純愛てすと
現代物ですが、現在より数年後くらいの未来の設定です(2018/05現在)
<chapter1―高校二年>
元号が変わってから何年か経ち、最近の話題は専ら成人年齢を18歳に引き下げてから最新の選挙と、往年の人気ミュージシャンの訃報、公共放送のネット受信料裁判の行方だった。高校生にはいまいち興味が湧かない話題だ。
籠原柚は高校一年生だった去年の今頃を振り返って思う。
時間が経つのは想像よりもずっと早く、周囲の環境は簡単に変化する。移ろいゆく日々は幻のように儚く潰えるのだろう。
柚はいつも傍にいて、慣れ親しんでいたはずの同級生を少しだけ懐かしむ。
考えてみれば彼とは中学一年から同じクラスだった。柚とクラスが分かれたと知った瞬間は、あれほど絶望的な表情をしていたというのに。
同学年でも有名な美人女子生徒と並んで歩く彼の姿を目撃して、柚はやはりと苦笑した。
遠目からでもよくわかる。どう見てもお似合いのふたりだ。きっと明日には学校中の噂になっているだろう。
鹿島瑞樹に彼女ができた――。
その事実は柚を酷く傷つけたが、同時に納得もさせた。どのみち最初から信じてなどいなかったのだ。想いは永遠ではない。遅かれ早かれいつか消えてゆく。それが今日この日であっても何ら不思議ではなかった。
「嘘つき」
呟いた言葉は口の中でくぐもって消える。
別にいい。誰にも、彼自身にもぶつけるつもりはない。柚がひとり勝手に幻想を夢見て、一方的に打ちのめされたとしても、どうして瑞樹だけを責められよう。
滑稽だった。
こんな独りよがりの恋が、柚にとっては手放せない大切なものなのだから。
「……嘘つき」
<chapter2―中学>
籠原柚と鹿島瑞樹が知り合った――親しくなったのは、中学校に入ってすぐの頃だった。
昔から柚は大人しい性格で、交友関係も狭ければ口数も少ない。内気な性質とも違うのだが、喧騒が苦手なため敢えて周囲から距離を置いている。時間があれば静かに本を読んでいたかった。
放課後は習慣のように図書室まで赴く。
図書室の裏口は中庭に通じる細道に繋がっており、気候がいい日は段差に腰をかけて外で読書を愉しんでいた。
周辺の木が陰を作り、時折吹き抜ける風が爽やかで心地いい。
お気に入りスポットで趣味に没頭できる時間は貴重である。部活や委員会のない日、柚は大抵そこにいた。
瑞樹と出会ったのは、そんな場所だった。
正確に言うと、クラスメイトなのだから顔を合わせたのは初めてではない。だが初対面と大差ない程度に二人の交流は皆無で、お互いに「ああこんな奴いたな」くらいの認識だったろう。
そもそも柚は目立つタイプではなく、当時は瑞樹の背も今よりずっと低く小柄だった。
多分あの頃、瑞樹は虐げられていた。詳細は柚も把握していないが、おそらく軽度のいじめ……を受けていたのだと思われる。
ひ弱そうな見た目と女子のような名前とコミュニケーション能力の不足が合わされば、質の悪い同級生や上級生に付け込まれることもある。尤も擦り傷を負って蹲る瑞樹を偶然目撃したとき、柚がそこまで想像できた訳ではなかった。
普段の指定席に先客がいたから、何事かと首を傾げただけだ。それが出席番号の近い同じクラスの男子だと気づくのにすら、少々の時間を要した。
「鹿島くん」
「……」
名を呼んでも、瑞樹は無反応だった。
柚は困惑した。
挨拶をするのも妙だが、何をしているのか訊ける雰囲気でもない。しかし見るからに深刻そうな相手に、邪魔だから退けと言うのも憚られる。
仕方なしに、柚は黙ってハンカチを差し出した。
瑞樹は一瞬だけ顔を上げる。
躊躇いがちに伸ばされた手の指が微かに触れた。
……ただ、それだけの始まりだった。
+ + +
結果だけ言えば――それ以来、柚は瑞樹にえらく懐かれたのだ。もともと独りでいることの多い柚に、瑞樹はべったりと纏わりつくようになった。休み時間も登下校も時間が許す限り、である。
