らない。
「みちたか、電話!」
お母さんがボクを呼ぶ。誰だろう、電話って。
「あ、みちたかくん」
「き、響子先生っ!?」
電話は響子先生だ。もしかしたら、と思って住所と電話番号を書いた紙を一緒に入れていたのが成功した。
「切り絵、ありがとう。とてもうれしかったよ。ちょっと照れるけど」
電話口の向こうで、照れている響子先生をイメージしてしまった。
「せ、先生っ」
「どうしたの?」
「あの、ぼ、ボクと…」
このとき、ボクはどうしてこんな言葉を言ったのか自分でもわからなかった。けれど、それが今の本心なのは間違いなかった。
「ボクと、結婚して下さいっ」
しばしの沈黙。そして響子先生の方から言葉が出た。
「みちたかくん、ありがとう。とてもうれしいよ。でも、みちたかくんが結婚できる年令になったら、先生はもうおばちゃんよ。それでもいいの?」
「は、はいっ、それでもいいです」
「そうね、じゃぁ、みちたかくんが結婚できる年令になって、私に見合う男性になったなって思ったら、もう一度プロポーズしてくれるかな。先生、待ってるからね」
「はいっ」
「じゃぁ、その日が来るのを楽しみにしてるね」
そう言って電話は切られた。後から思えば、ボクのことを傷つけないようにするための、社交辞令的な言葉だったのかもしれない。けれど、ボクにとってはこの言葉が励みになったのは間違いない。
「よし、響子先生に見合う男になるぞ!」
とはいったものの、どうすればいいのだろうか?考えた結果、自分が見つけた方法、それは…
「学校の先生になる!」
そうだ、響子先生と同じように学校の先生になれば、見合う男性とみてくれるはず。その日からボクの生活が一変した。
正直、ボクの成績は中の下といったところ。通知表はアヒルの行進だって親から言われていた。けれど、このままじゃ先生になるために大学に進むことなんかできない。
「先生になって、響子先生と結婚するんだ」
この思いで、ボクは勉強をするようになった。勉強って、中身がわかればだんだんとおもしろくなってくる。おかげで小学校を卒業する最後の通知表は、あと一つでオール5になるところだった。
中学に進んでもその勢いは止まらない。さすがにトップにはなれなかったが、テストでは十位以内をはずしたことがない。そして高校は、この地域では進学校と呼ばれているところへ。もちろん目指すは学校の先生。けれど、ここにきて「何の先生」になるのかを考えてしまった。
もちろん、響子先生と同じ小学校の先生を目指す。しかし、何らかの専門的な分野を持っておいたほうがよい。
普通は五教科から選ぶものだが、ボクの場合は趣味でやっている切り絵の腕もかなり上がっている。なので、美術系を専門としていくことにした。
そしていよいよ大学へ進学。この間にボクの背もそれなりに伸びたが、平均よりは小さいほうかな。でも、響子先生は小柄だから、そこは大丈夫かな。
思えば小学校五年生の時からずっと、響子先生を追いかけていた。残念ながら響子先生がどこに住んでいるのかはわからない。同じ県内にいるということだけはわかっている。
毎年新聞で発表される教員の異動、これだけが手がかりだった。新任で先生になった時、そこから一度異動になったところまでは追えている。間違いなければ、今は地方の小さな小学校の先生をやっているはず。
そうしてボクは大学三年生になった。もうすぐボクも教育実習がある。実習先は大学の付属小学校か、自分の地元の学校となっている。ボクは迷わず自分の母校を選んだ。あとは学校が受け容れてくれるか、だ。
「みちたかくん、いよいよ教育実習だね」
声をかけてきたのは、同級生の飯山加奈。彼女とはそこそこ仲がよいのだが、彼女という存在ではない。ボクは響子先生一筋。けれど、このことは誰も知らない。
