2 社宅に何者かが来襲
課長は食事を終えた。おいしいカレーライスだった。
超スピードで調理した甲斐あって、夜11時前にはすべて完了した。今、食後のデザート摂取にとりかかったところだ。
課長は、高脂血症その他の習慣病のことを指摘されて、もう15年以上になる。指摘にもあきあきしていた。それでも無駄かもしれない努力は少しはしていた。しかし、夜10時すぎに食事などしては、そもそもだめなのだ。おまけに今夜も、食前にビールと日本酒を飲んでしまった。近頃、酒量は減ってるが、それは、若いころに飲みすぎていたのと比較しての話。いまだに日本酒にして3合ぐらい、毎日飲んでる。もう20年も。ひどい。
「そういやあ、このあいだ、すい臓に、ポリプもみつかったなあ。高血圧だっていうし、白血球・
赤血球も少ない。貧血か。何、それ?糖尿はなりをひそめてるけど。全体に、だんだん、だめになるなあ」
ぶつぶつ、ひとりでいう。・・・やっぱり、飲酒癖がいかんのだな。
だいたい、この、飲酒癖がついたのはなぜか。
課長は、キチンのステンレス上のエダマメを眺めた。さっきスーパーで買ったう奴。食べなかった。キチンに飾って眺めていた。
・・・飲酒癖がついたのは、この、エダマメ、正確には、ダイズの研究をしていた、あの夏からだったのだ。ものすごく暑い夏。ものすごく絶望あり、でも、とても大事な思い出あった夏。あの夏から、ほぼ毎日お酒飲んでえ。この調子じゃ、あと10年で死ぬぜ!
それはそうと、課長は思い出していた。
あの夏。大げさにいえば人生の分岐点か。
そうだ、あの夏に、死にそうだったが、生きる勇気も与えられた。ウーン・・・。
「だんだん思い出してきた」
課長はひとりごちた。また生体の姿そのままのダイズを見る。
ダイズ。こいつは何者だったか。解説してみる・・・。紛れもない、こいつ。
「そうだ、こいつだ。こいつとそして、あの人たちと、あんなことが、あった」
・・・すっかり忘れていた。あの人たちと、ああしたことがあったから、がんばって、ダイズ研究者から、今の、まがりなりにも金融機関の課長になった。挫折じゃない。再生だ。り・いんかーねーしょんだ。そうだ、あの夏、その、松任谷由実の曲もよっく聴いた。
「曲を知ったのは、宮田さんのカセットテープからだった」
ううん。宮田さん。そうだ宮田さんだ。
「それから、富樫さん・・・大男の太った人。それから、本名は忘れたが、ニックネーム『風車の矢七』さん。顔は少しシルべスター・スタローンに似てた。スタローンが電子レンジで縮められた感じだった」
ダイズを見ながら、だんだん、思い出はよみがえった。
また酒が飲みたくなった。あのころを思い出して、毎晩酒盛りしてたあのころ思い出して、あの毎晩飲んだ、焼酎のライム割り、飲みたくなった。
近くのコンビニに買いにいこう。
課長は立ち上がった。これは、ますます、体によくない。よくないんだけどなあ。
玄関に行き、ドアのノブに手をかけた。
「・・・?」
課長は気配を察知した。
ノブから手を離し、ドアの小さな丸い覗き窓に、そっと、目をあてる。
黒い人影が一瞬見え、すぐに消えた。
「!?」
課長は、後ずさった。
誰だ、今頃?NHKの集金人?外国人泥棒?部屋を間違って帰宅しようとしたこの社宅の住人?
背後で物音がした。
課長の住んでいる社宅は家族用3DK、70平米だった。音は、奥の、全く使っていない6畳部屋から聞こえたように思った。
「何だ・・・」
小さくうめき、どうしようか迷った。食事前に飲んだ日本酒とビールが脳髄を駆け巡り、なんだかクラクラした。
突然、電気が消えた。バチッ、と音がして、真っ暗になった。
「ええっ?」
ヒューズが飛んだか。老朽社宅でアンペア数は少ない。つけっぱなしだったエアコンはかなり負担。プラズマ大型薄型テレビもつけっぱなし。これに電子レンジが加わると、よくヒューズが飛んだものだが。電子レンジも、つけてたか?
