1 単身赴任・・・カレーライスの晩のこと
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2005年8月の夏。課長は単身赴任の46歳だった。
その夜も、自分の夕食をつくらねばならなかった。夜の9時。スーパーへ行った。
「買おう・・・!」
課長は決断した。
グレープフルーツ99円。
「安い・・・」
課長は唸った。
「デザートはこれだ」
そして主食は。
やはりカレーライス。飽きない。じゃがいも、にんじん、たまねぎ、鶏肉、カレールー、レトルト米飯 パック。・・・これでいいのだ。これで、プラスチックのにおいのするコンビニ弁当なんかよりも、ずっとおいしい、なんか健康な夕食になる。たったこれだけの買い物で・・・。
課長は目を閉じた。感激でもしているようにみえた。
・・・誰かが課長を見ていた。いやな目つき。暗い青年。きたないシャツ。彼が色黒なのは、アトピーのせいだった。アトピーだって、好青年はたくさんいる。別にアトピーが問題ではない。もともとの性格に問題があるのでもない。
実はこのスーパーは、もうすぐ倒産するのだった。その暗い青年は、そのことを知っていた。彼はこのスーパーの店員だった。倒産するということを知っていて、彼はそれで暗かった。
課長は、ピーラーでじゃがいもの皮をむく段取りを考えつつ、買い物籠をさげて野菜売り場のコーナーを曲がり、レジへと、ひた歩いた。
家に着いたら10時近いだろう。手早く調理しなければならない。しゃがいもの皮むきを、いかに短時間で成し遂げるか、そこがポイントだ。
課長はそう考え、さっさか、急ぎ足で歩いた。だからポケットから自分のケータイが落ちたのにも気づかなかった。暗い青年の店員がそれを拾ったのにも気づくわけがなかった。
そんなに急いでいたのに、課長は、野菜売り場の端っこで、急に、息をのんで立ち止まった。
発見したからだった。
「!」
課長は凝視した。絶句した。
あの暗い店員は、その、課長のありさまを、無感動に見ていた。
おおう!!
課長は、心の中で叫んだ。
そこにいたのはある植物。いや、食用作物。まるごとの姿でそこにいた。
課長はそれを手にとった。まじまじと眺めて、眺め続け、そして眺めて、またずっと眺めた。
「・・・・」
その課長を、またあの暗い店員が見ていた。
何だあの中年は。エダマメなんかにジイっと見入って気持ち悪い。そんなにエダマメ好きなら、早く買え。葉っぱと茎つきの丸ごとの姿で売ってるのが、そんなに珍しいのか?
課長のなかで何かが急速によみがえっていた。音をたてて火を吐きながら、熱くよみがえりつつあった。姿まるごと売りのそのエダマメを、課長はわしづかみにして、買い物かごに放り込んだ。そしてかごの中を熱い目でのぞきこんだ。
だいず・・・。
課長の唇がそういって動いた。目を細くしたり大きく見開いたりして不気味な表情をした。
このとき、課長の心の中で、何がおこっていたのか。誰か興味をもつだろうか?少なくとも、このありさまを眺めていた暗い店員は、全く何も興味を示さなかった。このとき何がおこっていたのかは後にあきらかになる。
・・・と、そのとき、音楽。
かなり大きな音。静かな店内に響き渡り、まばらにいた買い物客たちが、その音のほうを振り向いた。
『ペッパー、けいぶ♪、じゃまを、しっ、ないっ、で―、えっ、♪♪!』
ピンクレディの懐メロだった。夜のスーパーの店内を、場違いなにぎやかさで切り裂いた。音楽にあわせて踊りだしそうになった客もいた。
『ペッパー、けいぶ・・・』
しつこく歌っていた。
課長は一瞬、ぼうっとした顔で、立ちすくみ、そして自分のポケットに手をつっこみ、目を丸くして、あたりを見回した。見回した先に、あの店員が立っていた。手にはケータイを持ち、着信ボタンをおして耳にあてようとしている。
「あっ。それは」
課長は店員に叫んだ。
「それ、あたしのケータイです」
店員は、課長の声を無視してケータイを耳にあてた。
「はい。どちらさま?」
課長は唖然として店員を見ていた。店員はケータイの向こうの誰かと話しだした。
「はい。・・・ええ。そうですか。・・・え!なんですって!」
そのまま熱心に相手の話を聞いていた。
「おい、それ、あたしのだっていってるだろ!返してくれ」
いいながら課長は店員に歩み寄った。店員はたったいま課長に気がついたという表情で、課長の顔を見た。
「すみません。ちょっと待ってください・・・」
電話の向こうの誰かにいい、それから、ケータイの話し口を手でおさえて、絵村に向かっていった。
「お客さまのケータイ?本当ですか?すみませんが、念のため。お客さま、お名前は?」
「名前?絵村だ」
「絵村・・・。じゃあ、違う」
「違う?何が」
「うそ言っちゃあだめ。これはあんたのケータイじゃあない」
「なんだって?」
「電話の向こうの人は、絵村さんに電話してきたんと違うよ。別の名前だ」
「別の名前?」
「はい。そうです別の名前」
店員は課長に一瞥くれると、また電話に耳をあてた。そして、また、電話の相手の話に熱心に聞き入った。
「しかし、その機種、その着メロ、確かに私のケータイだ!」
課長は怒鳴った。
しかし店員はそれには答えず、電話の相手と話を続け、最後に、わかりました、といって通話終了のボタンを押した。
「ふう」
店員は首をかしげた。
「ケータイ、返しなさい。調べれば、すぐにわかることだ」
課長はそういって手をのばした。
「ふうん。しかし、絵村とはいってなかったがなあ。このケータイの電話番号は、ご存知?」
「・・・」
課長は言葉につまった。
実は、課長は今回の単身赴任の機会に、このケータイを購入したのだが、全然といっていいほど使用していなかった。本当は、妻と頻繁に、電話やメールをするはずだったのだが、全然やっていない。単身赴任した直後に、妻の不倫が発覚したせいだった。不倫が発覚してから、妻とは没交渉になっていた。
惰性でケータイをポケットに入れてはいたものの、その電話番号などとっくに忘れていた。覚えていたのは、着メロがピンクレディの懐メロだったことぐらいである。
課長はめんどくさくなった。こんなことしているより、早く帰宅して、調理をしなくてはいけない。
「ふん。じゃあ、いいよ。そのケータイは君にくれてやる。別に何の情報も登録してないケータイだし、もう解約してもいいんだ。そうだ、そうしよう。いい機会さ」
そういって、課長は、また、さっさかとレジへ向かって歩き出した。
店員は課長の背中を見て苦笑いした。
・・・なんだ、あっさりしてやがる。少し調子が狂ったな。なかなか面白い電話だったのになあ。金になりそうな話だったのになあ。おじさん、今夜あたり危ないんだぜ。
店員は思いついて、手にしたケータイから返信電話をした。さっきの相手に対してだった。相手はでるだろうかと心配したが、案外あっさりと、電話がつながった。これは、金になるかもしれない。店員はほくそえんだ。そしてしゃべりだした。
「・・・あのね。実はボク、絵村じゃないんですよ。悪気はなかったんですけど。つい、言い出す機会を失いましてね。・・・さっきの話ですけど、お手伝いさせてくれないかな。でないと、さっきの話、変なところにばらしたり、邪魔したりされるかもしれないよ・・・」