「加奈は実習先、どこを希望してるの?」
「私は附属小学校。今住んでるところから通えたほうがいいからね。みちたかくんは地元?」
「うん、たまには実家にも帰らないと。そういえば加奈は実家ってどこだっけ?」
「私は北陸、遠いから面倒なのよね。だからこの地で先生になろうかと思ってる」
人それぞれ、事情はあるんだな。
「みちたかくんはどうして先生になろうと思ったの?」
この質問をされて、ドキッとした。頭の中に響子先生が浮かんだから。その瞬間、顔が熱くなるのがわかった。
ボクの中の響子先生は、10年前から変わっていない。つまり、今のボクと同じ年齢の響子先生がそこにいる。
「ど、どうしてって、ま、まぁ、あこがれている先生がいてね」
「へぇ、どんな人?」
どんな人って、かわいくて愛嬌があって、そして熱心で。頭のなかでは女性に対しての褒め言葉しか出てこない。けれど、そんなこと口には出せない。
「と、とてもいい先生だよ」
「そっか。でも、みちたかくん、顔真っ赤だよ。どうしたの?」
ヤバイ、そんなところまで見られてたのか。
思えばこの十年間、ボクは響子先生一筋だった。同年代の女の子には目も向けなかった。事実、眼の前にいる加奈もかわいい女性ではある。が、異性として見ることができない。
「先生になれたら、その恩師に御礼を言わなきゃね」
加奈のこの言葉で、ふと現実に戻った。今のボクがあるのは、響子先生のおかげ。よし、教育実習の間に響子先生を訪ねて、お礼を言いに行こう。
「加奈、ありがとう」
「えっ、なによ、急にお礼なんて」
「いや、なんでもない」
その場はごまかしたが、響子先生に会えると思うと急に胸がドキドキしてきた。やっぱ、完全に恋してるな。
そうしていよいよ教育実習となった。ボクが行く学校は、運良くボクの母校となった。懐かしい校舎、懐かしい教室。
さすがに当時のボクを知っている先生は一人もいない。そう思っていたのだが…
「今日から三週間、教育実習に来てくれる三名を紹介します」
朝、職員室での朝礼でボクを含め三名の教育実習生が紹介された。そして自己紹介。
「これから三週間お世話になります、高梨みちたかといいます。よろしくお願いします」
元気よく挨拶をしておじぎをする。顔を上げてあらためて職員の皆さんを見回すと、まさかという人がそこにいた。けれど確信が持てない。でも、間違いはないと思う。
髪をショートカットにして、ちょっとぽっちゃりとした体型にはなっているけれど、背の高さ、笑顔はおそらく間違いない。けれど、首から下げている名札の名前がそれではない。
響子先生の名字は「佐山」、その人の名札には「長谷部」と書かれてある。おかげで頭が混乱してしまった。
「高梨くん、どうかしたのかな?」
教頭先生から言われて、ハッと我に返った。
「いえ、なんでもありません」
「では、担当になってもらう先生ですが、まず高梨くんは長谷部先生、お願いします」
「はい」
えっ、長谷部先生ってあの先生だよね。
間違いなく、ボクが目をつけたあの先生が担当でついてくれる。なんだかうれしいような、それでいて響子先生を裏切ってしまうような、複雑な気分だ。
朝礼も終わり、長谷部先生と打ち合わせ。
「今日から三週間、よろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
「ところで高梨くんはこの学校の卒業生なんだよね」
「はい、そうです」
「そっか」
この「そっか」の言葉の後、長谷部先生は意味深なほほ笑みを浮かべた。まさか、やっぱりこの人が響子先生?
そうだ、まだ名字だけで名前を確認していなかった。
「あの…長谷部先生、下の名前を教えていただけますか?」
「うふふ、知ってるくせに」
知ってるくせにって、えっ、ってことは、やっぱりそうなの!?