当初は柚もさすがに戸惑った。
だが表には出さなかった。むしろ、だからこそ瑞樹も遠慮がなかったのかもしれない。
「籠原さん、次の授業、移動教室」
「……そうみたいだね」
「一緒に行く」
「……まあいいけど」
「お昼」
「……今日はお弁当ないから、購買に」
「俺が買ってきていい?」
「……まあいいけど」
「今日の帰りは」
「……委員会の日だよ」
「待ってる」
「……まあいいけど」
「今日は何読んでるの、籠原さん」
「……前の続き。推理小説のシリーズ」
「俺も読みたい。貸してくれる?」
「……まあいいけど」
他愛もない遣り取りが続いて、いつの間にか柚も慣れてしまった。男女が共に居ることを周囲に揶揄されもしたが、両者とも気に留めなかったせいで、いつしかそれが普通になっていた。
瑞樹をいびっていたと思われる男子も、飽きたのか改心したのかは知れないが、段々と姿を現さなくなっていったようだ。そもそも私学の中学校なので、あまりにも素行が悪い生徒は廃除された可能性もあるが。
柚にとって多少意外とはいえ、しばらくは平和な時間が続いた。
変化が起こったのは中学三年生のときだった。
+ + +
「ゆず、って呼びたいんだけど」
「は?」
「俺のことも名前で呼んでほしいし」
三年生に進級した直後、唐突に瑞樹が言った。
別に特別な日でも何でもない。
敢えて言うならば、知り合ったきっかけとなった同じ場所で、放課後の曖昧な時間を潰すように二人で漫然と過ごしていた。それだけだった。
「……なんで?」
さすがに二年間も同じクラスで顔を突き合わせていれば、二人の間にある種の親密さは生じている。ただ、呼び名に拘るほどの仲かと問われれば甚だ疑問である。
「もう中三だから」
「そうだけど」
「ちょっと違う感じにしたいというか」
「ふうん?」
確かに瑞樹は二年で大分イメージが変わった。
身長は伸び、細身ながら筋肉がついて、声がやや低くなった。柚が好んで読んでいた漫画の影響でバスケを始めたところ、案外向いていたらしく、活躍しているのも知っている。友人も数多くおり、以前のように柚とだけ話してる訳でもない。
「……まあいいけど」
柚は変わらず、淡々と瑞樹の言葉を受け流す。
どんな感情も瑞樹に見せることはしない。
そう思っていた。
「ゆず」
許可を出した途端、ごく近く、耳元で名を囁かれる。抑制された声音には甘さが含まれていた。
「――っ」
柚は瞳を瞠き、息を呑んだ。
「ゆずも、呼んでよ」
「え」
「俺の名前」
要求は強制のように聞こえた。
「み、ずき……くん」
「ん」
瑞樹は満足気に笑う。
以前は子どもっぽく感じた可愛らしい顔立ちが、急に大人びて見えた。
今なら当時はわからなかった動揺の理由をはっきりと説明できる。
おそらくあの瞬間、柚は初めて瑞樹を異性として意識した。
<chapter3―re:高校二年>
あの鹿島瑞樹に彼女ができた。
勝手にショックを受けて背を向けた柚は、真っ直ぐ帰宅することができなかった。かと言って校内に残るのも気が引ける。お気に入りの図書室は高校に上がってからあまり足を踏み入れなくなっていた。
彼らはきっとあのまま仲良く一緒に下校するのだろう。想像に打ちのめされ、柚は力なくふらふらと廊下を歩く。
何を今更、と自嘲しても、心は制御が難しい。
一度瑞樹を手放してしまえば、こうなることは簡単に予想できた。
もう彼は昔の非力な少年ではない。他人と馴染まない柚と違って、単に瑞樹は他人と巧く馴染めなかっただけだ。そのコンプレックスも成長に伴い解消された。女子にも結構な人気があると聞く。
例の彼女、名は何といったか。確か春日部……ミオだかミヨだか。
中等部からの進学組である柚や瑞樹と異なり、高等部からの外部受験生だったはずだ。バスケ部のマネージャーとして瑞樹と知り合い、高一の頃から想いを寄せていたらしい。
