3 面白台住宅を通る電車に乗る
3
走った。
社宅前の道路。下り坂のほうへ。走った、走った。課長は、走った。
駅が見えてくる。
駅といっても、無人駅。社宅もよりの、小さな駅。
ちょうど、ホームの列車が発車するまぎわだった。4両編成のローカル・ワンマン列車。
そうだ、あの列車だ。
課長が、以前から乗ろうと思っていた、あの列車だった。
課長は後ろを振り向いた。追ってくる。追っ手は、手に何か持っている。金属製の何かだと思った。拳銃だろうか。さすがに街中でぶっぱなすわけにはいかないのか。
駅の改札を駆け抜けた。列車のドアは自動ではない。乗った人間が、ボタンを押してドアを閉めるやつだった。
課長はその列車に飛び乗り、ボタンを押して、ドアを閉じた。
発車。
列車が動き出した刹那、追っ手は、駅の改札を通過し、ホームに飛び込んだ。そこで立ち止まり、発車した列車を凝視しながら、魔王のように屹立していた。
黒ずくめのレザースーツ。すらりとした体躯。しかし身長はあまり高くない。170センチくらいか。スナフキンのような帽子を目深にかぶっていた。手にしているものはあまりよく見えない。ホームに立つその追っ手は、列車がスピードを上げるにつれて、ぐんぐん遠のいていった。
・・・・なんだ、一体。
課長は、息もたえだえだった。
・・・・何なんだい。もう・・・。
そして、列車は行く。
終電か。乗客はほとんど乗っていなかった。車両に2,3人。腕組みして目を閉じて座っている背広の男がいた。ボックス席のむこうに、眠っているらしい、男か女かわからない人の頭が、席の横にはみだしていた。さらに4つほど向こうの席にも年配の女性が、うつむいて座っていた。
課長はベンチ席に倒れこむようにして座った。
この列車は・・・。
さっきもいったが、いつか乗ろうと思っていた列車。
遠い昔、20年と少し前に乗った列車のはずだった。だんだん、思い出してきた。ダイズの研究を終えて、横浜への帰省の途中に乗ったのではなかったか?
列車は坂道を登りはじめた。山の森の中へと線路は続く。
思う間もなく、意外に高いところを列車は走っている。窓の外を見ると、黒い森の間に間に、下界の街の明かりが、キラキラまたたき見えては消え、消えては見えながら通り過ぎた。
さらに列車は坂道を登る。
課長が乗ったのは先頭車両だった。立ち上がり、運転席の後ろへ行き、列車の行く先を窓から
見る。
黒い森に包まれた銀のレールが、蛇行しながら視界の奥へとのびている。ときどき大きくカーブする銀の二本線の上を、列車は走る。
山の奥、高い場所へ進むにつれて、空気が冴えてきた。空の星は次第に鋭い光を放ちはじめた。
列車の走行音の間に、水の音が聞こえた。
渓流だ。
眼下に、星と月の光を細かく反射させる水の流れ。それを見下ろす、細いアーチ橋を渡って、列車は走る。
やがて、ぽっかり黒い、トンネルの入り口が、蒼い闇の向こうにあらわれた。
列車はその黒い入り口に吸い込まれる。
真っ暗。
列車の中に灯っているのは、最低限の照明。トンネルの出口は、遠すぎて、見えなかった。
いつまでもいつまでも、トンネルは続いた。
・・・まさか雪国へは行くまい。今は、夏だもの。
遠く、列車の行く先に、青い小さな光。ガタンガッタンいう、走行音が耳に反響する。ちょっと、気が遠くなるような気分。青い光はまるで何かの心象風景に思えた。
・・・時間をさかのぼっているみたいだ!
課長はそう思った。
・・・22年前の昔だ。
そうだ、数えてみると、あれから22年前になる。ダイズの試験場で苦闘した暑い夏は、22年前の夏だった。あの22年前へと、この列車はひた走っている。
また、気が遠くなる感じ。心奪われる感じ。
記憶が、不意によみがえる。あの失神しそうな酷暑のダイズ畑で、日曜日だというのに、たった一人、朝から晩まで、研究のための個体サンプリングに駆けずり回った記憶が。
やはり、これは、あの夏に乗ったのと同じ列車か?