「ひょっとして、き、響子先生、ですか?」
「もうとっくに気づいていると思ってた。正解!」
「で、でも、名字が違うから…あ、もしかしたら結婚された、とか?」
「まぁ、そのことはまたゆっくり話すね」
おちゃめに笑う響子先生。それにしても、十年も経つと人ってイメージが変わるものなんだな。特に、自分の中で印象深かった長い髪が短くなっていたことは、ある意味ショックだった。
けれど、これからの三週間はとても楽しくなりそうだ。ボクの心はさらにはずんでいく。
ボクが受け持つのは、なんと五年生。響子先生と出会った学年と同じ。なんか運命を感じるな。
「みなさん、はじめまして。今日から三週間、みなさんと一緒に過ごすことになりました。教育実習の高梨みちたかといいます。仲良くしてくださいね」
目の前の子どもたちは元気に「はーい」と返事をしてくれる。なんだかうれしくなるな。
「高梨先生は、ここの小学校の卒業生なんですよ。しかも、五年生のときにはこの教室で勉強をしていました」
「すごーい」
響子先生が紹介を追加してくれた。このとき気づいた。そうなんだ、ボクと響子先生が出会ったのはこの教室だった。響子先生、そんなことを覚えていてくれてたんだ。
初日の授業が終わり、放課後に響子先生と一日の振り返りを行う。よかったこと、改善すべきこと、そして明日の目標を話すのだが、ここで響子先生がまたまた意外なことを口にした。
「みちたかくん、覚えてる? 先生にラブレターくれたこと」
覚えているも何も、それがきっかけで今ここにいるんだから。けれど、そのことを言われて顔が真っ赤になる。あこがれの、そして愛しい響子先生をいざ目の前にすると言葉が出なくなってしまう。
「あははっ、顔真っ赤にしちゃって」
響子先生、ボクのことをからかってるのかな?
「でもね、あのときとってもうれしかったの。こんなに生徒に慕われているんだって。そのおかげで今があるかな。みちたかくんが私に勇気をくれたの。ホント、ありがとう」
そう言われて、ボクもうれしい。うれしいけれど、そこには恋愛といった感情は存在しない。ただ、生徒から慕われていたことへの喜びがあっただけ。ボクとしては悲しむべき事態である。
「き、響子先生…」
ボクはこの時、十年間抱いていた気持ちを告白しようかと思った。けれど、何かがそのことを妨害した。今はやめておけ、そう神様から言われた気がしたんだ。
「ん、なぁに?」
「いえ、なんでもないです」
胸の高まりをおさえきれないまま、教育実習初日が終わった。
その日の夜、加奈からメールがきた。
『教育実習初日、おつかれさま。そっちはどうだった?』
響子先生と出会ったことを加奈に報告しようかと思った。けれど、いろいろと突っ込まれるのも面倒。結局無難にこんな返事を。
『五年生担当。楽しく過ごせそうだよ』
すると、すかさず返事。
『私は三年生だよ。お互いにがんばろうね』
『うん、楽しくやっていこう』
たわいのない会話。でも、加奈はどうしてボクにこんなメールを送ってくるんだろう。仲がいいとはいっても恋人じゃないんだし。
ここでふと思った。響子先生とメールアドレスの交換ってしていいよね。そうしたら、大学に戻っても連絡とれるし。よし、明日聞いてみよう。
加奈のメールのお陰で、いいことを思いついた。加奈に感謝だ。
翌日、早速適当な理由をつけて響子先生の携帯番号とメールアドレスを聞き出すことにした。
「響子先生、これからいろいろと相談することもあるだろうから、携帯番号とメールアドレス教えてほしいんですけど」
「あ、ちょうどよかった。私もみちたかくんの連絡先を知りたかったのよ。昨日聞くのうっかり忘れてて」
なんと、響子先生も同じこと考えていたとは。相思相愛なのかな?なんて都合のいいことを考えてしまった。
その日は無難に一日が終了。だが、夜に事件が起きた。
「あ、電話だ」
明日の準備のため、実家でいろいろと作業をしているときにふいになった電話。このとき、相手の名前も確認せずに出てしまった。
「はい、高梨です」
「あ、みちたかくん、長谷部です」
「き、響子先生!?」
さすがにこれは驚いた。まさか、響子先生から電話がかかってくるとは。
「あはは、なんか驚かせちゃったかな。ごめんね。あのさ、学校では言いにくかったから電話で言おうと思って」
学校で言いにくいって、何の話だろう。急にドキドキし始めた。
「は、はい。な、なんでしょうか」
緊張して、急に口の中が乾いてきた。ホント、ドキドキだ。
「今度の日曜日、時間あるかな?」
えっ、先生からお誘い?このとき、もうすでに頭の中はパニック。
「は、はいっ、あ、あいてます」
「よかった。学校じゃゆっくりと話せないから、どこかで時間を作って、みちたかくんとゆっくり話がしたいなって思って」
本当に響子先生からのお誘いだ。この瞬間、頭の中がピンク色に染まり、バラが飛び交い始めた。