なぜ人付き合いのない柚がそんなことを知っているのかと問われれば、当人に直接語られたからと答えるしかない。
春日部某が柚に話し掛けてきたのはつい先日だった。クラスも違う一面識もない女子だったので、何用か心当たりもなかった。
『籠原さん、一年のときに鹿島と付き合ってたって本当? あれ? 中三のときだっけ?』
前触れもなく名乗られて、不躾な質問をぶつけられた柚だったが、面喰うでもなく無表情で春日部と対峙した。
『……別に。付き合ってない』
『そうなの?』
疑問形は取っているが、やっぱりとでも言いたそうに喜色を浮かべ、春日部は訊いてもいないのに瑞樹への恋心を吐露した。
彼女はこれから1年半も想い続けた瑞樹に告白するのだと言う。
どちらかと言えば造形のはっきりとした美人だが、恋する乙女特有の眼差しはきらきらして可愛らしい。
瑞樹は現在の外見からすれば浮いた噂の少ない男子で、唯一以前親しかった柚の存在が不安要素だったのだ、と春日部は正直に告げた。
『一年までは仲良かったよね?』
『……クラス、変わったから』
『そっかー。ほら私、外部受験組だから、中学から一緒って違うのかなー、なんて、気になっちゃって。昔から知ってるっていいよね』
『さあ』
悪気なく言葉を並べる春日部に、柚は辟易した。おそらく牽制ですらない。柚が相手ではそんな価値すら見出さなかったのだろう。
会話を続けるのも億劫になり、柚は適当に断って春日部を振り切った。
本心では聞きたくなかった。
自分と離れた瑞樹の動向など、彼の周囲を取り巻く煌びやかな人々の話など、柚は一切耳に入れたくはなかったのだ。
何故なら柚はひとつも変わっていない。
瑞樹と出会ったあの日のあの場所から、一歩たりとも動いてはいないのだから。
+ + +
バスケ部のエースとマネージャーの噂話は、予想通り瞬く間に校内に広まっていた。お似合いだとか以前から両想いだとわかっていたとか、わりと好意的に受け入れられたようだ。
柚が瑞樹と親しかったことを思い出す生徒も中にはいただろう。だが言葉すら交わさない現状を鑑みれば、普通は何らかの事情で関係性が壊れたのではと想像する。瑞樹は兎も角、万年ぼっちの柚にいちいち詮索する物好きはいないので、表向きは平穏に済んだ。
瑞樹と春日部は校内で二人きりではないが、以前の柚のように時間を共有している。他にもバスケ部や同じクラスの友人らも交えて語らっていることが多い。
柚はときどき廊下ですれ違ったり窓から遠目で視認したりしても、段々と心が動かなくなっていた。過去を思い出しても虚しいだけだと知っている。
中学一年で知り合い、三年のとき無自覚なまま恋をした。
高校に入ってからも身近にいた。
瑞樹は部活がますます忙しくなり、共に居る時間は目に見えて減ったけれども、以前と変わらず柚を構い倒した。高二で初めてクラスが分かれるまで、その状態は続いていた。
柚はどうして瑞樹がずっと自分に拘るのか理解できなかった。中学時代はまだわかる。孤独な人間が同類に魅かれるのは自然の成り行きだ。
けれど時が経てば環境も変わる。人間も変わる。
部活で活躍し友人も増えた瑞樹に、柚との交流はもはや必要ない。未だ独りでいる柚に対する同情であれば、余計なお世話だった。
だから離れた。
そう、あのとき柚が瑞樹を突き放したのだ。
――別に要らない。
中途半端に執着され、気まぐれに捨て置かれるくらいなら、何もなくていい。最初からなくていい。
高校二年の間、柚と瑞樹は一度も顔を合わさず、一言も喋らなかった。
それが約束であり、柚が課した試験だった。
今でも瑞樹が憶えているかは知らないけれども。
<chapter4―高校一年>
あの日のことを思い出すと、柚はいつも酷い頭痛に苛まれる。