・・・また物音がした。がたがた、といったかと思うと、次に、大きな、ガラッという、窓の開く音。気のせいか、太い、低い、唸り声が聞こえたように思った。
課長の頭の中はグルグル回りはじめた。何も音が聞こえなくなった。耳がつんぼになったというのじゃなく、音が消えた感じ。この世から音が消えてしまったような感じだった。
恐怖が襲ってきた。
課長の部屋は2階。社宅のベランダに登るなんて容易なことだ。奥の6畳部屋は、そのベランダに面していて、窓はアルミサッシで、ちゃちな鍵しかついていない。その気になれば、こじ開けるのは簡単。玄関の前に一人、ベランダに一人、か?
課長はあわてて、玄関脇にあった洋傘を手にした。金属バットでもあればよかったのに。生活習慣病対策に、運動しろ、野球でもやれ、と医者からいわれたときに、金属バットを購入して玄関脇においておくべきだった。ああ、そうしておくべきだった、と課長は後悔した。
しかし、この洋傘、たしか切っ先は、プラスチックだけど鋭くとがってた。でも、プラスチックじゃあな、だめか・・・。
のぞき窓から、また、外をうかがう。誰もいないように見える。どこかに隠れているのか?
何も音はしないのだけれど、明らかに、何者かの気配が、奥の6畳部屋から、その外、キチンの方へ、移動しているように思う。
「ついにやってきたのだ」
課長は、前々からの予感を思い出した。
妖怪だ。鬼だ。亡霊だ。
音の死に絶えた社宅。なにげなく奥の部屋を開けてみると、青い不気味な鬼が押入れの中にいて、薄気味悪い笑みを浮かべて、しかしすさまじい眼光を放って、こちらをにらんでいる。逃げようとしたら、もうだめだ。青鬼は襲いかかってくる。どれだけ恐ろしい襲撃か、それは想像不可能。思考は凍りついて停止してしまう。
そういうことを考えそうになって、何度も打ち消した。
考えると、そういう鬼が、きっとやってくる。現実にではなくても、心の中に、きっとやってくるものだ。
亡霊にしても、妖怪にしても、同じことだ。
浴室の中に、突然、亡霊が現れる。腐敗して、目も鼻も口も、なにもかも溶解して流れ出す亡霊が。一人で孤独に入浴して、頭をあらっていて目が見えない直後、シャワーでシャンプーの泡を洗い落として目を開けた瞬間に、浴槽に、そうした亡霊がいたのに気づいて卒倒する。
あるいは、入浴中に、キチンの方で、ガチャガチャいう汚い食事の音がする。こっちは裸で無防備そのもの。しかし、食堂にはそんな妖怪が、汚い食事をしているのだ。誰かの死体かなんかを食っているのだ。気になって、バスタオルを腰に巻いた姿で食堂をのぞけば、妖怪が激怒して、襲いかかってくる。出刃包丁のような鋭いもの、死臭を放つ嘔吐物のような臭いもの、何が飛んでくるかわからない。
何度もいうが、そういうことを考えそうになって、何度も打ち消した。
考えすぎにならないよう、必死で努力・・・。
課長赴任には、自炊生活に加えて、そんな、想像打消し努力も必要とされていた。あほな課長といわばいえ、だった。つまり課長はヨワムシだった。
!!!!!
「ドターン」という音とが、課長の心の耳をつんざいたのだ。もうだめだった。奥の6畳部屋からやってくるバケモノが、襲いかかってきた!
ままよ!
課長は洋傘手にして、ドアをぶち開けた。
誰かそこにいたか?
わからなかった。課長は、めくらめっぽうに傘ふりまわしながら、脱兎のごとくに飛び出した。
背後から、何か飛んできた。空気を切る音。気配。激しいスピードで飛んでくる。ブン、ブン。空気を鋭く切る速い音。ドア、社宅のコンクリート壁に衝突する炸裂音。
課長は走った。社宅2階廊下を駆け抜け、1階への階段を転げるように走り降りた。
暗い夜。星ひとつ見えない。真っ暗な夜。生暖かい空気をつんざき、課長は、必死で走った。
走ることはやめられない。
追ってくるのだ。確実に。何者かが、背後から追ってくる。課長の社宅から、課長に続いて飛び出した奴が、すさまじい速度で追ってくるのだった。
つづく・・・