「じゃぁ、駅前の噴水のところで、十時くらいに待ち合わせでいいかな?」
「はいっ、よ、よろしくお願いしますっ」
思わず電話の前で深々とおじぎをしてしまった。
この週は落ち着かない日々を過ごした。教育実習生として、子どもたちと向き合いながらも、意識は響子先生に向いている。響子先生の姿をちら見しながらも、なんとか課題をやり過ごす日々。
そうして迎えた日曜日、朝から落ち着かない。どんな服で行こうか、どんな会話をしようか、頭の中がぐちゃぐちゃ。で、結局ジーンズにシャツという、いかにも大学生らしい格好になってしまった。
待ち合わせ場所についたのは、十時より十分ほど前。ボクのほうが先についているとばかり思っていたのだが…
「あ、みちたかくん」
なんと、響子先生の方が先に来ているじゃないか。手を振るその姿は、とてもボクより十歳も年上とは思えない。同級生よりも女の子らしいって感じがする。
「さ、行こう」
「えっ、えっ」
なんと響子先生、ボクの手を握ってちょっと早足で歩きだす。これにはさすがにドキッとした。
「ど、どこに行くんですか?」
「ちょっとおもしろいところ。みちたかくんもきっと気にいるよ」
わけもわからずに、響子先生にひっぱられながら歩き続ける。そうしてたどり着いたのは、街なかの細い路地。パステル色のタイルで敷き詰められた道が、気持ちをワクワクさせてくれる。
「ここよ」
連れてこられたのは、その路地の中ほどにあるビル。響子先生はビルに二階に、ボクの手を引いてのぼっていく。
カラン・コロン・カラン
そのドアを開けると、心地よいカウベルの音。それとともに聞こえてくる「いらっしゃいませ」の声。そして漂ってくるコーヒーと甘い香り。ここは喫茶店なんだ。
「こちらのお席にどうぞ」
かわいらしい女性店員が窓際の席に誘導してくれる。髪が長くて、出会った頃の響子先生を思い出してしまった。
「みちたかくん、今日はおつきあいしてくれてありがとう」
「い、いえ、こちらこそ」
「ここのコーヒー、すっごく不思議な味がするの。だからみちたかくんにも味わってもらいたくて」
不思議な味って、どういう意味だろう?すると、響子先生は女性店員にこんな注文をした。
「魔法のコーヒー、二つお願いします」
「かしこまりました」
魔法のコーヒー?ますます不思議にさせてくれる。
「響子先生、魔法のコーヒーってどういうことなんですか?」
「ふふふ、それは飲んでからのお楽しみ」
ボクにとって、響子先生との再会とこうやって誘ってくれたこと自体が魔法にかかっているようなものだ。あまりにもうまくいきすぎている。
「あのね、みちたかくん、今日はお礼が言いたくて誘ったの」
「お礼、ですか?」
お礼を言いたいのはこちらの方なのに。どういうことだろう?
「私ね、名字が変わったでしょ。まずはそのことについて説明するね。実は、私の両親が離婚したの。それで、私は母方の名字に変えることにしたんだ」
「そうだったんですか」
響子先生の表情、今まで笑っていたものが急に神妙な顔つきに変わった。そこには深い理由がありそうだ。
「私も、今までの名前で仕事をしていたから名字を変える必要はなかったんだけど。でもね、どうしてもあの名字を名乗ることが許せなくなって…」
このとき、響子先生の顔つきは険しいものへと変化した。そこには嫌な思いでがあったに違いない。
響子先生の話は続く。
「私の父親はね、私の母にずっとDVをしてたの。それだけじゃなく、とうとう私にまで暴行をくわえようとして…」
「先生…」
響子先生の告白、それはとても重くて苦しいものだった。そのときの悲痛な叫びが、今の響子先生の顔に出ている。
「それで、私が思い切って相談所に駆け込んで。そこから事態が大きくなっちゃって、やっと両親は離婚できて。それが二年前の出来事だったの」
響子先生、そんなつらいことがあったんだ。
「そのときにね、思い切って髪を切ったの。名字と一緒に気持ちも切り替えようと思って。そして、学校も変わらせてもらった。このことで母のそばにいてあげなきゃって思って。教育委員会も事情を察知してくれて、実家のある学校に転任させてくれたの。それが去年の話」
そうか、ボクは新聞で「佐山響子」という文字しか探さなかった。だから転任したことがわからなかったんだ。
「お待たせしました、シェリー・ブレンドです。飲んだらどんな味がしたのか、ぜひ聞かせてくださいね」
女性店員はそう言って、ボクと響子先生の前にコーヒーを置いた。味を聞かせてほしいって、なんだかめずらしいな。
「そうそう、肝心なことを伝えてなかったな。私ね、そんなことがあってちょっと落ち込んでいたときに、このコーヒーと出会ったの。このお店に来たのはまったくの偶然だったんだけど。でも、このおかげで、そしてみちたかくんのおかげで今があるのよ」
ますます意味がわからない。どうしてコーヒーとボクが結びつくんだ?