高校二年以降のクラス分けは大学の進路で決まるため、一年の三学期には確定していた。文系を志望する柚と、理系の瑞樹では端から異なる。ここまで4年間続いた腐れ縁もこれまでなのだと思うと、一抹の寂しさを抱くのも無理はない。
高一最後の終業式の日、この世の終わりのように落ち込む瑞樹を見て、柚は珍しく苦笑した。そして本当に気まぐれに、一緒に帰るかと自ら誘ってみた。おそらく柚自身にも名残惜しい気持ちがあったのだろう。
駅に向かう前に、少し寄り道をする。
学校の裏手から坂を下りる途中、小さな公園があった。裏門ルートは遠回りになるので、生徒はあまり使わない。
その日の柚は歩きたい気分だった。瑞樹は文句も言わずついてきた。
公園の自販機でペットボトルを購入する。二人で交互に飲んだ。
陽射しは柔らかく穏やかだが、風はまだ少し冷たい。もう暫くしたら開花しそうな桜の蕾が微かに揺れていた。
「ゆず」
いつもと変わらず、瑞樹は柚の名を呼んだ。
「クラス違ったら、あんま会えない」
「……そうだね」
「ゆずには、……どうでもいい?」
「うん?」
瑞樹の声音があまりにも悲壮だったので、柚はまじまじとその顔を見つめた。身長は高くても捨てられた子犬みたいに弱々しい。
「あー……うん、寂しくなるね」
「だよね。だからね。あの」
一瞬だけ瑞樹は躊躇った。
「これからもゆずと会うにはどうしたらいいか、考えたんだけど」
「用があるなら普通に来れば?」
「そうじゃなくて、もっと」
「……っ、と付き合ってくれたらって。その……俺の、彼女に、なって」
「え……」
意味がわからない。
突然の申し出に柚は混乱した。
「……なんで」
「それは、だから、俺、ゆずが」
「いやいや、待って」
何故かぐいと迫って来る瑞樹を、柚は片手で制した。動揺を気取られないように、呼吸をゆっくりと抑える。
いったい瑞樹は何を言っているのか、自分で理解しているのだろうか。
「誤解、だよ」
「……何が」
「刷り込みとか、そういうのだと思うよ」
「何が」
「中一のときなんて子どもじゃん。だから、勘違い? 他にいないって思い込んじゃったんだよ、瑞樹くんは。私はそれって違うと思う」
柚の冷静な科白に、瑞樹は傷ついた表情をした。構わずに柚は続ける。
「もう私がいなくても、瑞樹くんは――」
「――俺は!」
大きな声を出されて、柚はびくりとした。
「みず、き、く」
「あ……ごめん。でも」
瑞樹は柚が怯えたと思ったのか、すぐに身を引いて謝罪する。しかし柚の言い分にはとても納得できないと主張した。
「俺は、本当にゆずが」
「……そんなの、信じらんないよ」
「気の迷いや勘違いじゃないなんて証拠、ない。信じられない。だから、付き合うとか無理」
残酷なのは柚だろうか。
それとも瑞樹だったろうか。
少なくとも拒否した側とされた側は、殆ど同じやる瀬なさを相手に感じていた。同じ言語を喋っているのに、何かが大きくズレている。お互いの心がすれ違っているのを感じた。伝わらない。
届かない――。
「……じゃあ、どうしたらいい」
先に折れたのは瑞樹だった。
「ゆずはどうしたら信じられる?」
無理矢理では柚の堅固な殻を破れないと悟った瑞樹は、即座に攻め入る方策を変えた。
「このままじゃ引き下がれない。条件を出して。ゆずが俺を嫌いじゃないなら」
嫌いかと問われれば、柚は首を横に振るしかない。人付き合いを避けて通ってきた柚は、大事な場面で平然と嘘を吐けるほど器用ではなかった。
「何でもする。誓うから」
「無理……だよ」
柚は大きく頭を振る。
そして聞き分けのない子どもを諦めさせるように無理難題を告げた。
「だったら最低一年は会わないで、話もしないで、私から離れて、それでも同じこと言える? すぐに他に楽しいこと見つけるでしょ」
「な……」
予想通り、瑞樹は受け入れ難いと渋面を作った。
「何言って……俺が、ゆずと、離れる? わざわざ? なんで……?」
「じゃないと、わかんないからだよ」
