8 温泉浴と森林浴で女人あらわる!
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ゆっくり受話器を置いて、ぼおっとした。
しばらく沈黙。不意に、「まんじりともせず部屋の中にいても仕方ない」、そんな気になった。課長は立ち上がり、散歩にでかけた。
こんな宿に、本当に泊まるべきなのか。殺し屋?また、そんなのがやってくるの?だとしたら、早めに警察に知らせたほうがいい・・・
しかし、追っ手は、課長がこんな山の中の温泉にいることを、どうして知ることができたんだろう。・・・いや、知るのは簡単か。あの電車が、社宅そばの駅から新庄まで一本でつながっていると知っていれば、先回りできる。
ああ、そうだ。電車の中で、ずいぶん長く眠った。そんな長い時間がかかったわりに、新庄までの走行距離はそれほどでもないみたいだから、きっと途中で、急行待ちの待ち合わせ、あるいは故障か何かで長時間停車したとか、列車の客がいってたように、線路を間違えて、またもとに引き返したりして時間をくったのかもしれない。
いろいろ考え、廊下を歩き、エレベータに乗る。フロントロビーに行くつもりだった。しかし、案内図はわかりづらく、ロビーではなく、「新館」への渡り廊下入り口に来てしまった。
そこで、渡り廊下のはるか向こうを歩く男の後姿が目に入った。
「富樫さん?!」
課長は思わず口走った。
大きな、でっぷり太った、しかし肥満ではない、まあ筋肉質の、190センチ近い巨漢。頭は大きくて角刈り。富樫さんにそっくりだった。すでに何度か述べた富樫さんである。そういえば彼は、東芝販売会社の系列小売店に勤務していたのだ。村の電気屋さん。同じ下宿の隣人だった。すでに述べたように、下宿のみんなで、土日に遊びにいった。この温泉にも来た?・・・いや自信がない。
「絵村さんったら、どうして、そんなに、肌が、つやっ、つやっ、してんだい?」
あるとき、童顔だった24歳の課長の顔をみて、たまげた顔でいわれたことを思い出した。
「おれはタバコはやめない。タバコはかっこいいべ。かっこよさのために、死んでもかまわねと思っでる」
そんなたばこ哲学のこともいってたなあ・・唐突に思い出した。
当時、富樫さんには、つきあっていた年上の彼女がいて、ついに決心して、生まれて初めて彼女をラブホテルに誘い、泊まった、ということを、たどたどしく、まわりくどく、しかし真剣に、下宿のみんなに告白していたのも思い出した。自分が達成したことに自分で驚き、それをみんなに自慢したかったのか。課長含め下宿のみんなは、その話を心の底から真剣にきいた。
あの彼女とは、その後、めでたく結婚できたのだろうか?
そういえば、彼女とラブホテルに行った直後だったと思うが、販売店の辞令が下って、どこだかの遠く、といっても、山形県内のはずだったのだが、転勤が決まって、ひどく落胆していたのも思い出した。
例によって、みんなで焼酎パーティーをしていた席で語ったことだった。課長は、別にたいしたことでもないじゃないの、と思っていたのだが、きっと、すごく深刻な出来事だったのだ。
「ちゃんと、結婚できましたか?」
つぶやきながら、課長は、大男の後ろ姿を追って、渡り廊下を足早に歩いた。
渡り廊下を歩ききって、「新館」へ。富樫さんと思しき人影は入っていった。課長は追いかける。
まあ、きっと人違いだろうけどなあ。
思いながら、課長も新館へ入る。
また廊下。今度は、そう長くない廊下。つきあたりは「大浴場」だった。富樫さんは、そこへ入ったに違いない。
「大浴場」の大きな暖簾をかきわけると、脱衣場。
棚の籠のいくつかには、脱いだ服が入っている。タオルや手ぬぐいは備え付けのものがあった。課長もあわてて脱衣して、浴室へと足を踏み入れた。
横開きのガラス戸を開けると、真っ白い湯気に視界をさえぎられた。
首を振って、目を大きく開く。大きな浴槽。取り囲む洗い場。人はいない。入浴客はいったいどこにいるのだろう。
浴槽の奥は、岩山のような、渓谷のようなつくりになっていて、洞窟の入り口らしきものが見える。
「露天風呂」と書かれた木の札が、その入り口横に打たれた杭にかかっていた。
迷わず、課長は、その露天風呂入り口に向かった。
暗い穴だった。入ってすぐのところに、上り階段がつけられていた。上がっていくと、屋外に出られるようになっているのだろう。
しかし、すぐには外に出られなかった。
階段に続いて、なだらかな上りのスロープ。意外に長い。手彫りのトンネルが続いた。内部は湯気が漂い、前方に明かりは見えるものの、ぼんやりとして、たよりないし、はっきりしない。
・・・いったいどうなってんの?