「まずはコーヒーを味わってみて。話はそれからね」
そう言われて、早速コーヒーを口にすることにした。
「えっ、なに、これ?」
最初はコーヒーの味だった。けれど、そのあとすぐに別の味がボクの舌に広がった。いや、味というよりはイメージだ。
小学校五年生の時に感じた、響子先生への想い。あのとき、一生懸命つくったプレゼントの切り絵。そこに込めた、ほんのりと甘く切ない恋心。それを思い出させてくれる味。
「みちたかくん、どうだった?」
響子先生の声で、ハッと我に返った。夢でも見ていたような感覚。なんだったんだ、あれ。
「あ、えっと、なんか夢を見ていた感じでした。味というよりは、記憶を呼び起こしてくれたような感じです」
「どんな記憶?」
「え、えっと、そ、それは…」
さすがに内容は、本人を目の前にして言うのは照れくさい。
「あれっ、どうしたの?顔が真っ赤だよ」
「か、からかわないでくださいよ。それより、響子先生はどうだったんですか?」
ちょっとムキになって切り返す。すると、響子先生はちょっと遠い目をしながらこんなふうに語り始めた。
「私はね、前にここで飲んだときと同じ味がした。味というより、想いかな。あのときね、初心に戻してくれたの。私が先生になるって想いに」
そういえば、響子先生が先生を目指す理由はなんだろう?
「私ね、最初はただなんとなく先生になりたかった。でも、教育実習に行って気づいたの。未来に輝く子どもたちの可能性を広げたいんだって。何でもいいから、私と触れ合うことできっかけがつくれればって。それが私の想い」
なんか響子先生らしいな。でも、まだボクとは結びつかない。
「でも、両親の離婚のこと、そして私自身が被害者になりかけたことで、気持ちはそれどころじゃなくなっちゃって。先生をやめようかとも思ったことがあったの。そんなときに、家の整理をしていたらこれ、見つけたの」
響子先生はそう言って、バッグから何かを取り出してきた。それを見た瞬間、さっき飲んだコーヒーの味を思い出した。
「これ、みちたかくんがくれた切り絵。このとき、私の想いがよみがえってきたの。そうだった、こんなふうに私のことを想ってくれる人がいるんだって。もう一度がんばらなきゃ。みちたかくんの想いに応えるためにも。だから私は先生として復帰できたの」
このときの響子先生の表情は、お世辞でもなく本当にボクに感謝を伝えようとしているものだというのがわかった。
「素敵な話ですね」
声の主はお店の店員さん。そういえば、ずっと横に立っていたんだ。
「ありがとうございます。みちたかくんが私に、先生として生きることを思い出させてくれた。だから、教育実習で来るってわかったときに、真っ先に校長先生に私が指導しますって立候補しちゃった」
このときに見せた響子先生の笑顔。これにまたドキッとさせられた。髪は短くなって、ちょっとだけふっくらしたけれど、ボクが追い求めていた響子先生そのものだ。
「ところで、みちたかくんのコーヒーの味はどうだったの?さっきは記憶を呼び起こしてくれたって言ったけど。どんな記憶?」
「えっ、えっとですね…」
ちょっと言うのは照れくさい。そのとき、無意識にコーヒーに手が伸びて口にしていた。
えっ、今度はまた味が違う。なんだろう、これ。さっきより甘く感じる。さっきのは例えるならば、甘く切ない初恋の味。けれど今度は、新婚家庭のような甘さ。といっても、結婚もしていないのに新婚家庭なんてわからないけれど。でも、そんなイメージが頭に湧いてきた。
「甘い、甘いんです」
ふと口にした言葉。その言葉で、店員さんがこんな事を言ってきた。
「恋の甘さ、そんな感じじゃないですか?」
「はい、まさにそんな感じです」
言ってから「しまった」と思った。