何故この程度の理屈が通じないのかと、柚は皮肉を口にする。
「一年もしたら、ううん、多分一月や二月で、瑞樹くんは私のことなんてどうでもよくなるよ。試してみたらいい」
「……嫌だ」
瑞樹は葛藤し、行き場のない悔しさにぎりと歯を食い縛る。
「百歩譲って条件を呑んでもいい。一年我慢してゆずが手に入るならそれでいい。でも……もし、もしも俺が傍にいない間に、ゆずに誰かが近づいたら、嫌だ」
「は?」
あらぬ方向から反撃を受け、柚は瞳を瞬かせる。瑞樹の思考回路が斜め上過ぎて、反応に困った。
「俺よりもゆずと仲がいい奴ができたら嫌だ。男はもちろん、女でも」
「意味がわからないよ」
眉間に皺を寄せた柚は、何を心配しているのかと呆れ、改めて提案する。
「だったら私も一年間、他のひとと親しくならない。誰とも友達にもならない。必要以上のことは話もしない。それでいい?」
今までと全く変わりないけどね、と自らを顧みて口端を上げると、そんな柚を瑞樹は渋々と認めた。
「わかった。約束して。一年経っても、ずっと話せなくても、俺がゆずを好きなままなら」
「あり得ないよ」
否定の言葉を塗り潰すように、瑞樹は強く迫る。柚は聞こえないふりをした。
「約束して」
――ゆずは、俺の、ものだ。
<chapter5-高校三年>
結局、一年が過ぎ高三の春になっても、瑞樹は柚の元に戻っては来なかった。
柚はもう何も感じなかった。
麻痺しているのか、単に自分が冷たい人間なのかは判然としない。
愛だの恋情だのがいとも容易く失われることを、柚は幼い頃から知っていた。
家庭環境にすべての責任を押し付ける気はないが、物心がついた頃にはすでに柚の両親の関係は破綻していた。
共働きで殆ど家で顔を合わせない夫婦は、互いに対する愛情はないものの、親の義務として子の独立までは離婚せず家庭内別居を維持することに決めたらしい。
親と雖もただの男と女には違いない。どうしたって絆が壊れる間柄もある。その点で柚がとやかく言う筋ではないし、言うつもりもない。金銭的にも物理的にも充分なものは与えられた。何の文句があるだろう。
無論、家族が柚の人格形成に与えた影響は否定しない。だとしても、もうじき成人年齢に達するような人間が、愛情不足で人間不信だからと主張して、いったい何が叶うと言うのか。
望んでいるかは置いておいても、適切な人間関係を構築できず、ずっと独りでいるのは自分の選んだ道だった。
柚がこうなのは、すべて柚自身のせいだ。
瑞樹が今の瑞樹になったのは、すべて彼自身の向上心と努力の賜物だ。
彼は離れるべくして離れ、柚は勝つことを一切期待していない賭けに、負けるべくして負けた。そもそも試す行為すら不遜で烏滸がましい。
誓いはなかったものとされ、約束は消えた。
いいや、柚を縛る楔など本当は最初からなかった。いつだって誰と話しても構わず、友人を作ってもよかった。
……今更だ。
柚には必要ない。最も近くにいた瑞樹すらも拒絶したのに、どうして他者を受け入れられよう。
高校三年の一学期も柚は孤独に過ごした。
気がつけば夏が始まっていた。
+ + +
受験生は夏休みも遊んではいられない。
塾の講習に追われ、家でも勉強に明け暮れた。没頭している時間は余計なことを考えないで済む。柚は別にそこまで偏差値の高い大学を狙ってはいなかったが、目標を掲げられるのは幸いだった。でなければ無為の日々に倦み、今よりもっと気が滅入っていただろう。
夏休み中の登校日、じっとりとした暑さが続く中、柚は朝から陰鬱な気分で制服に袖を通した。気温も湿度も不快指数を振り切っている。
何もこんな日でなくてもいいだろうに、と柚は己の不運を嘆く。
玄関のドアを開けると、まだ朝にも拘らず強い陽射しが照っていた。
柚はあまりの眩しさに瞳を眇める。
「え……」
眩しいだけの視界に、不意に予想外の光景が映った。柚は驚いて間の抜けた声を上げる。