こりゃあ、まるで行きに乗ってきた電車のトンネルみたいだな・・・。そんなことを考え、不安を覚えかけたとき、出口が見えた。
トンネルを出ると、鬱蒼とした森の中だった。あたりはうっすらと白い靄につつまれている。上を仰ぐと、真っ青な空であった。
そこは、「森林浴と温泉浴の野外庭園」とでもいうべきところだったのだろう。
フィトチンの香りにつつまれた森林庭園の中の、あちら、こちらに、さまざまの趣向をこらした浴槽が点在している露天風呂だった。森林があり、岩場があり、渓流の音もした。そして、アルカリ硫黄の香りが少しする、あたたかい白い靄が、全体を、ぼんやりと包み込んでいた。
「・・・広いな」
課長は少し驚いた。
さっき見た、複雑な温泉建築の裏手に、こんなに大きな露天風呂庭園が広がっていたのだ。
・・・意外とすごい温泉宿だな。
一瞬、遠くの草むらの葉陰に、人の姿が見えた。そのあたりで、白い湯気が生き物のように動いた。
あそこにいるのか、富樫さん。22年ぶり。裸で再会とは、いやはやなんとも・・・
課長は森林温泉の庭へと歩み入った。
歩く、歩く。
しかし、人の姿はまた見えなくなる。あたりに、また、乳白色の湯気がたちのぼる。まるで煙幕を張られたようだ。
どうなってるんだろう。また見えなくなった。まるで、温泉ジャングルの中の行進になってきた。
ブッシュをかきわけると、突然、丸い形の浴場が現れ、つんのめり、あやうく、その湯の池にはまりそうになる。
見ると、その湯には、誰か浸かっていた。
目を丸くして、口も丸く開けて、あまりの驚愕に、凍りついてしまったかのようにして、課長を見上げていた。
「!!!」
課長も負けずに驚愕した。心臓が止まってしまうかと思った。
湯に浸っていたのは、女性だった。
真っ白い、すんなりと、しなやかにのびた肢体の、少し茶色がかった長い髪の、ちょっと見にも、かなり美しい、30歳少し手前くらいの、女性だった。
「し、失礼」
あわてて、からから声で、そういって、課長は引き下がり、手前のブッシュの中へと身を隠した。
課長の頭はきわめて混乱した。混乱して卒倒しそうになった。
なんだって!
まさか。ここは女湯だったかしら?富樫さんを追いかけるのに夢中で、男湯も女湯も考えなかった。そうだ、そんな表示はなかったぞ。だいたい、大浴場といえば、男湯になってることが多いじゃないか。特に、田舎の温泉場なんか、そうなってることが多い。そういうことを考えるまでもなく、そうだ、富樫さんが、入っていったのだから、当然、男湯だと思うじゃないか。当然だ。私に過失はない!
それとも、ここは、混浴?なのか?
しかし、混浴といえば、期待して入っても、だいたいにおいて、年配か老人のご婦人が入浴なさってることが多いものだ。それが、あんな、お若いお美しい方が入ってなさるとは。
ブッシュに潜んで、課長は、困惑・混乱・錯乱した。
想定しうる、一番恐ろしいケースは、ここが女湯であるという場合だ。
富樫さんの姿なんて、幻だったのかもしれない。いや、富樫さんはいたが、どっか、課長が見落とした別の廊下に歩いていっちゃった、ということであり、この「大浴場」は、実は、女湯だった、ということなんじゃないか?
課長は、恐怖のあまり、身も凍った。痴漢で訴えられる。通勤電車で、女性から痴漢だと間違えられ、訴えられ、人生破滅に至った事例が、雑誌やテレビなんかで、よく紹介されているではないか。課長はそれを思い出した。
ここが女湯であった場合、現在の課長のおかれた立場は、電車の痴漢どころではないのではないか。「女湯のぞき」より大胆な、女湯潜入である。
しかも、入浴者の一人に目撃されてしまった。いくら勘違いだと主張しても、いい年したオッサンが、「男湯と女湯と間違って、入っちゃいましたあ!」などといって、舌だして、通用するだろうか?するわけない!
富樫さん追跡どころではなくなった。
・・・出口。出口。
課長は怯えきり、心の中で低くつぶやきながら、来た道を引き返そうとした。
しかし、課長がやってきたトンネルの向こうから、きゃっ、きゃっ、という女性たちの声が聞こえていた。課長は絶望的に困った。ブッシュに身をかがめて、どうしようもなくなった。
しかし、そのままではいけないと思い、匍匐姿勢で移動を開始した。ブッシュの向こうの岩陰に、扉らしきものが見えた。とにかく動いてみるものだ・・・。
課長はその扉らしきものに一縷の希望を託して、全裸にタオル腰巻きしただけの無防備な姿で、移動を開始したのだ。
・・・つづく