「あはっ、みちたかくん、恋してるのね。なんかうらやましいなぁ。私なんか父親の件で男性が怖くなっちゃって。おかげで今まで、男の人とつきあったことないんだよね」
このとき、ボクはおそらく思考回路がショートしていたのだろう。とんでもないことを口にしてしまった。
「だ、だったらボクと、ボクとお付き合いして下さい」
この言葉で、一瞬時間が止まってしまった。そのあと、ボクは顔が真っ赤になっていくのがわかった。
「みちたかくん…あ、ありがとう。でも、私はみちたかくんよりも十歳も年上なんだよ。こんなおばちゃん、からかっちゃダメだよ」
「からかってなんかいません。ボク、ずっと響子先生に恋心を抱いていました。五年生の時からずっとです。だから先生になろうと思ったんです。先生、あのときにこう言いました。ボクが結婚できる年令になって、響子先生に見合う男性になったらもう一度プロポーズしてくれって。だからボクは、先生に見合う男性になるために先生になろうと思ったんです」
自分の胸の内を一気にしゃべってしまった。そしてまた、時間が止まった。
「マイ、ちょっと」
カウンターの奥で、このお店のマスターが店員さんを呼ぶ声が聞こえた。
「みちたかくん、それって本気?」
やっと時間が動き出した。
「はい、本気です」
「ありがとう。とってもうれしい。私ね、男性からそうやって告白されたのはじめて」
まさか。だって響子先生はとてもかわいらしくて、今までだれかと付き合っていてもおかしくない。それが、告白されたのがはじめてって。
「正確に言えばね、今まで付き合ってほしいって言われたことはあるの。でもね、そこには愛情とか恋っていうのが感じられなくて。その場だけの、遊びの感覚で言われたとしか思えなかった。というか、私がそういうふうにしか男性を見られなかったのかもしれないけど」
「ボクは違います。十年間、ずっと、ずっと響子先生だけを追いかけていました」
この十年間、ずっと胸に抱いていた気持ちを、ようやく告白することができた。逆を言えば、十年間ずっとボクの中の時は止まったままだった。
「でも、私のほうがずっと、ずっと年上だよ。こんなおばちゃんなのに」
「ボクにとって、愛に年の差は関係ありません」
「その通りですよ」
声のする方に、二人で振り向いた。そこにはさっきの店員さんと、このお店のマスターが立っていた。
「実は、私達も年の差カップルなんですよ」
「えっ、お二人がカップル?」
響子先生、さすがに驚いたみたい。
「はい、マイ・ダーリンです」
「ははは、実は私は以前高校の教師をやっておりまして。妻はそのときの教え子だったんです。年齢差は二十あります。大変失礼ですが、さきほどのお二人のお話を聞いていて思ったんです。男と女、小学校と高校の違い、年齢差の違いはありますが。年の差カップルなんて当たり前にいますよってことをお伝えしたくて」
ボクはマスターの話を聞いて、勇気が湧いてきた。可能性はまだあるんだ。けれど、肝心の響子先生は…
「マスター、ありがとうございます。私、いいんですか?」
「はい、いいんです」
響子先生、涙ぐんでいる。その姿を見て、とても愛おしく感じてしまう。反射的に響子先生を抱きしめてしまった。
「響子先生、ボクが幸せにしてみせます。だから、だからこれ以上泣かないで下さい。ボクが泣かせません」
ボクの言葉とは反対に、響子先生はさらに涙を流す。そうしてまた、時間が止まった。
「みちたかくん、ありがとう。今のみちたかくん、とてもたくましい。そしてすごくうれしい。でもね、まだみちたかくんと一緒はなれないの」
「えっ、ど、どうしてですか?」
「だって、あなたはまだ学生。そして今は教育実習中でしょ。だからまだまだ私に見合った男性にはなっていない。だから早く、先生になって私を迎えに来てくれるかな?」
えっ、そ、それって…そういう意味だよね?