路肩に停まる車と、運転席から出てきた人物――その登場があまりにも不自然だったため、柚には霞みか幻のように思えた。
「――ゆず」
ずっと聞いていなかった声が、懐かしく柚の名を呼ぶ。スラリとした立ち姿は、以前よりも一層精悍になった気がした。
なぜ登校日なのに彼は私服姿なのだろう、と柚は混乱する思考でどうでもいい疑問を抱く。
いや、そうではない。
不可解なのはそこではない――。
「ゆず、来て」
「……え? え……みず、きくん?」
一年以上にも渡る空白の時間をまるで感じさせないくらいに平然と、瑞樹は柚の手を引く。唖然としたままの柚は、抵抗する間もなく車の助手席に無理矢理押し込められた。
瑞樹は柚が一度も見たことがない真剣な表情で運転席に座り、ゆっくりと車を発進させた。
「いつ、免許を」
「18歳になってすぐ。それに、教習所自体は誕生日の2ヶ月前から入れるんだよ」
確かに高校生で免許を取得するケースは珍しくないが、多忙なはずの受験生が何をやっているのかと突っ込みたくなる。
やや呆れながら、柚は運転をする瑞樹の横顔を見た。まださほど慣れていないのか、緊張した面持ちである。
「どうして」
今頃になって柚の前に現れたのか。
そう訊こうとして、柚は迷った。
今更どんな答えを期待しているのだろう。
瑞樹の考えがわからないのと同じ程度に、柚は自身の本心が見つけられない。
「……どこに、行くの? 瑞樹くん」
結局真意を尋ねることができないまま、柚は場当たり的な質問を投げ掛けた。
学校に行く途中で殆ど拉致されたに等しい柚には、その目的くらいは聞かせてもらっても構わないはずだ。
「どこに向かってるの?」
「……区役所」
当然とでも言いた気に瑞樹は答えた。
「それから、家」
「意味が」
わからない、と柚が続けようとしたとき、車は区の総合庁舎近くにあるコインパーキングに入った。区役所は柚の家から遠くないが、はじめから最短の道順を熟知していたと思われる。
停車してから暫く、瑞樹は動かなかった。
戸惑う柚の顔を睨むように見ている。
怒っているのとは違う。
ただ一途に、真っ直ぐに柚と向き合っている。
「瑞樹……くん」
「……これ」
瑞樹はどこに持っていたのか、一枚の封筒を柚に差し出した。
「出しに行くから」
封筒の中には折り畳まれた紙切れが入っており、促されるままに広げて確認した柚は絶句した。
「――!?」
「今日を……ゆずの誕生日を、待ってた」
――婚姻届。
「な……」
「もう俺たち成人だからね。親の許可も要らない」
「そんなの」
「高校はあと半年もすれば卒業だし、学校の方はどうとでもなるよ。心配しないで。大学に行くのも問題ない」
「む、無理でしょ。お互い親に扶養されてる分際で勝手にそんな……それに経済力だって」
反論をしながら、柚は敢えて論点を違えていると気づいていた。指摘すべきは、追及すべきはそんな些末ではない。もっと本筋だ。
けれど瑞樹も引き下がらない。もはや柚が何を言っても譲らないと、眼差しが語っていた。
「亡くなった祖父の遺産が結構な額であるんだ。孫養子っていうのになってたから。賃貸不動産もいくつかある。大学卒業して就職するまで、二人でやっていくには充分だよ」
瑞樹は強引に柚の右手を掴み、その掌にボールペンを握らせた。
「サインして。約束だから」
「一年間我慢した。それでも……ゆずはまた俺を拒否するかもしれないって思った。だから成人する今日まで待ってたんだよ」
逃がさない――逃げられない状況を作るまで、わざわざ接触を避けた。
執着を隠そうともせず、瑞樹は告げる。
「これでゆずは俺のものだ」
「……嘘」
柚は小さく首を振った。
「だって、春日部さんとは」
「春日部?」
不快な名を聞いたと言わんばかりに、瑞樹が眉を顰める。
「ああ、あいつね。バスケ部を引退してからも用もないのに話しかけてきて、鬱陶しいよ」