・・・しかし、長いトンネルだな。
いまだに、トンネルの出口は見えないし、青い光は、遠くに見えたまま、近寄ってこようとはしなかった。
いったいどこまで行ってしまうんだ。この列車。
「アア、また道に迷ったよ、この電車」
背後で、ねぼけたような声。
振り向くと、さっき、腕組みして目を閉じていた背広男が、不機嫌そうに立っていた。年齢は、課長と同じくらいだったろう。
「また、このトンネルに入っちゃったネ」
背広男は、運転室の窓ガラスを、どんどん、と叩いた。窓ガラスの向こうには、JRの帽子をかぶった運転士の後ろ姿が見える。
「おい、運転手。きっと研修生だろ、あんた。こまったネ」
背広男は額に手をあてて、苦渋のそぶりを見せた。そして、叫んだ。
「このままだと、夜の向こう側の国まで行っちゃうヨ。だめだよそれは。ボクはあした出勤で朝早いんだ。はやくひきかえせよ、トンネルの入り口まで」
乱暴に窓ガラスを叩く。
しかし運転士は運転に必死らしく、振り向くことはなかった。
背広男は、今度は課長をにらんだ。真っ赤な目。少し酔っているらしい。
「あなたも、ぼうっとしてる場合じゃないですよ。あなたも面白台住宅あたりの人なんでしょ。おうちに帰れませんよ、このままじゃ」
課長は答えた。
「はあ」
「はあじゃないですよ。この電車、トンネルの入り口で分岐線を間違ったんですよ」
「そんなことがあるんですか」
「あります。知りませんか。この前も、間違えたんです。JRなんて、運転の腕が落ちてるんですよ。脱線とか、最近、はやりじゃないですか。この電車も、脱線みたいなもんです。はやく引き返して、面白台住宅に行ってもらわないと大変です」
「道を間違えた・・・。電車が。そんなことがあるんですか。・・・いや、実は私、初めてなんですよこの電車に乗ったのは」
「初めて?そう?で、どこへ行くんです」
「その。ただ、乗ってみただけで。あてもないんです」
「あてもない?明日、あなたお休みですか」
「ではないんですが」
「のんきですネエ。このままだと、あなた、ポカ休とらざるをえなくなるよ」
「このままだと、どこへ行ってしまうんですか、この電車」
「知りませんよ。知りたくもない。でも、おうちでないことは確かです」
「・・・まるで、過去に向かって走っているみたいですね、この電車・・・」
「はあ?変なこといいますね。のんきだな。いいご身分みたいですね、あなた。いや、失礼」
背広男は再び運転士の窓ガラスを叩き、引き返せ、と叫んだ。
・・・この男、やはり、酔っ払いの変なおじさん、か?頭が少しいかれてるんだろうか?課長は首をかしげて、席にもどった。
・・・しかし、このトンネル、なかなか出口につかないなあ。
しかし、まったく、変な感じの変な列車。なんか惹かれる列車。
この背広男のいうように、あした、急に年休にしてもいいかも。これといって、重要な仕事もないし。たまには部下に甘えてもいいか。へたに帰ると、また、あの追っ手が現れるだろうし。そうだ、あの追っ手。いったい何者だ?殺し屋か?なんで私が殺されなければならないんだ?哀れな単身赴任の、不倫され男。子供なし。人生も、残りの時間のほうが少なし・・・。
課長を、どっと疲労が襲った。昼間の仕事疲れ、食事前の飲酒疲れ、カレーライスあわてて調理の疲れ、そして、追っ手から逃げて必死に走った疲れ。
目が重たくなり、あっという間に眠りに転落。
こんな風に、睡眠の闇に急速落下したのは、ほんとにひさしぶりのことだった。