ボクは胸の奥が熱くなり、そして思わずこう叫んでしまった。
「やったぁぁぁぁ!」
よし、こうなったら意地でも先生になってやる。そして早く響子先生を迎えに行くんだ。
こうして教育実習はさらに楽しく、身の入るものになった。学校に戻っても猛勉強。もちろん、先生になるために、だ。
「みちたかくん、なんかすっごい異常なくらい勉強してない?」
加奈が頻繁にそう言ってくる。遊びに行こうと誘われても、ボクは図書館でひたすら勉強するものだから。
「とにかく教採の試験、一発で通らないといけないから」
「教育実習以来、ホントそればっかだね。あーあ、たまにはみちたかくんとデートしたいのになぁ」
そう言われても、ボクにその気はない。というか、加奈は本気でボクのことをそう思っていたのか?だったら、響子先生のことをきちんと話しておかないと。
でも、それを話す時間すら惜しいくらい。結局、のらりくらりと加奈をかわす日々となった。
そうして教員採用試験の時期がやってきた。今では大卒がストレートで受かる率は少ないらしい。が、ボクには自信がある。いや、自信というよりも響子先生を迎えに行くという目標がある。だからこそ、絶対に受からなければいけない。
「みちたかくんは地元の教採を受けるんでしょ。私、どうしようかなぁ」
図書館の外で休憩中に、加奈がそれとなくボクに相談を持ちかけてきた。
「どうしようかなって、自分が受けたいところうければいいんじゃない?」
「うん、そうなんだよね。地元を受けるか、ここを受けるか、それとも…」
「それとも?他に選択肢があるのかよ?」
さりげなく、加奈に自販機の缶コーヒーを差し出す。
「ありがと。私ね、みちたかくんと同じところ受けようかと思って」
ぶほっ。思わずコーヒーを吹き出してしまった。
「ど、どういうこと?だって、加奈はうちの地元とは何の縁もないじゃないか」
「もうっ、いい加減に気づいてよ、私の気持ちっ」
やっぱそうか。けれど残念ながら、ボクにはその気はない。
「じゃぁ、正直に話すね。加奈、残念ながらボクには心に決めた人がいるんだ」
「えっ、そんな人いたの?」
それからボクは、響子先生の話を加奈にした。
「え〜っ、なんかショックぅ〜。私の時間を返してよぉ〜」
響子先生への想いの話、加奈はかなり衝撃的だったらしい。
「私、ずっとみちたかくんのこと見てたんだよ…」
その想いはうれしいけれど、ボクにとっては重たいもの。
このときに気づいた。ボクも下手をすると、今の加奈と同じことをしていたんだって。ボクの場合、十年以上も一人の女性に恋い焦がれていた。しかも勝手に。
教育実習の時、響子先生が別の男性とつきあっていたり、結婚していたりしたら。まさに今の加奈と同じように「ボクの時間を返してくれ」と叫びたくなったかもしれない。
恋愛って、そういう意味じゃ辛いものがあるな。勝手に恋い焦がれて残念な結果に終わっても、相手を責めることはできないんだから。
「よし、わかった。じゃぁ、せめてその響子先生とやらに会わせてよ。それで私が納得できる相手なら、私はきれいさっぱりみちたかくんのことあきらめるから。ね、いいでしょ?」
「いいでしょって、まだ教採の試験があるから。それが終わってからでいいか?」
「だめっ!じゃないと、どこの教採を受けるか決まらないから。私の一生がかかってるんだよ?」
なんか勝手に盛り上がってるけど。
結局、ボクのほうが根負けして加奈を響子先生に合わせることにした。おかげで週末は地元に小旅行になってしまった。しかも加奈と二人で。
響子先生は笑いながらOKしてくれたけど。本当は迷惑なんじゃないかな。そう思いつつも、加奈を納得させないといけないから。
会うのはあの喫茶店、カフェ・シェリーにした。どうせなら加奈にあのコーヒーを飲ませて、自分の願望を明確にしてもらおう。
カラン・コロン・カラン
喫茶店の扉を開くと、そこには癒やしの空間が広がっていた。
「いらっしゃいませ」
店員のマイさんとマスターがにこやかにボクたちを迎え入れてくれる。そして、お店の真ん中の丸テーブル席にはすでに響子先生が座っている。