「つ、付き合ってたんじゃ」
「は? まさか」
ばっさりと否定する瑞樹は、柚の空いている左手を握り締め、そのまま自らの口元に近づけた。
「俺にはゆずだけなのに、なんで他の子と付き合うなんて話になるの」
「……ゆずらしくない」
殆ど一方的に瑞樹は決めつけた。
「春日部には確かに告られたけど、断ったよ。一度あいつがゆずと話してるの見かけたから、もしかしたら仲良いのかってムカついて、探ってみたことあった。それで誤解した?」
柚を引き寄せた指先は段々と力を増す。
「……っ。瑞樹、くん、痛……」
「離さないよ」
「みず……」
「俺、嬉しいんだ。春日部なんかどうでもいいけど、全然他人に興味がなかったゆずが、俺が誰かと付き合ってるとか気にしてくれたなんて」
鋭く貫くような瑞樹の瞳に、柚の身体は捕えられる。竦んでしまって身動きができない。
心を震わせるこの感情は何だろう。
恐怖とも違う。諦念とも違う。
逃れられない――。
ただ事実だけが柚を縛った。
「やっとだよ、ゆず」
瑞樹の唇が柚の手に触れる。
柚の心臓が跳ねた。
鼓動が早まる。
歓喜やときめきではない。どちらかと言えば、吊り橋効果のようなものだ。柚は自覚している。けれど、もう手遅れだった。
「ゆずは、俺の、ものだ」
◆ ◆ ◆
その夜――ようやく手に入れた花嫁の寝顔をうっとりと眺めながら、瑞樹は喜びを噛みしめていた。
公的な手続を滞りなく終えた後、瑞樹は正式に妻となった柚を用意していた新居に連れ帰った。柚は与り知らぬことだが、自分の親にも柚の親にもとっくに根回しは済んでいる。
さすがに成人と同時の入籍は反対もされたが、法的には抑止する力がない。下手に騒いで駆け落ちでもされた方が子の将来に傷がつくと考えた両家が、最終的には折れた形となった。それだけ瑞樹の本気――或いは狂気が恐ろしかったのだろう。
柚に対する瑞樹の執着は尋常ではない。
中学一年で初めて出会った日から、それは変わらない。あのとき視線が絡み指先が掠めた。一目惚れの理由などささやかなものだ。
小柄で弱かった瑞樹は一部の生徒から理不尽ないじめを受けていたが、正直どうでもいいと思って、ろくに抵抗もしていなかった。放っておけば子どもじみた遊びもいずれ飽きるだろうと最初から諦めていた。
柚と知り合って、瑞樹は変わった。
彼女と一緒にいたかったから、万が一でもつまらない攻撃の余波が及ばないよう、積極的に連中を排除する方針に出た。親でも教師でも使えるものは惜しまず利用する。亡くなった祖父が生前、学校側と懇意にしていたのも幸いした。一月も経てば問題の生徒たちは学校から姿を消した。
安全を確保した瑞樹は、暇があればいつでも柚と共に過ごした。他人に関心がない柚の性質をいいことに、自分以外に親しい人間を作らせなかった。男子生徒と少しでも話していたら邪魔をし、女子生徒でも必要以上に近づかせない。
それでも柚を囲い込むだけで満足できたのは、中学のうちだけだった。
柚は瑞樹を見てくれない。
中一のとき、彼女の隣に居座った。
中二のとき、彼女が漫画を読んで恰好いいと言ったから、バスケを始めた。
中三のとき、特別扱いをしてほしくなり、名を呼んでもらった。
高一の終わりに――想いを告げた。
……なのに。
拒絶され、柚と話しすら叶わない高二から昨日までの日々は地獄だった。けれど全部、今度こそ柚を自分のものにするために必要な布石だ。柚を一生掴まえておくには、一年やそこらの犠牲は止むを得なかった。
「――ゆず」
瑞樹は低く、甘く囁く。
ちゃんと証明して見せた今、もはや柚は恋心を否定しないだろう。どんな難関試験に合格するよりも達成感に満ちていた。
――やっとだ。そしてこれからずっと。
目が覚めたら、柚の瞳は真っ先に自分を映す。
その瞬間を待ち侘びながら、瑞樹はそっと柚の瞼にキスを落とした。
<完>
ありがとうございました