「はじめまして。長谷部響子です」
響子先生、今日はとても女性らしい格好をしている。おちついた、大人の女性って感じ。その姿にますます惚れ込んでしまった。
「あ、えっと、飯山加奈です」
身長は加奈のほうが高い。けれど圧倒的に加奈のほうが押されている感じだ。だが、加奈もなんとか勢いをつけようと、席につくなりこんなことを切り出した。
「響子先生はみちたかくんと結婚するんですか?」
答えを微笑みで返す響子先生。
「笑ってごまかしてないで、はっきり答えてくださいっ」
加奈、ちょっと言葉がきつくなってきた。
「加奈さん、だったよね。加奈さんはみちたかくんのこと、どう思っているの?」
「はい、好きです。大好きです。だから、もっと一緒にいたい。そう思っています」
はっきりと言い放つ加奈。なんかすごい修羅場になってきたなぁ。って、当事者のボクがそんなふうに想っていていいのかなっとも思ったけど。
「どうしてみちたかくんを選んだの?」
「どうしてって…好きになるのに、理由なんかいりませんっ。じゃぁ、逆に響子先生はどうしてみちたかくんなんですか?」
「どうしてなんだろうね。私もわからないの。でもね、そう聞かれて、あらためて思ったの。みちたかくんとだったら、未来が見えるって。だからかな」
「未来が見えるって、どういう意味よ?」
加奈は、響子先生の言葉の意味がちゃんととらえられていないようだ。けれどボクにはわかる。このお店のコーヒー、シェリー・ブレンドを飲んだボクなら。
「おまたせしました。シェリー・ブレンドです」
ちょうどその時、店員のマイさんがコーヒーを運んできてくれた。あの魔法のコーヒー、シェリー・ブレンドだ。
「と、とりあえずコーヒーでも飲んで落ち着こうよ」
加奈にコーヒーをすすめる。加奈はちょっと怒った態度のまま、コーヒーに口をつける。すると、みるみるうちに表情が変化していった。
「な、なにこれ? どういうこと?」
「加奈、どんな味がした?」
「どんな味って、これ、コーヒーなのよね? なんかお母さんの味がする…」
「お母さんって、何をしている人なの?」
響子先生の問いに、今度は素直に答え始めた。
「お母さん、専業主婦なの。でも、地域の活動や人のお世話が大好きで。お金にもならないのに、一生懸命活動して。私、最初はそんなお母さんって嫌いだったけど、今では尊敬してる。あぁ、私もそんなお母さんになりたいんだなぁ」
なるほど、それが加奈の求めていたものなんだ。
「それって、加奈さんの求めていた未来なんだよ。このコーヒー、シェリー・ブレンドは飲んだ人が望んだものの味がするの」
響子先生からその説明を聞いて、不思議そうな顔をする加奈。店員のマイさんの方を向いたところ、マイさんはにっこり笑って「そうなんですよ」と言う。
「じゃ、じゃぁ、もう一度飲んでみる」
そうして加奈はもう一度シェリー・ブレンドを口にする。
「そっか…わかった、私が望んでいたこと。私、結婚っていうのにあこがれていたんだ。だから早く相手を見つけたいって焦ってた。そんなときにみちたかくんと出会っちゃったから。みちたかくん、優しいのよね。でもそれって、私だけじゃなく、みんなに対して。そう考えたら、みちたかくんじゃなくてもいいんだ」
加奈、つきものが落ちたみたいにおとなしくなった。
「加奈さん、私もそう思う。みちたかくんってすごく優しいの。逆に、私はそんなみちたかくんに惹かれちゃった。だから一緒になってもいいって、そう思ったの」
響子先生の思いをあらためて聞いて、ボクは胸の奥がジンっとなった。この人を、響子先生を大切にしなきゃ。
十年以上も想い続けた愛しの君を、これからずっと愛していける。だからこそ、響子先生を幸せにしなきゃ。
「みちたかくん、私があきらめたんだから。響子先生を幸せにしないと、バチが当たっちゃうぞ!」
「は、はいっ!」
この時の加奈の顔、マジだわ。でも、これで一件落着。
「ところでみちたかくん、先生になれなかったらこの話はパーだからね。しっかり勉強して、早く私を迎えに来てよ」
「は、はいっ!」
やべっ、こっちもマジだわ…。
<愛しの君へ 完>